リアルマン・ノンフィクション

斧寺鮮魚

最終回 ドア・トゥ・ドア・ルーム

 ――――そして、男はまた扉を前にした。

 もう、老人と言って差支えの無い、その男が。


 ハリボテの林。偽りの空。

 描かれただけのそれをつまらなそうに撫で、巧妙に隠された取っ手に手をかける。

 深い落胆が、老人の心に黒くのしかかった。

 すっかり痩せこけて、骨と皮のようになってしまった、自分の手を少し眺める。

 それから、一瞬だけ後ろを振り返って――――空いた手で白髪をかき上げてから、「さようなら」を口にして。


 ずっと繰り返してきたことだ。

 もう、88度は繰り返してきたことだ。

 かれこれ、70年は繰り返してきたことだ。


 もう一度、扉に向き直る。

 いつだって、この瞬間には深い落胆があり――――直後に本当に一瞬だけ、期待に胸が膨らむ。

 今度こそ、と祈る自分がいる。

 次こそは、と望む自分がいる。

 ……そして、またどうせ、と希望を暖炉に投げ込む自分がいる。


 またどうせ、裏切られるのだ。

 この希望も、期待も、夢も、祈りも。

 いつか――――いつか、ただ平穏に、安穏に、ごく普通に、生きていきたいだけなのに。

 その望みを88度裏切られ、その願いを70年裏切られてきた。

 だから、一瞬だけ沸き上がった希望に蓋をして、扉を開くのだ。

 鉛のように冷たく重い絶望を抱えながら、それでも。

 扉を開いて――――その一歩を、踏み出すのだ。


「……やぁ、よく来たね」


 扉を開けば、そこはやはりというか。

 幾度となく見て来た、小さな部屋だった。

 薄暗くて、パッとしない、乱雑に物が積まれたバックヤード。

 まるで舞台袖か、編集室、警備室か。

 作業用と思わしきPCがいくつかと、書類がたくさんと、飲みかけのコーヒーと、椅子に腰かける男。向かいに椅子がもうひとつ。電気は薄暗く。

 男は老人が来ることを知っていたかのように――――いいや、実際知っていたわけだが――――歓迎する態度を取った。

 年齢は、30代程度だろうか。

 若いな、と老人は思った。眼鏡をかけて、少し太った、陽気そうな男だった。


「いらっしゃい、リアルマン。会えて光栄だよ。コーヒーは入れるかい?」


 リアルマン――――そう呼ばれた老人は、疲れのにじむため息をひとつ。

 それから観念するように、対面の椅子に深く腰掛けた。

 重く、深く。痩せこけた老人の姿は、実際の大きさ以上に小さく弱弱しく見えた。


「結構だ。気分じゃない」

「寂しいな。でも、話には付き合ってくれるんだね」

「……白状すれば、この時間が決して嫌いじゃない。本当に腹を割って話せるのはあんたらぐらいだ。くそったれ。約束もしたしな」

「多少の罪悪感は感じているよ、リアルマン。ちなみにサインは貰っても?」

「机の端でよければ書いてやる」

「ありがとう。一生の自慢にするよ」


 作業机の上に置かれたマーカーで、机の端に適当に自分の名前を書く。


 リアルマン。

 ……それが、老人の名前だった。

 最初の世界からずっと、この名前で生きて来た。

 88の世界を、70年。

 生まれた時からずっと――――偽りの世界で生き、それを消費されてきた哀れな道化役者。


「こちらも白状するなら……実はあなたのファンなんだ。あなたに憧れてこの業界に入った。こうして会えたのは本当に光栄でね。ちょっと緊張してる。はは」

「そうか。……何作目が好きだ?」

「えっ! 弱ったな。弱った! 弱ったぞ。いざ聞かれると悩むなぁ……いやもちろん僕の中で思い出深いのは最初に見た18なんだけど、でも完成度で言えば初代と2の連作は外せないところもあるし、いやでもオチとしては52が好きなんだよなぁ……絵作りで言えば65で間違いないんだけど……」


 男は興奮気味にまくしたてた。

 老人はそれを見て、ふ、と笑った。

 笑って、憎悪を燃やした。

 怒りを燃やした。

 心の中にある暖炉が、ごうごうと燃え上がっていた。くそったれ。


「光栄だよイカレ野郎ども。人のことをなんだと思ってるんだ。お前たちは全員クソだ」


 天を仰いで、吐き捨てる。

 むき出しの配線が並んだ天井が見えた。空よりは好きな光景だ。多分、本物だから。

 痛罵を受けた男は少しだけ申し訳なさそうな顔をしていた。

 少しだけだ。当たり前だ。


「このセリフも随分言った。当然お前はご存じなんだろうな、そのぐらい」

「ファンとして答えるなら、答えはYESだ。これで59回目だね。もう一度言うが、多少の罪悪感を感じているってのはほんとだぜ」

「多少じゃ生温いだろ。俺はそう思うよ」


 ……リアルマンの一生は、エンターテイメントとして消費されている。

 そのことに最初に気付いたのは、20代の頃だった。

 何かがおかしい日常。何かがおかしい人々。広告。島の中での生活。

 全部が欺瞞で、全部が虚構だった。

 リアルマンが生まれた瞬間から、全ては偽物だった。

 彼の人生は――――番組として、全世界に放送されていたのだ。常に。いつだって。

 父も、母も、友人も、恋人も、街中の人間全てが、役者だった。

 それらは全部役割で、本物なんてどこにも存在しなかった。

 台本が用意されていて、彼らはその通りにリアルマンの人生を演出した。

 全部全部全部、演出に過ぎなかったのだ。

 番組の名は、『リアルマン・ノンフィクション』。

 虚構に塗れた、一人の男の人生を演出し続けるリアリティショー。

 あの世界でそのことを知らなかったのは、リアルマンだけ。

 空はスクリーンで、雨はスプリンクラー。風は空調で、太陽は光源に過ぎなかった。


 あの時、ふとした切っ掛けで欺瞞に気付いたリアルマンは、紆余曲折を経て世界の果て・・に到達した。

 海の向こうの、書き割りの水平線。

 そこにある扉を出て――――――――外の、本当の世界に飛び出した。


 ……その、はずだった。


 はず、だったのに。


「俺の好みを言うのなら――――最悪だったのは二回目と三回目だ」


 脱出した、と思った。

 街を歩けば自分は有名人で、道行く人は「あんたの番組を見たよ」なんて声をかけてきた。

 その時はまだ、複雑ながらもそういった言葉を喜びと共に受け止められた。

 ここから、リアルマンの本当の人生が始まるのだと思った。

 台本の無い、役も無い、真に自由でリアルな真実の人生だ。


 でもそうじゃなかった。


「息子もいたんだぞ」

「別れのシーンは今でも語り草だよ」


 偽りの世界から出て――――そこもまた、偽りの世界だったのだ。

 その事に気付いたのは、もう、妻と出会い、子を授かった後のことだった。


 リアルマンは選択を強いられた。

 偽りであることを受け入れて、妻子と共に箱庭で生きていくか。

 それとも、安寧を捨ててこの箱庭から出ていくか。


 答えは決まっていた。

 偽りの幸せで満足なら、最初の世界を飛び出してなんていなかった。

 あそこには父がいて、恋人がいて、親友もいたのだ。

 それらを捨ててでも、“リアルな人生”が欲しかった。


 妻は、役を越えて貴方を愛していると言ってくれた。

 生まれたばかりの我が子を連れて、一緒に外の世界へ飛び出した。


 箱庭の外の、そのまた外。

 妻と共に、我が子と共に、ようやく自分の人生を始められる。

 ……その思考のどこかで、また・・なんじゃないかと思っていたのは……認めよう。事実だ。

 結論から言ってしまえば、第三の世界もまた作り物の箱庭だった。

 

 …………そして、そこは本当に最悪だった。

 そこからは・・・・・と言うのが、正しいのかもしれないが。


 第三の世界では────────“リアルマン”が一人じゃなかった。


 いいや、リアルマンは一人だ。クローンや兄弟がいたわけじゃない。

 ただ、そこの人々の中には……この世界を箱庭だと知らない住民が何人もいた。

 リアルマンと同じだ。

 エンターテイメントとして人生を消費される、無知で哀れな道化たち。


「……マンネリを防ぐためにね。まぁテコ入れさ。そう言われてる。当時の製作陣のことはわからないけど……」

「ドラマチックな展開だったな。あんたらは俺を英雄にしようとした。俺をスパルタクスにしようとしたんだ」

「そう。奴隷解放の英雄にね。あなたには実績があった」

「くそくらえだ。俺はそんなこと望んじゃいなかった」


 彼らはリアルマンにすがった。

 それか、真実を認められずに発狂した。

 自分もまた、偽りの箱庭に閉じ込められた人形道化なのだと、思い知らされたその時に。

 彼らにとってリアルマンは、二度も偽りの箱庭を破壊した英雄だ。

 ……あるいは、二度も安寧の箱庭を破壊した悪魔でもあった。

 事実を知った時、哀れな道化たちはみな正気ではいられなかった。


 ────────それは、前の世界から連れてきた妻もそうだった。


 無理もない、とリアルマンは思う。

 耐えられるほうがおかしいのかもしれない。

 自分の生きてきた世界が全て偽物で……もしかしたらその偽物の箱庭に、果てなんて存在しないのかもしれない、なんて想像は。


 妻は耐えられなかった。

 だから彼女とは第三の世界で別れて、それきりだ。彼女は息子を抱いたまま、どこかへ去っていった。


 リアルマンは悲しみに暮れたが……箱庭からの脱出を望む人々を連れて、第四の世界に向かった。

 もちろんそこも偽物で、そこにも“リアルマン”はいて、それこそ奴隷を引き連れて帝国と戦ったスパルタクスのように、リアルマンは次々と偽りの箱庭を踏み越えていった。

 ……彼らも途中で耐えきれなくなって、一人、また一人とどこかへ去っていってしまったが。

 その後も仲間を増やしたり減らしたりしながら、今は一人で箱庭からの脱出を続けている。もう仲間は作らないと決めていた。疲れたのだ。


「もう随分長いことこうしてきた。まるで無限に続くマトリョーシカだ。開けても開けても、中から次が出てくる」

「このシリーズの重大なテーマのひとつだ。『エターナル・チャンピオン』だね。終わらない戦いと英雄の物語」

「コマーシャルか?」

「あなたの影響で再注目されてる。今度新作映画がロードショーさ」

「俺も偉くなったもんだ」


 悪態をつく。

 男は苦笑とも呼べぬ奇妙な表情を浮かべながら、静かに飲みかけのコーヒーの続きに口をつけた。

 緊張しているのか。まぁ、それはそうか。

 大事なラストシーンだ。緊張もするだろう。

 だが、構うことは無い。

 こっちにだって、用事はあるのだ。


「そろそろいいか」


 言って、ゆっくりと立つ。

 男ははっとして、困ったようにおずおずと立ち上がった。


「約束なんだ」

「いや……わかってる。できれば……まぁ死なない程度に頼むよ。そうされても仕方ないとは思うけど……自分の作品はできれば自分で仕上げたい。あなたの前で言うことでもないが」

「まったくだ」


 適切な距離を取る。

 腰を落とし、足を大きく開く。

 ……もう70歳なんだ。厳しいものがある。

 厳しいものがあるが――――まぁ、約束だ。


 ――――ばき、と。


 リアルマンは慣れた所作で、男の頬を殴り飛ばした。

 腰の入った、綺麗なパンチだった。

 男の体が派手な音と共に後ろに倒れ、がらがらと物を散乱させながら机にぶつかる。


「~~~~~~~~~~っ………………!!!」

「……手が痛い。老人がやることじゃないぞ、まったく」


 それを興味なさげに一瞥して、リアルマンはどかっと椅子に座りなおした。

 痛む手をぶらぶらと振って、痛みを逃がそうとする。

 人を思い切り殴るなど……老体には、大分厳しいものがあった。


「………………はぁ。これで約束は果たしたぞ」

「いてて……こ、光栄だよ。名シーンの当事者だ」

「くそったれ。少しは浸らせてくれ」


 よろよろと立ち上がって席に戻る男に、舌打ちをする。

 …………約束だった。

 この、88個目の世界で出会った一人の男との、約束だ。

 この世界を出て行ったら――――“作者”のことを思いっきり、ぶん殴ってやってほしい、と。

 何度か似たような約束はしてきた。

 その度に、リアルマンは約束を果たしてきた。

 ……多分、名物シーンになってるんだろうなと思う。

 クライマックスのお約束ってやつだ。くそったれ。本当にどうしようもないクソだ。


 喫煙者なら煙草を吸いたくなる場面だろうか。

 生憎、リアルマンに喫煙の趣味は無かった。健康に暮らす模範的な広告塔だ。くそったれ。

 一度反抗心から吸おうと思ったこともあったが、どうにも合わなくてやめた。

 その下りも名シーンとして語り草になっていると聞いた時は、しばらく食事すら億劫になったものだ。スポンサーは安心したのだろうか。煙草の放送規制はかなり厳しくなったと聞いた。テレビなんてほとんど見なくなったから、伝聞でしかないが。


 ――――それが、エンターテイメントとして一生を消費されるということだ。

 食事や趣味ですら、誰かの娯楽としてああだこうだと評価を付けられ、記録されていく。

 真の意味での自由なんて、どこにもないのだ。

 いつだって、常に、どこでだって、リアルマンは誰かに、あるいは誰しもに見られているのだから。


「……………なぁ。あんたも“リアルマン”か?」


 そしてこれも、お決まりのシーン。


「ああ……多分そうだろうね。僕はこの世界で生まれ育ってるし、役者じゃない。まだ上はあるんじゃないかなぁ」

「落ち着いたもんだな。自分の人生が偽りだってわかってるのに?」

「あなたの活躍は社会現象だ。偽りと真実、どちらを選ぶかはモラトリアムが終わるまでに決めるのが普通だよ」


 それを聞くと――――少しだけ、リアルマンの中の罪悪感がかまくびをもたげる。

 自由になりたくてここまで来た。

 ……それだけのために、どれだけの人々を恐怖させ、破滅してきたのだろう。

 乗り越えて来た世界の数は88個で、そこにいた人々の数は……数える気にもなれなかった。


「大した社会だ。俺ですら……足を止めたくなることもあるのに」

「時折、世界からの脱出をせずにゆっくりと生活を楽しんでいるのは……それが理由かい?」

「休息ぐらいはな。させてもらったって構わんだろう。……俺ももう随分な爺だ。だいたい、好きで世界を滅ぼしてるわけじゃない」

「滅ぼす! オーバーな表現をするね、リアルマン。あなたは外に出ているだけだろう」

打ち切り・・・・になった世界の行方を、俺が想像できないと思うか?」

「………………………………………………」


 ……この世界は、番組だ。

 リアルマンは主役だ。

 じゃあ、主役がいない世界は?

 …………維持する理由なんて、ないだろう。

 明言されたことは、これまで一度も無かったが。

 確認だって……なんとなく、できなかったが。

 一度開いた扉の向こう側がどうなっているのかなんて――――だいたい、予想はできた。

 リアルマンは罪人だった。

 少なくとも、己の思う限りでは。


「……それでも、あなたは次の世界を目指すんだね」

「もう止まれないところまで来た。今更過ぎる」


 それがわかった上で、止まれないのだ。

 スパルタクスが行軍の途中でいち抜けなんてできるものか。

 例えついてくる奴隷が一人もいなくなったって、託された思いだってある。積み上げてきた屍の数もある。

 ……今更だ。

 本当に。


「次の……僕たちの世界はいいところだよ。ゆっくりしていくといい」

「この流れでそれを言うのかよ、くそったれ」

「命乞いぐらいはさせてくれよ。それに、今回のシーズンは小説版の連載もあってね。そっちも僕が担当してる。最終回が掲載されれば単行本も出る予定なんだ。刊行される瞬間ぐらいは見届けたい」

「巧妙な命乞いだな! 本当にクソだ、お前らは!!」

「申し訳ないとは思うさ」


 そりゃあ、かれこれ88シーズン、70年分の人生を男は知っているわけだ。

 性格的な弱点の把握なんか、当然していてしかるものだろう。

 彼が同類で、ささやかな願いがあると面と向かって言われれば、ないがしろにはできない。

 リアルマンはそういう男だった。だから人気キャラクターなのだ。くそったれ。誰がキャラクターだ。

 いつからか口癖になってしまった悪態を三度唱え、リアルマンはかぶりを振る。


「…………あんたは……怖くないのか。自分の人生が偽物だってことが。消費されてるってことが。自分の足場が薄氷に過ぎないことが」

「怖いさ。そりゃあね。あなたを最初に見た時からずっと考えてるし、怖がってる。この世界の打ち切りも近そうだしね。いよいよ怖いよ」


 けれど、と。

 言葉の割には穏やかな表情を、男は見せた。


「この仕事をしていると――――迷うことが色々ある。ここはどんな表現を使おうか? 間をどのぐらいあけるべきか? このエピソードはどこに挿入するべきかな? 視点はどこに置くのがスムーズだろう? いつも考えて、考えて、結論を出す。それが世に出ていく」

「表現される方からすればたまったものじゃないがな」

「恐れ入るよ。でも……その選択だけは、誰かの脚本でも、誘導でもないと思うんだ。僕の、僕だけの真実さ。この世界に神様がいたとして、セリフの最後にクエスチョンマークをつけるかどうかまで決めると思うかい?」

「どうかな。だが……悪くない答えだ。殴って悪かった。殴ったことを間違いだったとは思わないが」

「いいさ。あなたにはその権利がある」


 ……リアルマンは、静かに立ち上がった。

 頭髪は白く染まり、すっかりと痩せこけ、枯れ木を思わせるような、老人だ。

 それでも――――瞳の輝きは、たとえ色が変わっても……強く、強い。

 背筋はしゃんと伸びていて、踏み出す一歩はしっかりと。


「行くよ。邪魔したな。伝言があれば次に伝えておくが」

「ああ……伝言、伝言か。はは、参ったな。考えておけばよかった。いや、考えてたんだけど、これでいいのか迷うな。どうしよう。少し考えてもいいかい?」

「10秒。視聴者が飽きてチャンネルを変えちまうぞ」

「ああっ、クソッ! 今日だけは親愛なる視聴者諸君を恨むよ!! ええと、そうだな……いや、でも、うん、やっぱり――――」


 じ、と。

 リアルマンの瞳が、男を真っすぐに見つめる。

 眼鏡をかけた、少し太り気味の陽気そうな男だ。

 困ったように頭を掻いて、苦笑して。その表情は明るくて。


 ――――彼はこの世界の監督で、作者で、つまりは神で。

 そして、小さな世界で暮らす“人間リアルマン”でもある。

 全てが真実だ。

 残念ながら。

 素晴らしいことに。


「10秒経つぞ」

「ああ! わかった。決まったよ。次に伝える言葉だろ? 大丈夫。色々考えたけど――――「ありがとう」と伝えてくれ。楽しい人生だった。それが僕の真実リアルさ」

「…………そうか。伝えておこう。約束する」


 それきり、リアルマンは踵を返す。

 視線の先には、入ってきたのとはまた別の扉があった。

 この先にはまた、新しい世界が広がっているのだろう。

 箱庭の外の箱庭。

 次に被さるマトリョーシカ。

 89番目の世界。

 90番目の世界に続く世界。

 いつか、リアルマンが滅ぼす世界。

 それが今日か、明日か、10年後かはわからないが――――多分きっと、単行本が刊行されるまでは。


 男は、嬉しそうにその背を見送った。

 しゃんとした背筋、確かな歩調。

 子供の頃からずっと見て来た、ヒーローの背中だ。

 それを特等席で見て、しかも自分の作品にだってできる。最高の幸せだった。


 リアルマンがドアノブに手をかける。

 重い扉だ。

 実際にはそうでもない。

 けれど、重く感じた。いつもそうだ。


 思い切って、その扉を開ける。

 目の前には階段があって、登った先から太陽の光が差し込んでいる。外だろう。

 振り返りは――――しなかった。

 もう、必要の無いことだ。


「……行ってらっしゃい、リアルマン。応援してるよ」

「…………くそったれ。そういうのが一番困るんだよ」


 一歩。

 リアルマンは、89番目の世界に踏み出した。


 一体どこまで行けば、最後の世界にたどり着けるんだろう?

 偽りのない、真実の世界にたどり着くんだろう?

 脚本にも視聴者にも縛られず、消費されることもない、真の自由はいつ手に入るのだろう。


 ここまで88の世界を超え、70年を歩んできた。

 それでもまだ、果ては見えない。

 自由も、真実も、未だ知らない。


 ……この入れ子構造の果てには、一体何があるのだろう?

 もしかすると最後の扉をくぐると無限の宇宙が広がっていて、神様が脚本を書いているのかもしれない。

 そんな益体も無い想像を、しかしリアルマンは否定することもなかった。

 本物だと思っていた世界がテレビ番組だったんだ。そういうことぐらいあるだろう。

 だいたい手が込み過ぎているのだ。この世界の群れは。

 まるっきり突拍子の無い考えとも思えなかった。神様じゃなきゃ誰ができるんだ。


 その時は――――神様に文句のひとつでも言ってやらなくちゃあならないな、くそったれ。


 誰が望もうが、なんだろうが、この一歩を選んだのはリアルマン。

 進むも止まるも、リアルマンの胸先三寸。

 これだけは――――これだけが、リアルマンに許された選択という自由。

 そうだと祈って、信じている。祈る神もいやしないけれど。


 今回も、リアルマンは一歩、一歩と進んでいく。

 階段を登り、太陽の中へ向かっていく。


 ……前の世界を監督していた男は、その背を嬉しそうに見送っていた。

 かつん、かつん、階段を登る音。

 それをクラシックでも聞くように、うっとりと耳に入れながら。

 やがてリアルマンが光の中へと消えていく。

 シーズン89の開始。シーズン88の終わりを意味する映像。

 それを見て――――男は散らかった机の上で、キーボードを叩き始めた。

 最後の仕上げ、連載小説版の最終回を書かなくてはならない。

 鼻歌交じりに、上機嫌に。

 細かい表現に至るまで、自由に悩みながら。


 次の世界で、リアルマンはどんな活躍をするのだろう?

 あるいは、次の次の世界では?

 ……それを鑑賞できないことだけが、心残りではあるが。

 それは一人の男の人生を消費し続けた悪党に、唯一課せられた罰だとでも思おうか。


 リアルマンはもう、足音だって聞こえない。

 彼は進む。進んでいく。嬉しいね。


「……『人生は、歩き回る影法師』」


 無意識に、歌うように呟いたのは――――シーズン22のテーマだったか。

 あれを見て、シェイクスピアの勉強をしたんだったな、なんて思い出して。


「『哀れな役者に過ぎぬもの』」


 彼の背を勝手に見て、勝手に色んな勉強をした。

 いい人生だった。死ぬと決まったわけではないが。


「『舞台の上で、見得を切ったりわめいたり』」


 それでも、まぁ――――この言葉に沿って言うのなら。




「――――――――『出番が終われば、消えるだけ』」




 ――――ぱたん、と。

 リアルマンが開けた扉が、思い出したように閉じ切って。

 きっとその内打ち切られる世界と、これから始まる世界の間で、男は静かにキーボードを叩く。

 タイトルは、『リアルマン・ノンフィクション』。

 彼が真実リアルを手に入れる時がくればいい。

 バッドエンドは御免だぜ。これだけ長く続いたシリーズでそれはあんまりだ。

 祈り、叩く。消費する。

 ああ、そうして、それっきり。


 ――――――――男の出番はおしまいで、スポットの光はまた、リアルマンに戻っていく。


 この世が舞台と言うのなら。

 自由リアルは求め見出すものか。

 リアルマン・ノンフィクション。

 その意思だけが、真実だ。

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リアルマン・ノンフィクション 斧寺鮮魚 @siniuo

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