三十五歳

 旅回りという不安定な立場であるにもかかわらず、アルドの腕のよさは方々で評判を呼び、診察の依頼はひっきりなしに舞い込んだ。この名声は、本来ならヨウが受けるべきものだった。アルドは決して必要以上の報酬を受け取らなかったが、彼には生活を成り立たせる以上の財産がいつの間にか集まってきていた。患者の身分や貧富を問わず、依頼されれば誰のもとへも来てくれる。人々は彼を〈医聖〉と呼んだ。


 ある町を訪れたとき、アルドは興味深い噂を聞いた。彼の到着を喜びながら、町の人が教えてくれたのだ――この町にはもうひとり、深淵な知識で人々を治療して回る不思議な女性がいると。

 アルドはその女性の所在を聞き出し、教えられた道を進んだ。まさか、〈彼女〉であるはずはない。だが確かめずにはいられなかった。


 〈彼女〉と死に別れて十年。その面影が心を離れたことは一度もない。

 彼女は、森の中の小さな小屋で野菜や薬草を育てながらひっそりと暮らしを営んでいるという。アルドは木立ちを進み、小川を渡り、岩を乗り越えながら、最後には走り出していた。


 「………! 」


 確かに、言われたとおりの場所に小屋はあった。それらしい女性が、ひとり野菜の手入れをしている。彼女は突然駆け込んできたアルドを振り向き、大きな目を見開いた。


 「まあ……」

 「……ヨウさん? 」


 アルドは息を整えるのもそこそこにその女性を凝視した。本当は確認するまでもないのだ――彼が彼女を見間違えるはずはないのだから。

 ヨウは彼の記憶どおりの笑顔を向けた。


 「ふふ……その髭、いいわね。似合うわよ」

 「ヨウさん………本当に……? 」


 アルドは荷物を取り落とし、ヨウの肩に手を触れた。指先が震える。望みどおりの奇跡が突然与えられると、人は少なからず動揺し、言葉を失うものだ。


 「…………」


 アルドは沈黙のうちにヨウを抱きしめた。ヨウは彼を抱き返し、優しく背を撫でてくれた。


 「会うなりそんなに泣かないの。――だから、死なないって言ったじゃない」

 「………それで済む話ですか」

 「ごめんね。あなたたちには、本当に悪いことしたわ。でも、ここにこうしているということは、あのあとは大丈夫だったみたいね」

 「結局、あの家は出ることになりました。あなたの言っていたとおりに――今は、旅回りで医師をしています」

 「噂は聞いているわ。ひとつの町にいつかないで、いろんな場所を回って誰のことも平等に診てくれる人がいるって」


 ヨウは嬉しそうにアルドを見上げ、いつかと同じように言った。


 「アルド。……本当に、よく頑張ったわね」


 アルドはしばらく髪を撫でてくれる彼女の手を堪能していたが、頬に触れられたとき小さな違和感を覚えて彼女の手を取った。白い肌の中には、確かに……。


 「……ヨウさん、傷が……」

 「え? ああ、仕方ないじゃない。土をいじったり藪に入ったりすると、どうしてもね」

 「そうではなく……この傷は、かさぶたになっている」


 傷を負ったその日に時間が巻き戻る彼女の体には、かさぶたなど現れないはずだ。アルドは唇が震えるのを感じながら尋ねた。


 「ヨウさん。……呪いが解けたのですか? 」

 「……ええ。おかげさまで、解き方が分かったのよ。半年くらい前だったかしら。だから、もうあんな無茶はできないわ」

 「では、もうこの町から移動する必要はないと」

 「まあ、今のところはそうね。魔女狩りの勢いも前ほどではないし……あらあら、どうしたの」


 アルドは彼女の手を取り、その場にひざまずいた。息を深く吸い、吐く。


 「ヨウさん。――僕と結婚してください」


 真剣に言い切って見上げると、ヨウは彼女らしくなく頬を染めて立ち尽くしていた。師のこんな姿を見るのは初めてだ。思わず頬が緩む。


 「……ど、ど、どうしたの突然」

 「突然ではありません。……僕は、あなたを母や姉と思ったことは一度もありませんから」

 「一度も? 本当に? 」

 「ええ。あなたに命を救っていただいたときから、僕はずっとひとりの女性としてあなたに想いを寄せていました」

 「で、でも……」

 「もちろん、他に心を寄せている誰かがいるとおっしゃるのなら――あるいは、僕をそういった対象として見られないとおっしゃるなら身を引きますが」


 手を取ったまま囁くと、ヨウは必死で首を横に振った。頬がどんどん紅潮していく。これが本当に〈普通の人の何倍も生きている〉女性だろうか、とアルドはほほえましく彼女を見つめた。まるで初めて恋を知った乙女のようではないか。


 「そんなことは、ないけど……」

 「けど? 」

 「……そんなにじっと見ないで。わたし……もうずーっと、こういうことには縁がなかったのよ……」


 ヨウはおろおろと言いながら、微妙に後ずさりしかけている。だが、アルドは十分に脈があると判断した。なぜなら、ヨウは本気で抗おうと思えばそうできる力のある、本物の魔女だからだ。


 むしろ、一見アルドを避けようとしているかのようなこの反応は、彼らの関係がそれまでのものとは明らかに変質しかけているという兆しでもあった。つい先ほどまで、ヨウはアルドのことを〈養い子〉だと思っていたのだ。まさか〈養い親〉である自分が求婚されるなど、夢にも思っていなかったに違いない。だが彼が彼女に求婚したことで、〈いくつになっても可愛い子〉などという絶妙に歯がゆい見方は、もはや通用しなくなったといってよかった。


 第一、見かけの上ではいまやアルドの方が年上に見える。彼女の方が年長だなどと、もはや誰も信じないだろう。

 二度と生きては再会できないとばかり思っていた女性。この上逃がすわけにはいかない。


 「〈子ども扱いしないでください〉」


 立ち上がり、握ったままの手を頼りに、一歩近寄る。ヨウは視線をあちこちにさまよわせ、最終的に彼と恐る恐る目を合わせた。


 「僕はあなたと生きていきたい。あなたを置いていく心配もありません。なぜなら、あなたもまたこの時代において寿命を終えるからです。今度は一年ずつ年を取りながら、ね」


 片腕の中に納まってしまう肩を抱き寄せ、額に口づける。額くらいで文句は言わせない――最初に彼の唇を奪ったのは、他ならぬ彼女の方なのだから。



 とある国に伝わる、森の魔女の伝説――みずからに時の呪いをかけた彼女は、いつまでも若い姿のまま各地を渡り歩き、立ち寄った地の人々を不思議な力で癒して回った。


 あるとき森で行き倒れた幼い兄弟を拾った彼女は、身寄りのない彼らを我が子同然に慈しみ深く養育した。弟はやがて家を出て人々を守る仕事に就いたが、兄は家に残って魔女の仕事をそば近くで助けた。


 このあとの伝承については、地方によって結末が異なる。ひとつは、当時旺盛であった魔女狩りに巻き込まれ、養い子の裏切りに遭って火炙りになったというもの。ひとつは、火炙りに遭っても命を終えることなく遠い町へ逃げ去り、そこでもまた人を助けて暮らしているうちに、旅の医師と結ばれて子孫を残したというものだ。


 この旅の医師が誰なのかは諸説あるが、一部では彼女がかつて養育した養い子の兄ではないかといわれている。こちらの結末が採用されている場合、さらに生き別れた兄弟がのちに再会したとか、夫婦の子孫が高名な医師となったとか、さらにその後が語られることもある。


 どの伝承でもおおむね共通しているのは、処刑を免れたあとの彼女の人生が幸福によって形づくられていたということと、呪いによって長命を得ていた彼女が、その伴侶と同時代にこの世を去った――ということである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

沈黙の森の魔女 ユーレカ書房 @Eureka-Books

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ