Ex. 恋人たちの日

 あら、お久しぶりですね。今年は雪も少なく、小鳥さんたちも少し寂しそうですがいかがお過ごしですか。わたくしですか? ええ、のりんごの木は枯れてしまいましたが、おかげさまで声も出るようになり、元気にすごしております。


 そうそう、りんごといえば——。


「おい、いつまで虚空に向かって話してるんだ。そろそろ開店だぞ」

「虚空になど向かってはいませんよ。わたくしのまーけてぃんぐがいかに有効かはすでにトーゴさんもご存知のはずではございませんか」

「そうだったか?」


 トーゴさんはあんなことをおっしゃいますが、このお店の売り上げは、わたくしのおかげで上昇の一途をたどっておりますからね!

 え、小鳥さんの宣伝がそんなに効果的なのかですって? いえいえ、あれ以来たいへん残念なのですが、小鳥さんたちの言葉を聞くことはできなくなってしまったのです。でも、ノームのおじいさ——ぴちぴちのノームさんとは時折お茶をご一緒させていただいておりますし、魔女さんが参加されることもございますので、不思議がすべて消えてしまったわけではないようなのですが。


 それはさておき、お店の宣伝ですが、常連さんから教えていただいたいんすたぐらむで、お店のケーキを毎日、時々トーゴさんのお写真も投稿するようにしてみたのです。ちなみにトーゴさんはいつも不機嫌な横顔ばかりなのですが、ケーキだけのときよりも、明らかにお客さまのご来訪が増えるのですから不思議なものですね。


 あ、そうそう、なんとトーゴさん監修のレシピ本も出版されたのですよ。おかげでケーキは毎日夕方には完売してしまうほどになりましたが、もちろんずっとお世話になっている常連さんにはお取り置きも承っておりますから、まったく買えない、なんてことはございませんのでご安心を。


 そんなご縁で、他のめでぃあで、なかのひと、の、わたくしも含めた取材のお申し込みもいただいたのですが、トーゴさんがどうしてもそれはだめだとおっしゃるのです。売り上げ向上にはとにかく余念のない方なのに、いったいどうしてでしょうね?


「どうして、じゃねえよ……」

「だってトーゴさんがご説明してくださらないから」


 ぷうっと頬をふくらませたわたくしに、トーゴさんはため息をつきながら、カットしたケーキを持ってカウンターの方にいらっしゃいました。お盆に載せられているのは表面が真っ黒いチョコレートでコーティングされたザッハトルテ。飾りも何もない、見た目はごくシンプルな黒いそのケーキが本日の主力商品メインです。


 そう、本日はバレンタインデー。トーゴさんはショコラティエではありませんので、チョコレートだけという商品は残念ながらございません。その代わりに小さめのホールのチョコレートケーキや、チョコレートとスポンジの層がうつくしいオペラ、焼き菓子としてブラウニー、たっぷりチョコチップを混ぜ込んだクッキーなどもご用意がございますよ。


「とはいえ、いちばんおすすめのケーキが真っ黒で飾りも何もなし、というのは少しさびしい気もいたしますね」

「そう思うだろ?」


 ニヤリと自信ありげに笑ったトーゴさんは、ザッハトルテをショーケースに並べ終えると一つだけ取り出しました。そうしてお皿に載せてフォークでひと刺しすると、わたくしに差し出します。そういえばこちらのケーキは試食がまだでした。

 フォークの先を口に含みますと、硬いチョコレートの感触とスポンジが舌に触れました。少し甘さを押さえたチョコレートが大人の味です。ところが、ぱきりとしたその表面を噛んでみると、ふんわりと不思議な風味が口の中に広がりました。甘くて、すうっとしたこの香りは——。


 ぷぅっと再び頬をふくらませたわたくしに、トーゴさんが苦笑なさいます。だって、仕方がないではありませんか。厚めにコーティングされていたチョコレートのそのすぐ下、スポンジとの間に潜んでいたのは、この季節とにかくちやほやされるオレンジのピールがたっぷりはいったジャムだったのですから!


「仕方ないだろう。りんごとチョコレートは合わないんだ。お前がそうやって機嫌を損ねるから今年はオレンジのチョコレートがけオランジェットも控えただろう」

「だからって、不意打ちのようにこんな……!」


 わなわなとこぶしを握り、肩を震わせたわたくしを、トーゴさんはそうっと抱きしめます。けれどもその胸が、わたくしとはちがう理由で震えているので、くつくつと笑っているのが伝わってしまうのです。


「地味なケーキに見せて、オランジェの風味がいいアクセントになる。美味かっただろ?」

「ですから、なおさらです」


 わたくしとてこのお店の看板娘。旬の素材で何より美味しいデザートを作るトーゴさんの腕は信用しておりますし、その需要も重々理解はしております。

 けれども、の木は黒く立ち枯れ消えてしまったとはいえ、りんごは何より思い出深い果物です。他のものがされていれば、やっぱり面白くないのが人の心というものでしょう。


「人の心、ねえ」

「わたくしをなさったのはトーゴさんではありませんか」

「それはそうだな」


 相変わらず低く笑いながら、けれどその声に宿ったとても暖かい響きを、わたくしは聞き逃すことはできませんでした。


わか


 わたくしの名前を呼ぶたびに、大切な宝物を扱うように込められたその響きの意味を、わたくしはもう知っています。頬を包み込むトーゴさんの大きな手の温もりも、こちらを見下ろす時の、以前とは違うとびきり甘い光を浮かべる穏やかな瞳の意味も。

 そうしたすべてに、わたくしも絆されてしまって笑みを返してしまうのです。


 近づいてきたトーゴさんの顔にうっかり見惚れておりましたが、慌ててその腕から抜け出します。


「何だよ?」

「お、お客さまがもういらっしゃっていますよ!」


 トーゴさんが不満げに鼻を鳴らすのと同時に、お客さまの来店を告げるベルがカランと鳴りました。本日最初のお客さまは、ふわふわの髪の毛が天使のように可愛らしいお嬢さんと、お連れのお姉さんです。

「りんごちゃん、トーゴさんといちゃいちゃだね!」

「はい、それはもう。トーゴさんはわたくしにとって、誰よりも大切な方ですから」


 カウンターの後ろから、ごほごほと咳き込む声が聞こえてきましたが、わたくしはお客さまとともににんまり微笑みます。


 どんなに意地悪なそぶりを見せても、トーゴさんにとっての一番の果物がりんごなのは間違いないのを——実はトーゴさんがずっとりんご酒入りのチョコレートを試作しているのを、そしてショコラティエでないあの方が苦戦しているのも——存じ上げているのは、ここだけの秘密にしておいてくださいね。

 きっと来年の今頃には、とびきりのりんご酒入りチョコレートボンボンが新商品として登場するはずですから。


 ともあれ、本日が皆さまにとって素敵な一日になりますように!

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緑森洋菓子店と齢七年のりんごの木 橘 紀里 @kiri_tachibana

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