アキ



 ひと月余り逢わなかった人に招かれ、此処へ来ていた。

 夜半のうちに降りた水の粒で、地面はごく薄く化粧をして光っている。うす曇りの早朝は未だ蒼く、仄暗い。

 ぽつぽつと卯木ウツギのひらく垣に沿って進むと、ヒノキの数寄屋門が開かれている。

 ひと抱えもあるような煤光りのする門柱の傍へ、いつも通り、主が立っていた。

 番傘を提げ持っている。撫子ナデシコを染めぬいた緋色の傘で、梅雨前に僕が贈ったものだった。



「お早うございます」


「お早うございます」



 彼女は、袖口から小さな銀の炉を取り、差し出した。



「お手もとに、」



 毬形の表面には唐花の透彫が施され、紋様に沿って燻した銀が鈍く光る。それが肌理細かな白いたなごころに載っている姿を見て、両者が離れるのを惜しく思う。

 下手しもてに包むと、円い重みとともに、冷えた指先をじんわりと温めた。

 内側の自在には小さな炭が熾こしてあり、熱灰に沈香の刻がいてあった。甘い匂いが古渡こわたりめいて、鼻腔と心を満たしてゆく。

 彼女を見やると、寒さで僅かに上気した頬で微笑ましく、そしてやはりこちらを見ているのだった。





 僕は何も云わず、懐から自分の炉を差し出した。丹紅がかった美濃焼の炉だ。

 彼女の睫毛が迷うように動いたが、そろそろと手を伸ばし、受け取った。小指が僕の掌を掠めてゆく。

 彼女は浅く一礼し、顔を背けるように俯いた。右の手は炉とともに、じっと袂に収まっている。半襟から伸びた白い首筋には、細い黒髪がするりと落ち、耳は仄かに色づいている。

 彼女の手首から傘をあずかり、庭へ入った。



 袖の内に互いの温度を感じながら、玉砂利の庭を歩む。

 足下にしめやかな音を立て、彼女はじっと瞼を伏せ、僕は庭の山査子サンザシの枝が露を湛える様を眺め、緩やかに歩を進める。

 南天ナンテンの枝から、遠慮がちに二、三度、雀が啼いた。

 羽毛が覆っているとはいえ、其処は寒くはないか。

 呼吸のたび、澄んだ空気が胸のあたりを締め付けた。



 竹簀戸をくぐると辺りはいっそう翳り、苔むした土に飛石が顔を出す。見慣れたはずの引戸の、飴色味がやや濃くなったように見えた。

 手水の水盤には、菊の花弁がいくらか散っている。重陽の用意をひとりで行う彼女の姿を、瞼の裡に思う。これから、此処で何度季節が巡るのかを。

 からり、と丸い音を立てて戸が敷居を滑り、庵が開いた。







 彼女が水遣みずやに立ったあと、銀の炉を床へ戻し、懐から畳紙たとうを取り出した。

 出がけに包んできた、ひと匙分の沈香だ。そして、中身を志野棚の中段に置かれた香合へ足しておく。

 それこそが、僕がここへ来た理由でもあった。

 彼女は、この屋敷の垣から外へは出られない。




ーーーーーーーーーーー




 帰りのみちすがら、高瀬川は浅い流れに銀杏イチョウを浮かべていた。しのびゆく雨が気まぐれに波紋を描く。

 傘を勧められたが、そのまま出てきた。薄墨色をした雲を見て、強く降ることはないだろうと見越した。



 川端かわべりの料理屋の格子窓に燈が灯った。柔らかい光を湛えた水面には、冬間近の冷たさが静かに響く。

 対岸ちかくには青鷺が身じろぎせず佇み、先刻の名残が袖口に揺れる。

 瑠璃つづく水の音が僕の耳を撫でた。







【了】




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アキ @aki_aki5

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