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Episode 0. みっかめにいただいたもの

 その方にはっきりと気がついたのは、雨がすっかり止んで、お日様の光がきらきらと輝き出した頃でした。芽を出して三日目のわたくしの目の前に、何だかくたびれたずぶ濡れの顔があったのです。頬には黒いものがまばらに生えていて、不思議に思って触ってみると、ざらざらしていました。


 閉じていた目がぱっと開いて、ひどく驚いたようにわたくしをじっと見つめます。

「お前……?」

「ずいぶん濡れていらっしゃるようですが、大丈夫ですか?」

 できる限り丁寧にそう申し上げたのですが、お返事はありません。ぬかるんだ地面に膝をついたまま、呆然としたようにわたくしを見つめています。もしかして、お風邪でも召してしまって、熱でも出てしまっているのかもしれません。だとしたら大変です。


 ふと見れば、その方の肩越しには建物が見えました。あちらにはどなたかがいらっしゃるかも——そう考えて身を翻そうとしたわたくしの肩を、強い力が掴みました。


「——なのか?」

「はい?」

「……名前は?」

「名前……ですか?」


 どこか必死に問いかけるその方に首を傾げながらも、自分の中を探してみましたが、それは見つかりませんでした。不思議なことですが、そのときわたくしは何の疑問も抱かずにこう言っていたのです。


「名前はまだないようです。素敵なものを考えてくださいますか?」


 そう言ったわたくしに、今度こそ、その方は目と顎が外れそうなほどに大きく開いて、わたくしをじっと見つめました。


「何で俺が……」

「だって、植えてくださったのはあなたでしょう?」


 どうしてこの方が手ずから植えてくださったことを知っているのか、その時は疑問にも思いませんでした。

 その方は、わたくしの傍にある小さな芽——わたくしそのもの——をご覧になって、少し考え込むようにしてから、ごく自然にわたくしを抱き上げました。ずぶ濡れのその体は冷え切っていて、けれども力強いその腕にいだかれて、何だかとても安心したのを今でもよく覚えています。


「——」


 小さな声で耳元に囁かれたその言葉がわたくしの名前だと、すぐにわかりました。理由はよくわからないのですが、すとんと胸に根付いてしまったのです。まるで、初めから知っていたみたいに。


「ありがとうございます。とっても素敵な響きですね」

「お前の瞳の、その色だ」


 ふわりと笑ったその顔は疲れきっているのに、何だかとっても嬉しそうに見えました。

「どうしてそんなに嬉しそうなのですか?」

 そう尋ねたわたくしに、けれどもその方はほんの少しだけ意地悪な顔をして笑ったのです。

「秘密」

「ひみつ、ですか?」

「お前がちゃんと育ったら、教えてやるよ」

 肩を竦めてそれ以上は決して話そうとはしないその方に抱えられたまま、わたくしはあたりを見回しました。深い森の端の小さな建物。わたくしの視線の先を追って、その方はそれまでとは少し違う、誇らしげな声を上げました。

緑森みどりもり洋菓子店、だ。まだオープンしたてだけどな」

「ようがしてん、ですか? なるほどわたくしは、そのために植えられたのですね」


 みずみずしいりんごわたくしの果実を、とっても素敵なデザートにしていただくために!


 そう合点したわたくしに、けれどもその方は、ほんの少しだけ変な顔をなさいました。その本当の理由を知るのは、もっとずっと後のことでしたけれど。


 それが、生まれたばかりのりんごの木の精霊のわたくしと、トーゴさんの出会いだったのです。

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