第29話:クッキー屋の社長、両手で宝物を抱きしめる
いっしょにいて分かったことが2つ。
料理ができない。
仕事をしていない。
毎食パン、コーヒー、フルーツもしくは野菜だけ。
火も使わないし、包丁もめったに使わない。
さすがに足りないからオレは冷食を食べるが、あいつはそれも食べない。
料理をしない理由を聞いたら「食べることに興味ないんです」と言われた。
なるほど、苦手うんぬんの話じゃなかったか。
食に興味がないなら、する気なんておきないもんな。
仕事に関しては、平日に家にいてもパソコンすら開かない。
オレのために休暇を取っているのかと聞いたら、クスっと笑われた。
「そんな親切じゃないですよ。仕事してないだけです」
「生活費とかどうしてるんだ?」
「会社を売却したので、その利益で生きてます」
忘れてた。こいつはビジネスセンスのある奴だった。
会社の一つや二つ立ち上げて、成功していてもおかしくない。
「悠々自適な隠居生活ってやつか」
「うらやましいです?」
「残りの人生退屈そうだ」
会社も何もかも放り出して、世界中を旅するのも楽しいだろう。
でもそれを50年間し続けたいかと聞かれれば、ノーだ。
やっぱりオレは“ichigo”と共に生きていきたい。
「日本には帰らないのか?」
「帰る場所がないですから」
実家は当然そうだろう。
江里花は?結婚したからダメか。
だったら……。
「オレは?」
「えっ?」
「オレは、帰る場所にならないか?」
楽しかったって言ったよな。
いっしょに暮して、楽しかったって。
もしかしたら、また二人で。
「なりませんね。あなた結婚してるもの」
……えっ?
オレって結婚してたの?誰と?
あれ?本当に記憶喪失しちゃった?
「指輪、してないけど」
「しないカップルもいるでしょ」
誤解してるぞ。盛大に誤解してる。
いっしょにいて誤解される人間は……あせびだ。
たまに二人で取材を受けたりしてるから、それを見て誤解したに違いない。
「じゃ、じゃあ、もし結婚してなかったら、帰ってきてくれるのか?」
苦し紛れに聞いてみる。
自分でついた嘘に苦しめられるなんてアホだ。
やっぱり嘘はついちゃダメだな。
「結婚してなかったら?」
「あぁ」
訝しげにこっちを見てくる。
少し考えて、口を開いた。
「それでも日本には帰らない」
期待した答えじゃなかった。
そんなにオレは頼りないんだろうか。
「帰ったところで、やることないですもん」
なんだ、そんな理由か。
「やることができたら帰ってくるのか?」
「いやにしつこいですね。そんなにこだわることです?」
「茶化さず、真剣に考えてくれ」
にやけた面が、一瞬で真顔になった。
スイッチの切り替えがうまい。
自分をコントロールできる賢い奴だ。
「やることの内容にもよりますけど」
そういうお前が、ずっとほしかったんだ。
「“ichigo”を支えてほしい」
垂れ下がった両手を握る。
「いっしょに生きてほしい」
両手で肩をかき抱く。
「残りの人生をオレにくれ」
やっと捕まれられた。
「やっぱり、記憶喪失なんて嘘だったんだ」
「悪かった」
「結婚は?」
「してない。パートナーもいない。お前だけだ。お前だけなんだ」
小さいな。
こんな小さい体で、一人で懸命に生きてきたのか。
「会いたかった。ずっと探してた。どうして消えたんだ」
もう離れたくない。
やっと半身を取り戻せたんだ。
「もっと、あなたの役に立ちたかった」
ポツポツと話してくれた。
苺はオレが刑務所に入ってる間、ずっとビジネスを考えてくれていた。
元極道が出所後に苦労することは、山尾先生から聞いたそうだ。
「海外展開は最初から考えていて、だから大学は海外って決めてたんです」
「教えてくれてもよかったじゃねぇか」
絶対「がんばってこい」って、笑顔で送り出してた。
遠くなる背中に「帰ってこいよ」って言ってやれた。
「記憶から消える程度の存在でいたかったんです」
だから素性も何も言わなかったのか。
ただ恩を返すってためだけにいたのか。
「消えるわけないだろ。どうやって消せばいいいんだ」
頭がいいくせに、バカだな。
人生を立て直してくれた恩人を忘れるわけないだろ。
「交通事故にあえば消えるかも」
「お前なぁ」
「うそ。もう二度とあんな思いしたくない」
垂れ下がっていた両手が背中に回されて、ギュッと服を掴んだ。
「私だって会いたかった。でも、もう役に立てそうもなくて、理由が見つからなかったの……!」
顔が胸元にうずまって、表情は見えない。
だけど、震える声と握りしめる手で分かった。
「オレだっていっしょだ。お前の役にも立てねぇ、理由もねぇオレは、会いにきたらダメだったか?」
やっと顔を上げてくれた。
大きくて丸い目がもっと丸くなって潤んでいた。
「オレもお前も、お互いが必要なんだ。帰ってきてくれよ、苺」
7年待ったんだ。
これ以上はさみしくて死んじまう。
もう降参してくれ。
「名前……」
「ん?」
「初めて呼んでくれたね」
オレも負けず劣らずの頑固だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます