眠れる乙女と永遠の海

坂本忠恆

眠れる乙女と永遠の海



 少女は降車すると、視界を圧するほどの日盛りの下に、海原が果てしなく押し広げられているのを見た。

 彼女は、濡れた髪の似合いそうな少女だった。




 彼女が海沿いのこの町に来たのは、これが二度目だった。一度目は、ここへ訪れたという記憶さえ定かでないほどの以前だった。この町には、彼女の母親の侘しい実家があるのだ。

 京の名家に嫁いだ母が去年死に、孫との関係のいよいよ絶たれてしまうのを恐れた祖父母が、無理を言って盆に彼女を呼び寄せたのだった。父はしぶしぶそれを許してくれた。


 彼女は高校生だった。来年には付属の女子大学への進学が決まっていた。

 町での一日目、彼女は母の育ったこの町を散策してみたいというかねてよりのねがいを実現した。シルクの日傘の作る陰の中に、何かの秘密のようにして隠された彼女の肌は、海の血を継ぐ者にしては不相応に白く、その白さが、与え主である彼女の母の薄命はくめいを忍ばせた。

 彼女は海岸沿いの道を歩いた。漁船の帆柱の林立したその木の間木の間を、海風を捕らえた海猫が行きつ戻りつするのを見ていると、彼女は自らに眠っていた海への憧憬を思い出さずにはいられなかった。


 そのようにしてしばらく歩いていると、海と面した断崖のようになっている一方の山肌に、恐ろしく勾配の急な石段のあるのを見つけた。石段の入り口にはしゅの禿げた鳥居があり、その先は緑おびただしい枝葉の重なりに覆われているため確かめることができない。

 鳥居の趣と、さんどうの陽の遮られた濃緑の与える神域めいた印象に、都会育ちの彼女の少女心はたちまちくすぐられて、意図する間もなく足は石段へと向かっていた。


 その急勾配と、慣れぬ足元の不安定さに、彼女には石段は終わりなく続くように思われた。それでも頑固な彼女は、険しい山中へ分け入るようにして、上へ上へと無理にでも登り続けた。

 と、みるみる視界の開けていき、そして彼女の目を奪ったものは、下で見た海よりも一層開けた大海原の大景たいけいではなく、また朽ちた社殿でもなく、一人の無骨な少年の影だった。




 少年は少女に背を向けていて、大洋を目の前にして地べたに腰を降ろし、小さな脚立のような粗末な画架がか画布キャンバスを立て架けて、独りで絵を描いていた。


 彼は肉体こそ隆々としていたが、見た目中学生ほどの少年で、田舎の垢ぬけぬ印象にぴったりと当てはまるその素朴な格好は、都会育ちの少女の心に安堵を与えた。

 彼女は、彼が夏休みの宿題にでも掛かっているのだと思い、年下の少年への無邪気なイタズラ心から、こっそりその絵を覗き込んでやろうとした。

 彼女は息をのんだ。そこには、少年の印象にはそぐわない、極めて巧緻こうちな絵画の描かれつつあったから。


 思わず彼女は画家の顔を確かめた。そして、その余りに真剣な眼差しにたじろいだ。少年に声を掛けようという彼女の意思は完全に挫けてしまって、反対に彼女は少年に気付かれるのが恐ろしくなった。

 しかし、幸運というべきか、少年が彼女に気付くことはなかった。彼女はそっとその場を退いた。彼女は、何かいけないことをしてしまったのではないかという不安に囚われて、幼い子供のするように、その得体のしれぬ罪悪感に心病みながら祖父母の家へ帰った。


 夜、寝床につきながら、昼間に見たあの光景の真偽について、彼女は考えていた。彼女は一瞬にだけ見た彼の絵を、何かの見間違いだったのではあるまいかと疑いだしていた。しかし、その疑いの中でさえも決して搔き消せぬ少年の眼差しの鮮烈さだけは、疑いようのない真実として認めざるを得なかった。

 横顔ともつかぬ微妙な角度から、一瞬チラと見たに過ぎぬ少年の眼差しが、頭を離れてくれない。こんな事態に、彼女は我ながらいぶかしんだ。


 中々寝付けぬ夜のしじまの中で、彼女の疑念は徐々に憤りへと変わりつつあった。男はもとより、その年をして恋さえも知らぬ彼女の少女らしい傲慢さは、突然に身に降りかかった少年の眼差しの脅威を看過できなかったのである。

 明日またあの場所へ。という決意と、ある種の復讐心とを胸中へ抑え込んで、彼女はやっとのことで眠りについた。




 正午近くになって、彼女はようやく目を覚ました。起床の遅い彼女の思わぬ不精ぶしょうに、令孫を初めて招いた老夫婦は戸惑ったが、それでも優しく彼女に昼食を振舞った。

 彼女は身支度を念入りに、愛用の日傘を携えて、昨日と同じ時刻にあの場所へと向かった。

 もう少年は来ないのではないかという不安はないではないが、そう不安に思うことさえも苛立たし気に振り払いながら、しかるにあの場所へと自然に歩みを速めていく自らの足取りに気が付いて、このちぐはぐとした意識と無意識の関係に彼女は狼狽うろたえた。この混沌とした感情の渦巻きの中にあって、彼女は残っているなけなしの矜持で自らを保っていた。


 果たして、少年は同じ場所にいた。

 彼女はほっとして、彼からやや離れた木陰にもたれて、少年の後姿を眺めた。

 その場所は海風が涼しかった。夏の日照りにやおら滲んだ汗が風にさらわれて、その代わりに薄荷はっかのような清涼を彼女の肌に運んだ。

 今度は少年の方が気が付くまで、彼女はじっとその場を離れないつもりでいた。


 小一時間は経っただろうか。少年の熱心な後姿は、視線と絵筆とを運ぶ忍びやかな所作に応じてわずかに動揺しているばかりで、己の背後を気にする仕草などとんとない。

 彼女はやきもきして、昨日と同じように彼にうんと近づいてやろうと何度も試みたが、その度に、あの眼差しが脳裡に蘇ってきては彼女の勇気を負かすのだった。


 そろそろ陽も暮れだすのではないかと思われた時分、彼女は木の根元に座り込んでうとうととし始めていた。と、突然感じた人の気配にハッとして見上げると、少年が目を丸くして立っていた。

「何をしとるのですか」

 少しの間のあった後、少年がおずおずとそういてきた。

「ちょっと休憩を、していたのよ」

「こんなところでですか」

「ええ」

「ここはほとんど人の来ないところですから、あんまり遅くまでいないほうが良かですよ」

「ええ」

「それじゃあ」

 彼女が呆気にとられている隙に、少年は会釈をして去ろうとした。

「待って」

 呼び止められるとは思っていなかった少年は驚いて、恐る恐る振り向いた。

「なんですか」

「ねえ、あなた、明日も絵を描きにくるのかしら」

 彼女の声は震えがちだったが、なんとか勢いに任せて言っている風だった。

「はい、そのつもりですが」

「何時に来るのかしら」

「ええと、一時くらいだと」

「そう。そうなのね。ごめんなさいね、呼び止めてしまって」

「あの、何か俺に」

 彼女は少年の問いを遮るようにさっと立ち上がると、彼を残して足早に石段を降りて行ってしまった。

 少年は、石段の下方へふんわりと落ち隠れていく彼女の、花弁のような可憐さに感心した。そして、突然目の前に現れては消えていった、自分よりやや年嵩としかさの少女の怪奇な振舞いに首を傾げながら、その印象の花嵐のようなのを季節錯誤に思いつつ、少年は帰路に就いた。




 明くる朝、彼女は少年の指定したよりもずっと早く、あの場所に来ていた。

 あの後、小夜時雨さよしぐれの渡ったために地面は濡れていた。白いスカートを着てきた彼女は少しためらったけれど、あの眼差しの先にあった景色を、それの持ち主と同じようにして見てみたいという、昨日の待ちぼうけから固執してきた思い付きのために、彼女は思い切って少年のいた地べたに腰を下ろした。

 スカート越しに染み入る雨水の冷感と、夏芝の肌を突く居れぬほどでもない甘い痛みとが、得も言われぬ背徳感を彼女の胸に募らせ、それらがけがれの無い少年の印象と相俟って、この秘密の情念の不純さが、それと知られずに彼女を悩ましくさせた。


 少年を待つ彼女の心は、あの夜とは違う焦慮しょうりょに急かされていた。彼女は、もう少年は自分のものであると、子供のままの貪婪どんらんな所有欲でそう信じた。信じればこそ、彼女は焦った。少年が彼女のものであったとして、その後に訪れるべき正当な順序に、この乙女は何らの手だても持たなかったからである。

 しかるに、この乙女は乙女でこそあったが、無垢でも無知でもなかった。そればかりか、己の不純を全く悟れぬほど愚かでもなかった。彼女の憤りの所以はここにあった。彼女は清い身体のままに、その鋭敏な予感と横溢おういつな想像力とによって、心は既に純潔を失っていたのである。既に二晩経って、彼女には己の心を偽りの無邪気さで欺くことに困難を感じ始めていた。彼女が少年を自分のものであると、童女のようにして無分別に信じたやり方にも、もちろん無理があった。だからこそ彼女は、そう信じることで少年への復讐を試みたのである。そして、この傲慢を許すだけの根拠を、彼女は己の美しさの中に認めていたのだ。


 彼女が到着してから暫くして、少年が訪れた。予定していた時刻よりも一時間以上も早かった。

 少年は着くと、昨夕の得体のしれぬ不審な少女との二度目の邂逅かいこうに、祝福と不気味との両方を感じた。彼女は日傘をさして座っていたのだが、その様子が、何か異形の植物が昨日まで自分のいた場所に巨大な花を咲かせているように、少年の目には映ったのである。


 彼女は少年の到着に気が付いていたが、わざと知らぬ振りをして、毅然とした眼差しを、しかし何も見ないその眼差しを、目の前の海原に、間遠まどおに投げかけていた。

 彼女の倨傲きょごうな振る舞いは、少年の仮借ない画家の眼にも訴える美しさがあったが、少年はまさしくその画家としての矜持のために、今目の前にある美から何らか意味を引き出そうと苦心した。しかるに、美女の持つ美とは概して虚しいものである。このことに思い当たったとき、この若い画家は、眼前の少女の美しさに、侮蔑と屈服とを味わったのである。


「今日も来たんですか」

 少年はわざと不愛想に言った。

「あら、予定よりお早いのね」

「時間なんて決めてませんから」

 少年は訛りの隠しきれていない標準語で話した。少年には上出来のつもりだった。それが彼女には可笑しかった。

「そこ」

「なにかしら」

「俺の場所です」

「なによ。意地悪言わないでちょうだい。座る場所なんて他にいくらでもあるじゃない」

「目印があるでしょう。同じ場所からでないとダメなんです」

 彼女が地面に目を下すと、絵具で白く塗られた小石が一つ落ちていた。彼女は妙に納得して、素直に少年に場所を譲った。少年は座ると、少し温みのある地面の湿りを、尻の下に感じた。


 彼女は、少年の横の、心持ち退いた位置に座りなおした。少年はもの言いたげに彼女を見た。

「邪魔にはならないように気を付けるわ。だからお願い、あなたの描いているところ、見せていただけないかしら。私、この町に来てから退屈で仕方ないの」

 先程までの焦慮も消えて、彼女は斯様かような嘘をろうすることにもいちいち努力を強いなくなっていた。彼女は、既に少年へ対する感情に欺瞞ぎまんを適用していたから、彼女は己の虚言を演じることに無理を感じなくなっていたのである。彼女は、少年を意のままにしているようで、快かった。


 少年はそんな彼女の態度に一言しようとしたが、彼女を帰らすのもなんだか口惜しい気がしたので、敢えて黙ってそのままにさせた。いつもと比べ筆の鈍ったことは言うまでもないが、少年は自分の才能を信じていたので、彼女を居ないものと見做みなし、その暗示の幾度か成功した間のあったことに、彼は満足すら感じた。




 彼女は待った。切歯せっしして待った。そして、自らの意識の少年の眼差しへ注がれていることに思い至る度、彼女は急いで先の欺瞞で己をよろった。そして、気が緩むとまた、彼女は少年のあの眼差しを待ち構えた。


 そうしている内に、彼女には、少年の意識がこちらから徐々に離れていくのが分かった。少年の自ら美を生み出す精神が、目の前の出来合いの美を閑却かんきゃくしつつあることに、彼女は言葉ならず思い至ったのだ。それに伴い、これまでの彼女の自信はやにわに消沈していったのである。

 彼女は少年の集中の静かな気迫に気圧されている自分を、認めざるを得なくなった。そして彼女は、この天才に対する先ほどまでの無礼が恥辱の代償となって、やがて自らに跳ね返ってくるであろう予感を覚えた。高邁な彼女は、その忌まわしい予感が、予感のままで留まっている内に、少年のもたらした神聖な沈黙の破れるのを祈った。


 果たして、彼女の涜聖とくせいは報われた。

 少年は絵筆を置くと、水筒に口を付けた。

「ねえ」

 彼女はほとんど反射で彼に声かけたが、少年は飲み終えた後も少しの間押し黙ったままで、それが彼女をたとしへも無く苦しめた。

「なんですか」

 少年が彼女を振り返った。初めてまともに見た少年の顔に、彼女は眼をそらした。

「絵がお上手なのね」

 言いながら、彼女は話題の用意の少ないことを悔やんだ。

「ありがとうございます」

「将来は絵描きさんになるのかしら」

「いいえ。絵描きにはなりません」

 言うと少年はまた海原へ向き直ってしまった。少年の声音の冷ややかだったことに、彼女は自分が何かいけないことを言ったと思い、すぐに訂正しようとしたが、改めるべき言葉の見当たらないことに戸惑った。

「でも、こんなに絵がお上手じゃない。もったいないわよ。それとも謙遜しているのかしら」

 これは彼女なりのおべっかだった。彼女は自身の失言の容疑を晴らすために、同じ言葉に更なるおもねりを添えて繰り返すことで、自身の発言の潔白を確かめようとしたのである。もちろん、本来ならばこれは悪手に違いなかった。

 少年は手を止めた。

「中学を卒業したらすぐ漁師になるんです。そう決められているんです」

「決められているって」

「親父が漁師なんです。兄妹も男が俺だけだから」

「そうだったの」

「だから、描くのはこれが最後です。親父ともそう約束したんです」


 彼女は目の前の不条理に、一言することもできなかった。彼女の眼に、少年の姿は人生の不条理そのもののように見えたが、それがまだあどけなさを残す少年の姿で顕現けんげんしたことに、彼女は既視感を覚えた。人生の不条理とは、それが人前に現れる場合は、いつも弱弱しい姿をしているものである。少年の肉体は虚弱ではなかったが、少年は自らに与えられた才能と、その才能ゆえの懊悩おうのうの前では、あたか脆弱ぜいじゃくに見えた。そしてまた、少年の天賦てんぷが恵まれていればこそ、少年の天命は悲劇的である必要に迫られているようでもあった。丁度彼女の母親が、病床にあってもなお見事に美しく死んでいったように。




 三日目の朝も、彼女はあの場所に早く訪れた。しかし、その日は少年の方が一足先に到着していた。ただ、少年はまだ描き始めておらず、ぼんやりと海原を眺めながら彼女を待っている風だった。

 昨日よりも少年に近い位置に、彼女は腰を下ろした。無意識にそうしたのだ。


「今朝は家の手伝いが早く終わったんで」

 少年は言うと、おもむろに描く用意を始めた。

 その日も二人は言葉少なに会話を交わすのみだったが、少年の仕事の進みは芳しくなかった。ただ、もうこの時点で、絵はほとんどできかかっていた。


 彼女はこの日になってようやく、少年の絵をよく鑑賞してみる余裕を心に持った。

 少年の絵は以前盗み見たときと同じで、驚くほど達者だった。彼女には、目の前の景色と少年の絵とを比べてみることが、なんだか少年の心を覗いているようで、それが少し怖かった。それでも彼女は、この危険を冒さずにはいられなかった。

 この冒険的な行為の中で、彼女はあることに気が付いた。よくよく見てみると、少年の描いている画布には、一度使ったものを何度も白紙に戻している形跡があるのだ。とは言え、彼女にはその理由を聞いてみる勇気はなかった。それよりもただ、少年の武骨な手の持つ筆の先の鮮やかな顔料が、魚の泳ぐような流麗りゅうれいさで海原を描き出していくその逐一を黙って見守っているほうが、少年の口からどれだけのことを聞き出すよりも尚、少年について知れるような気がして、彼女は満足した。そしてまた、この沈黙が、二人の間の何ものかを育んでいるようでもあり、彼女はこの沈黙の中に、永遠に続くであろう幸福の幻影を見出した。旺盛な蝉の音もまた、その沈黙による成就を後押しした。


 少年は休憩をとった。

 沈黙が一時、二人に直接それを育むことを許してくれた。


「海が、好きなのね」

 彼女は少年の絵を見ながら、その美しさにうっとりするそのままの調子で言った。

「いえ、海は、あんまり好きじゃないです」

「あら、そうなの」

「ずっとここで育ってきたから、もう見慣れてしまったんです」

 彼女は少年の嘘を見抜いたが、それに気が付かぬふりをして続けた。

「でも、それなら反対に、好きになりそうなものではなくて」

「それだけじゃありません。じいちゃんが海で死んだんです。じいちゃんの親父さんも、同じみたいです。だから、俺の家の男は皆海で死ぬって、ずっと聞かされてきたんです」

 少年の話は、彼女には不思議と悲壮には聞こえなかった。そればかりか、彼女はそれを神秘的だとすら感じた。


 少年は再び描き始めた。

 二人の間に、再び沈黙が訪れた。

 満たされた沈黙。彼女の見出した愛の条件に、偽りはない。




 もう二人は、明日の予定をわざわざあらためずとも、互いがその時刻その場所に訪れることを確信できた。

 その朝二人は、ほとんど同時に到着した。潮はいでいた。


 少年は、最早仕上がったと呼んではばからない一枚を立てかけて、描き始めた。その日少年は、既に描きあがっている個所から粗を探して、それの修正を繰り返す作業に終始した。

 絵に心得のない彼女は、絵を描く作業とはそのようなものなのだと合点がてんして、不思議には思わないようにした。

 すると、いよいよ少年の筆が止まった。

 少年は筆を握ったまま、絵と海とを何度も見比べている。いつもの芸術的な逡巡とは明らかに異なる少年の様子に、彼女は嫌な予感を覚えた。

 知らぬうちに、絵が出来上がってしまった後を考えることは彼女には禁忌になっていた。もし絵が完成すれば、彼女にはこれ以上この逢瀬おうせを続ける口実がなくなってしまう。彼女は、二人の間を永遠にもやっていると思われた沈黙の関係が、少年の絵によってのみ成り立っているに過ぎない不条理の所産であることを、改めて思い知った。

 少年も、そのことには気が付いていた。しかし、大きすぎる未来を前にしたときに、それに抗うことは少年にはどうしてもできなかった。

 二人はあまりにも若すぎたのである。


「描き終わってしまったの」

 不安げに問う彼女の声に、少年は思わず嘘をついた。

「いいえ。まだです」

「あら、そうなのね」

 あからさまに喜色を帯びる彼女の声に、少年は罪悪感を覚えた。少年は彼女を見れない。

「でも、明日で完成です」

 彼女を悲しませることは少年には本意ではなかったが、それ以上に、彼女を虚偽でぬか喜びさせることはできかねた。純朴な少年の良心がそれに耐えられないのである。

 もちろん少年は、己の良心の陰に狡猾こうかつに逃げ隠れた臆病の存在を、完全には無いものにするわけにもいかなかった。しかし、この初心な少年には、自身が初めて手にした一人の少女の抒情じょじょうに臆することなく向き合うことは困難だった。


 二人は黙ったままだった。今までのそれとは真逆に、この沈黙の余りに辛いことに、彼女はいよいよ涙を溢した。いくら耐えようとも、耐えることはできず、涙はなお強く溢れ出た。

 涙を悟られぬ前に、彼女はその場を去った。

 少年は、彼女の歔欷きょきする音を、聞き逃せなかった。




 嵐が来た。

 漁師の家の少年は、もちろん予報を知っていた。少年は予報の的中を希ったが、これは今までのように、休漁を望むがための願いではなかった。

 海は大時化で、少年の父は船のことばかりを気に掛けていた。少年はそんな父の背中を見ながら、船など沈んでしまえと念じたりした。

 少年はあれほど憎んだ海に対して、この日ばかりは友誼ゆうぎを結ぼうとしたのである。いずれは父を、そして自分自身を、殺すであろうあの海と。


 彼女も一日の猶予ができたことに安堵した。今までは一日でも欠かしてしまうと、二人の関係の立ち消えてしまう予感がして気が気ではなかったけれど、やはり彼女にしても、この日ばかりは訳が違った。

 彼女は、最近不安になりがちな自身の心に束の間のいとまを与えてくれたことを、荒ぶる天に感謝した。そして願わくば、このままその波風で全てを破壊し尽くしてはくれまいかと、本気で祈りさえした。

 少年が死んでくれさえすれば、悲しみは悲しみのままで完成するはずであった。反対に、もし少年が生きて再び彼女と会ったなら、完成は永遠に拒絶され、後味の悪い別離の不完全さのみが残るのだと、彼女は恐れた。


 ここ数日で、彼女は途方もなく変わってしまった。未だ記憶に新しい少女期の日々に、彼女はすがりたい気持ちでいっぱいだった。それでもやはり、これらの記憶が帰らぬ日々の中に永遠に囚われているのなら、更にそこへ大嵐が前後の不可逆な変革を齎して、それぞれの日々との多重の別離によって、何もかも振り出しに戻してやり直したいという荒唐無稽な幻想をすら、彼女は抱いたのである。


 しかるに、二人の望みに反して、嵐が過ぎた後も、漁港の町はしたたかで健康だった。二人には初めての嵐でも、この町にとっては過去に幾度となく訪れた嵐の一つに過ぎないのだから。




 雲一つない見事な青空だった。

 二人からはもう迷いは消えていた。


 彼女は身支度を済ませると、朝食も摂らずに家を飛び出た。

 嵐の過ぎた夏空の下には、蝉声のひとつとない静寂が広がっており、凪いだ潮騒もここまでは昇ってこない。代わりに余剰よじょうな陽の光のみが空間を満たしていた。静謐せいひつの只中にあっては、夏の日差しさえ冷え冷えと自若じじゃくするということを、このとき彼女は初めて知った。

 路上に散乱するか細い枝葉に混じって、道中折れた木の横たわっているのを彼女は飛び越えて走った。日傘を忘れてきたことなど、最早気に掛けるはずもない。


 彼女は着いた。やはり少年は居た。ただ、いつもと違うことに、少年は画材を持ってきていなかった。

 息を切らす彼女を見守りながら、言い聞かすように少年は話し始めた。彼女の言葉を待つ前に、全てを言い切ってしまおうというつもりらしかった。

「本当はもう、あの絵は出来上がっていたんです。だからもう、俺たちがここで会う理由はないんです」

 と、彼女が少年の腕を掴んだ。少年は思わず言葉を止めた。

「あなた。本当に。あの絵で最後なの」

「はい、そうです」

「もう。描き終わって。しまったのね」

「はい」

「でも。今日は来たじゃない」

 彼女の言葉を受けて、少年は一瞬躊躇ためらうような気色けしきを見せたが、それでも意を決して、言った。

「はい。ずっと来ますよ。明日も、明後日も。ずっと、ずっと」

 彼女は聞くと、少年の腕にそのまま縋るようにして、泣いた。

 少年の逞しい腕。この世で最も尊い腕。何よりも美しいものを生み出す腕。彼女は、その腕で触れられることを、何度夢見ただろう。その腕で愛撫あいぶされることを、何度夢見ただろう。少年がその腕で、自ら画布に描き出したものを愛撫してきたそのままのやり方で、彼女もまた愛撫されるべき美となることを、何度希ったことか。

 しかし今、彼女はその腕に縋り、その腕を涙で濡らしているのである。

 少年には何もできなかった。かける言葉も見つからなければ、彼女の望みを汲んでそれを果たしてやることなど、到底できるはずもなかった。




 気が付くと二人は、彼女の少年の腕に縋りついたままに、その場に座り込んでいた。少年は毅然と前を向き、彼女はその肩に頭を凭せて、二人、海を見ていた。

 彼女はもう泣かなかった。


「ねえ、一枚だけ、あと一枚だけでいいから、絵を辞めるのを延期することはできないかしら」

 彼女の提案に、少年は少しく心を不安にさせた。

「一枚だけですか」

「ええ。できないかしら」

「一枚くらいなら、親父に隠れてなんとか。でも、何を描けば」

「そうね、そうよね、モチーフがなければいけないわよね」

 言うと彼女は立ち上がって少年の目の前に出た。

 少年は見上げた。そして、濃い陰の中にある彼女の顔が、余りにも優しく微笑んでいるのを発見した。女性のこんな表情を、少年はまだ知らなかった。

「ねえ、だったら、私を描いてくれないかしら。私をあなたの、最後の絵にして」

 少年もまた立ち上がった。そして彼女と向かい合って、その瞳にあの眼差しを注いだ。


「はい、良かですよ」

 暫く見つめ合った後、少年はそう応えた。

「なら明日も、絶対に絵を描きに来てね」

「はい、来ます。絶対に」


 最後に彼女は少年を抱き寄せると、その耳許で何か一言だけ囁いた。

 そして彼女は、お互いが初めて言葉を交わしたあの夕と同じく、風に閃く季節錯誤の花弁のように、その場を去っていった。




 蝉の音が戻り、いつもと変わらぬ騒がしい夏が帰ってきた。

 少年は朝早くからあの場所にいた。

 少年は、新しく張り直した画布に、海の絵を描き始めていた。

 彼女が来ることはなかった。

 少年は初めて、海を愛おしいと思った。



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眠れる乙女と永遠の海 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto

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