サトウ先生のかさ

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サトウ先生のかさ

 ぼくは、かさだ。

 小学校のカサ立てにぽつんと立てかけられていた、ごくごくふつうのビニールがさ。


 ぼくの持ち主は、これまでなぜか何度もかわった。

 ある雨の日にどこかのカサ立てでいっしょになったカラフルな女の子は、「私の持ち主は買ってもらった時から同じ人よ。とても大切にしてくれるの」とうれしそうにニコっとわらった。

 え? じゃあなぜ……そんなことを考えるぼくをつかんだのも、さっきまでの持ち主とはまたちがう男だった。


 そうやってながれながれて、ぼくはある小学校のカサ立てにおきざりになった。



 まだ少しさむい、三月の夕ぐれ。

 この学校の校長先生が、花たばをかかえてしょうこう口へおりてきた。


「……あ、雨がふってきてしまったな」

「サトウ先生、このかさ使ってください。もうずっとここにおきっぱなしなので」

「え……でも、校長の仕事も今日でさいごだし、もう学校にも来ないしなあ……」

「いいじゃないですか。このかさもここでひとりぼっちでいるより、だれかに使ってもらいたがってますよきっと」

 ようむ員のおばさんが、そう言って先生にほほえんだ。


 そうして、ぼくはサトウ先生の家にやってきた。



 でも……

 先生は、学校をやめてから、ほとんど家を出なくなった。


 ただしずかに本をよんで、ときどきさびしそうにまどから外を見て……そんな毎日だった。

 おくさんに出かけようとさそわれても、小さくえがおを見せるばかりで動き出そうとしない。


 せっかくサトウ先生のかさになったのに。


 ——そして、先生の顔は、日に日にえがおをわすれてしまうように見えた。



 小雨のふる、秋の朝。

 ぼくは決めた。


 ありったけの力をふりしぼって体をゆすり、新聞を取りに外へ出ようとした先生の足もとに、カサ立てごとドサッとたおれた。


「……」


 どこかふしぎそうな顔をしながらたおれたカサ立てを直そうとした先生は、ふと手をとめてぼくをじっと見つめた。


「……学校のカサ立てにずっと住んでたんだよな、君は。

 よく見ると、きれいな水色だ」

 先生は、ふっとやさしくわらうと、ごつごつしたあったかい手でぼくをにぎった。


「今日は、ちょうどいい雨もようだし。

 いっしょにさんぽでもしようか」


 ぼくは、ありったけのえがおを先生にむけた。



「仕事をやめるまで、気づかなかったよ。

 君をたたく雨の音って、とてもいい音なんだな……しかも、おちてくる雨つぶをこうしてかさの下からながめられるなんて。

 ビニールがさ君、気に入った。君といると、雨の日のさんぽがこんなに楽しい」


 雨の中を歩きながら、サトウ先生は子どものようにはしゃいだえがおをうかべる。


 あのカラフルな女の子の幸せそうなえがおの意味が、わかった。

 こうしてだれかに大切にしてもらえること、そしてその人のためにはたらくことが、こんなにも幸せなことだなんて。


「——あ、そうだ。

 そこのコンビニで、母さんにあまいものでも買っていってやるか」

 楽しげにそう言って、先生はカサ立てにぼくを立て、自動ドアの中へ入っていった。



 そのとたん、はげしい不安がぼくにおそいかかった。


 そういえば——

 ぼくは、コンビニのカサ立てでしょっちゅう持ち主の顔がかわったんだ。

 今こうしているうちに、ほかのやつが店から出てきて、ぼくをつかんで持ちさるかもしれない。


 ——いやだ。


 先生……!


 おそろしさに体がふるえはじめたぼくを、だれかがぐっとつかんだ。

 あっと思う間もなく、ぼくはらんぼうにばさりと開かれた。


 サトウ先生じゃない。

 ぼくの下にあるのは、あのやわらかいはい色のかみじゃない。

 金色と黒のまじったようなボサボサなかみの毛と、やたらにはでなジャンパー。くちゃくちゃとガムをかんでいる。どうやら、わかい男だ。

 その手からにげたくてもがいても、ぼくをぎゅっとにぎった男の指はビクともしない。

「ちっ、風も強くなってきたな、うぜえ」

 はや足でどこかへ向かって歩きながら、男はつまらなそうにそんなことをつぶやいた。


 先生のいるコンビニから、ぼくはどんどん遠ざかっていく。


 助けて!

 だれか——!!


 心でそうさけんだしゅんかん、とつぜんごうっと大きな音が頭の上にひびいた。

 びゅうっと、それは男をねらってすごいスピードでまいおりる。


「うわっ!!」

 強い風が、男に体当たりをくらわせたのだ。

 それにたえきれずよろめいた男は、思わずぼくのから手をはなした。


 風に乗って空にまい上がったぼくを、男はくやしそうににらむ。


「くそっ……」

 らんぼうにそう言いながら、男はしかたなくジャンパーのフードを頭にかぶると雨の中をにげるように走っていった。



 強い風に乗って空をまいながら、ぼくは男からのがれられたうれしさでほおっと大きないきをついた。

 助けをもとめるぼくのさけび声を、どうやらこの風が聞きつけてくれたようだ。

 長いかみをなびかせた、きれいなおねえさんだ。


「ありがとう、助けてくれて。

 あなたは、すごくきれいで強いんだね!」

 そうつたえると、風はちょっとてれたようにだまったまま、しばらくそのせなかにぼくを乗せてくれた。


 コンビニの上までぼくをはこぶと、風はするっとぼくをせなかから下ろした。

 いきなり空中に投げ出されたぼくは、なんとかコンビニのそばまで行きたくて、かさの向きを力いっぱいコントロールしようとした。けれど、こんなことははじめてだ。うまくいくわけがない。

 店から少しはなれた公園の木のえだにが引っかかり、ぼくはさかさまになって林の中にぶら下がってしまった。


 雨の中、こんなところでつり下がって、大声でさけぶ力ものこっていない。

 もうだれも、ぼくの声など聞きつけてはくれないだろう。



 だんだんと雨が強くなってきた。

 さかさに引っかかったぼくのかさの内がわに、少しずつ雨がたまりはじめる。

 開いたビニールに強い風がふきつけ、体のあちこちにギリギリとむりな力がかかる。


 むかし、ボキボキにほねがおれて、ビニールがぐちゃっとはがれたまま道のわきにすてられたぼくのなかまを見たことを思い出した。


 ぼくも、ああなるんだ。

 おそろしさが、いっそう強くぼくをゆらす。



 ——サトウ先生には、きっともう会えない。

 あのやさしくてあったかい手には、もうにぎってもらえない。


 ぼくのほねををつたって、なみだがぽたぽたとしずかなしずくになっていくつもおちた。



「ねえ」


 とつぜん、下から声がした。

 さかさのまま見下ろすと、一ぴきのまっ黒いねこが、雨にぬれながらぼくをじっと見上げている。


「そんなにぼろぼろないてるかさって、はじめて見た」


 ねこの言葉に、ぼくはなきながら小さく答える。


「……かなしくて。

 何年もひとりぼっちですごしてきて、やっとぼくを大切にしてくれるご主人さまに出会えたと思ったのに……」


 ねこは、ふっとぼくをバカにするようにわらった。


「はあ?

 あんたみたいなかさを本気で大事にする人間? そんなのいるわけないじゃない。わらっちゃう。

 それにね、あんたはちょっとでも大事にしてくれる人間に出会えただけ幸せだよ。

 あたしなんか、生まれた時から……母親から引きはなされてダンボールばこにつめられてさ、道ばたにポイだ。

 生きているのに……まるでゴミみたいに。

 あったかい場所で、たっぷり食べたり、ゆっくりねむったりしたことなんて、ただの一度もないんだからね。

 ——人間って、そういうやつらだよ。


 かなしいとか、そんなつまらないことわすれてさ。そこでぐっすりねむっちゃいなよ。

 それがいちばん楽だ。

 あたしも思うんだ。このまま目がさめなきゃいいって……毎ばんね」


 つめたい目をしてそんなことをつぶやくと、ねこはふいっと草むらに消えてしまった。



 かさにたまった雨が重い。

 風にあおられてほねがギシギシと音を立て、体じゅうにいたみがおしよせる。



 ——サトウ先生。


 もっとたくさん、いっしょにさんぽしたかった。

 先生の楽しそうな顔を、もっといっぱい見たかったな——。



 ねこの言うとおり、ぼくはそのまましずかに目をとじた。




 ふいに、がさりとをつかまれ、ぼくははっと目をさました。


 雨は小ぶりになり、風もやんで、空が明るくなっている。

 すぐそばに、コンビニのわかい店員さんの顔があった。

 ハシゴをかけて、ぼくを助けてくれたらしい。


 木の下には——あの黒ねこがいた。

 そして、ずぶぬれのサトウ先生が、まるでなき出しそうな顔でぼくを見上げていた。



「ごめんな。本当に。

 コンビニを出ようとして、君がいないことに気づいて……どうしても君を取りもどしたくて、あちこちさがし回ったんだ。

 そうしたら、この黒ねこがふいっとあらわれてな。私のくつにまとわりついてはなれない。

 私を見上げる目が、何かを言ってるような気がして……ねこが歩いて行く方へついていったんだ。

 そうしたら、木の上に君がいた」


 雨の上がった公園のベンチで、先生はコンビニのふくろから取り出したタオルでやさしくぼくのよごれをふいてくれた。

 先生だって、びしょぬれなのに。


 ぼくにふれる、ごつごつした指。

 あたたかい手のひら。やさしいえがお。


 ——これ、ゆめじゃないよね?


 せっかく先生がふいてくれたのに、またぼくのビニールがなみだでぬれてしまいそうだ。


 先生の目も、少し赤い。やっぱり雨のせいなのかな?



 先生の足もとから、ふと小さなあくびの声がする。

 ベンチのすきまから下をのぞくと、あの黒ねこがたいくつそうにまるくなっているのが見えた。


「本当に、ありがとう。助けてくれて」

「べつに。ひまだったし」

 黒ねこは、ふんとつまらなそうに横をむいた。



「もっと早く、こうしなきゃいけなかったんだよな」


 ぼくにそう話しながら、先生はふくろから細いものを取り出してそのフタをポンとはずすと、ぼくのをキュッキュッとこすった。

 なんだかすごくくすぐったい。


「うん。これで安心だ」


 そこには、字が書いてあった。

 大きな大きな、「サトウ」の文字が。

 水色のに、まっ黒くてきれいな——ぼくの名前が書いてあった。




 その日から、ぼくはサトウ先生のかさになった。

 やっと、先生だけのかさに。



「ああ、今日は雨だな。……よし、さんぽにでも行くか。

 母さん、行ってくるよ」


 雨の朝は、先生はうれしそうにそう言いながら立ち上がる。

 そして、くつのたなから雨の日用のシューズを大事そうに取り出して、げんかんにならべる。


「ミイは、今日はるすばんだぞ。雨だからな」


 雨の中、公園でぼくに話しかけた黒ねこは、今はサトウ先生のひざで毎日まるくなってあくびをしてる。

 あの日先生は、右手にぼくを持ち、左手にねこをだいて家へ帰ったんだ。

 やせていた体は、いつのまにかふっくら大きくなり、ボサボサだった毛なみも今はすっかりつやつやだ。


「おはよう、カサくん……じゃなくって、サトウくん」

 毎朝そう言ってちょっとだけわらうみどり色の目は、今はとてもやさしく光る。


 ——ほんとは、少しうらやましいんだ。先生のひざをひとりじめしてるミイが。


 けどね。

 雨の日のさんぽは、サトウ先生とぼくだけですごす時間。

 この時間だけは、だれにもじゃまなんかさせないよ。



「じゃ、行こうか」


 くつのひもをむすびおえた先生が、いつものようにごつごつとあったかい手でぼくをにぎる。



 これからも、雨の日のさんぽは、ずっと先生といっしょだ。

 さあ、とびきり楽しい時間がはじまる。





                       (おわり)

                                    


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