第28話:クッキー屋の社長、知りたかった過去を知る
目的地だったアパートに着く。
パリらしく、築100年以上は経っていそうな古い建物だ。
エレベーターはなく、4階まで階段を上る。
「単身用だから狭くてすみません」
単身用と聞いてホッとした。
「コーヒーでいいですか?」
驚いた。
そんな気遣いをオレにしてくれるのか。
「紅茶にします?」
「あっ、コーヒーで」
代替案までくれるなんて!
記憶喪失のフリしてよかった!
淹れてもらったコーヒーをひと口飲む。
「うまいな」
プロが淹れる味だ。
「お口に合ってなによりです」
うれしそうに、穏やかに笑う。
お前、そんな顔もできたんだな。
「そうだ、これ食べたら思い出すかも」
どこかへ消えて、見覚えがありすぎる缶を手に戻ってきた。
「見覚えあります?」
「いや……」
弊社のクッキー缶です。はい。
食べ慣れたクッキーだ。
フランスでも日本と同じ味で安心した。
クッキーといっしょにコーヒーも飲む。
「合うな……」
驚いた。
クッキーにピッタリの味わいだ。
「あっ、うれしい。それに気づいてくれて」
ニコニコ笑ってる。
これも初めて見る顔だ。
「クッキーがもっとおいしく感じるでしょ?」
「あぁ、うまいよ。これのために?」
特別であってほしい。
このクッキーが、あの日々が、お前にとってもそうであってほしい。
そんな願いをこめて聞いた。
「そう。世界で一番好きなクッキーだから」
どこか遠い目をして、懐かしそうに笑った。
「あなたは忘れているけど、私、あなたと暮らしてたことがあるの」
覚えてるさ。
忘れたことなんて一度もない。
「あっ、こういう思い出話ってしていいのかな」
記憶喪失のことを気にしてくれてるのか。
自分がついた嘘とは言え、面倒なことをしてしまった。
だけど、知りたかったことが知れるかもしれない。
「話してほしい。オレも知りたい」
この7年間、考え続けた答えがほしかった。
「9年前、あなたが出所したって聞いて、あー、これも話していいのかな」
言いづらいよな。
刑務所に入ってた極道だったなんて。
「大丈夫だ。全部教えてくれ」
戸惑いながらもあの日のことを話してくれた。
それは、苺の過去にもつながる話だった。
「私が高校1年生だった時、あなたに助けてもらったの」
記憶喪失じゃなくて、頭の中にその記憶はない。
助けた女子高生といえば、江里花のことしか思い浮かばない。
「当時は家に居場所がなくて、夜の街にいたんです。でも優しい場所じゃないから、危ない目に何度もあいました」
夜の街でずっと生きてきたから分かる。
あの世界で子どもは大人のエサだ。
「親には虐待されて、逃げた場所でも暴力を受けて、死んでしまいたいって何度も思った」
お前もオレと同じ苦しみを受けてきたのか。
「でもそんな時、あなたに出会ったの。はっきり覚えてる。あの日は雨で、ずぶ濡れの私に一本しかない傘をくれたんです」
小さく笑う顔は、少しだけ歪んでいた。
「大丈夫か?って言ってくれたの。そんなこと生まれて初めて言われたから、ビックリしちゃった」
16年間、誰もこいつに心を配らなかったのか。
誰にも関心を持たれず、ずっと一人だったのか。
それがどれだけ辛いことか、想像すると目の奥が熱くなる。
「出所したって聞いた時は、やっと恩返しができるってうれしかった。あなたが辛い思いをしてたら、今度は私が助けるんだって、ずっと思ってた」
やっと分かった。
オレのところに来た理由も、尽くしてくれた理由も。
たった傘一本のことを、そこまで大切にしてくれていたのか。
「同じ目標に向かって、いっしょにがんばる毎日は楽しかった。偶然だと思うけど、このクッキー缶に私の名前をつけてくれた時は、本当にうれしかった」
偶然じゃない。
お前の名前をつけたんだ。
唯一無二の特別な名前を。
「あなたは私の恩人なの。今でも特別な人。だから、記憶を戻るまでお世話してあげますよ」
言ってしまおうか。
記憶喪失は嘘だって。
全部覚えてる。
オレだって、お前が特別なんだ。
でもまだ知りたいことがある。
もっと、オレの知らないこいつを知りたい。
「ありがとう。お世話になります」
「記憶が戻ったら、クッキー焼いてね。久しぶりに食べたいの」
可愛らしいお願いをするんだな。
いくらでも焼いてやるよ。胸やけするぐらい。
一週間ここで世話になろうと思ったが、そうはいかなかった。
「ホテルぐらいとってるでしょ?今確認するからちょっと待ってて」
忘れてた。
こいつ、江里花と繋がってるんだった。
「一人は不安なんだ。ここに置いてくれないか?」
このチャンスは絶対に逃したくない!
情けない自覚はあるが、なりふり構っていられるか!
「部屋ないですよ?」
「リビングでもどこでもいい!頼む!追い出さないでくれ!」
あの日と立場が逆転してる。
今はオレが土下座をしてる。
「分かりました。そのかわり、狭いって文句言わないでね」
「もちろんだ!ありがとう!」
あの日の続きが始まる。
もう一度、二人で暮らせるんだ。
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