第30話:クッキー屋の社長、世界一の幸せを手に入れる

 同じベッドで眠って、起きて、笑って、あっという間に一週間が過ぎた。


「待ってるからな」

「何度もしつこい」


 もうすぐ搭乗時間だが、抱きしめた手を離したくない。

 

「逃げたら捕まえにいくからな」

「分かったから。もう、行って」


 小さくて細い顎を掴んで、艶やかな唇に口づける。


「早く来いよ」


 言葉の代わりに、キスで見送られた。



 日本に帰ったオレは、仕事そっちのけで物件選びに集中した。


 あいつにとっては久しぶりの日本だ。

 最高の環境を用意してやりたい。 


「まさか苺ちゃんが帰ってくるなんて。もしかして脅した?」

「んな訳ねぇだろ。想いが通じ合ったんだよ」


 何の用で来たのか分からない江里花を適当に相手しながら、不動産から紹介された物件を確認する。


「億ションはやめといた方がいいよ。苺ちゃん嫌いだから」


 その言葉にピタッと手が止まる。


 マジか。億ションしか探してないんですけど。


「ここなら気に入ってくれます」

「……商売上手だな」


 こいつ、自分ところの物件紹介してきやがった。


 会社から徒歩圏内の新築マンション。

 2LDKで家賃30万か。普通だな。


「お金にうるさい人だからね。無駄遣いすると嫌われるよ」


 勘のいい小娘は嫌いだ。


 なんでバレたんだろう。

 あいつに貢ごうとしてんのを。



 違う日に打ち合わせした桐嶋君にもバレてた。


「五月雨さん分かりやすいっスもん。好きな子にはとことん尽くすタイプでしょ?」


 そうだけど、そんなに分かりやすいだろうか。


「苺ちゃんはどのポジションで入社するんですか?執行役員とか?」

「いや、入社しないよ。取引先として関わってもらうことにした」


 最初はそう考えていたけど、社長の座を奪われそうだし、社内の人間関係がややこしくなるからやめた。


 あいつも日本で会社を立ち上げたいらしく、二人で話し合った結果こうなった。


「ますます会社が大きくなりますね」


 最強のパートナーが戻ってくる今、負けるイメージがまったく湧かない。

 クッキー缶ブランドとして、世界一の地位を確保するのも時間の問題だ。


「桐嶋君のおかげだよ。ここまで支えてくれてありがとう。これからもよろしくね」


 この子がいなかったら、今の“ichigo”はない。

 出会えてよかった。仲良くなれてよかった。


「……ッ、もう!相変わらずっスね!苺ちゃんが戻ってきたって、オレのポジションは絶対渡しませんから!」

「それは当然だよ。桐嶋君にしかできないことだし、君はいつまでもオレの大切なパートナーだからね」


 めずらしく返事がない。

 どうしたのかと顔を見ると、耳まで真っ赤になってた。


 急に発熱したのかな。

 今日はもうこの辺で終わらせよう。



 また別の日。

 山尾先生に追加融資の書類を確認してもらう。


「小娘が帰ってくるらしいじゃねぇか」


 白々しいな。全部知ってるくせに。

 オレが刑務所入ったことも出所したことも、全部この人があいつに教えてた。

 弁護士の守秘義務どうなってんだよ。


「よかったな」

「よくない!」


 初めて見せた先生の優しさに驚く前に、あせびが叫んだ。


 どうしてお前がいるんだ。

 江里花といい、ここは喫茶店じゃねぇんだぞ。


「もう少しで桔梗さんの右腕になれるところだったのに!」


 訳わからん。

 泣くほどのことか?


「桔梗、慰めてやれ。美女が泣いてんぞ」


 美女って。

 まぁ、そうだけど。


「あー、泣くな」

「下手くそか」


 うっせー!じゃあオレの代わりに慰めてくれよ!


「右腕が何かは知らんが、お前もオレの大事なパートナーだ」


 慰めの言葉じゃない。本心だ。


 あせびがいなければ“ichigo”のブランドコンセプトは決まらなかったし、バレンタインフェアも成功しなかった。


「こんな不甲斐ないオレだが、これからも見捨てず支えてくれ。頼りにしてるぞ」

「さすが生粋の人たらし。五代目そっくりだ」


 誉め言葉として受け取っておこう。

 親父そっくりと言われて、うれしくないわけがねぇ。


 だけど美女を泣き止ますことはできなかった。

 

 なんでだ!



 有休をとって、新居で荷解きをする。


 パリから荷物は送られてこなかった。

 だが不安はない。


 今日、あいつは帰ってくる。


 そろそろ迎えの時間だ。


 家を出ようと立ち上がったその時、


 ––ピーンポーン


 引っ越してきてはじめて玄関のチャイムが鳴った。

 もう息をひそめるなんてことはしない。


 ––ピーンポーン


 足音を立てて玄関まで歩き、のぞき穴を確認することなくドアを開ける。


「五月雨桔梗さんですか?」

「あぁ、そうだ」

「とりあえず中に入れてもらっていいですか?」


 手荷物はリュックだけか。

 そりゃ送られてこないはずだ。


 まだソファーしか置いていないリビングに案内する。


「とりあえず座って」


 お許しが出たので、隣に座る。


「私の名前は和蘭苺。これからの人生、あなたと歩んでもいいですか?」

「もちろんだ。今度はオレが、幸せを約束する」


 差し伸べられた手を握り、抱きしめる。


「お帰り、苺」

「ただいま、桔梗さん」


 今この瞬間、もう一度人生がはじまった。


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ムショ帰りの極道、クッキー屋さんはじめます 小林みつる @mitsuru_kobayashi

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