二十五歳

 もし、この家を出ることになったら。もし、別の町で暮らしていくことになったら。このところヨウはそんなふうに話を切り出すことが多くなった。アルドの方では一向にそんなつもりにはならなかったが、ブレンが自警団員として家を出て行ってから特にこうした話が増えた。


 理由は明白だ。この数年で、〈魔女〉に対する風当たりが少しずつ強くなってきていた。地位のある異端審問官が〈魔女〉を悪と断罪する内容の本を発表したことで、国内ばかりか国外にまで影響が広がっている。薬草を使って人を癒し、赤ん坊を取り上げ、死者を弔う。人々の生死に密接に関わるヨウのような人々は、かねてから少なからず畏怖の対象とされてきた。ただ、以前は〈賢者〉だった呼び名が、〈魔女〉になったというだけだ。だが〈魔女〉に対する待遇は、〈賢者〉に対するものとは段違いに冷たかった。


 どこか遠い村ではすでに魔女狩りが行われ、隣人同士で互いの告発を恐れ合って疑心暗鬼に陥っているという。また別の村では、半分以上の世帯が処刑に次ぐ処刑によって消滅したとか――今は対岸の火事だが、いつこちらに飛び火してきてもおかしくはなかった。


 ヨウは、アルドを守ろうとしているのだ。〈魔女〉に育てられた青年。そんな不名誉な称号とともに与えられるかもしれない迫害から。ブレンが家を出て行くことが決まったとき、彼女が繰り返して言い聞かせていた言葉からもそれが伺える。


 「出自を聞かれたら、もともとあなたたちがお世話になっていた教会で育てられたのだと言いなさい。襲撃事件のことを言われたら、別の教会でまた拾われたんだって言うの。わたしの家にいたことは、言わないでおくのよ」

 「どうしてヨウさんのこと言っちゃいけないのさ! そんなのおかしいよ! 」


 一本気なブレンはそう言って歯向かったが、ヨウは首を振るだけだった。


 「本当のことを言わない方が、守れるものがあるのよ。……あなたが本当に信用できると思ったお友だちにだったら、言ってもいいわ。でも、そうじゃないならだめ。世の中には、あなたほど勇敢な人ばかりがいるわけではないからね」


 ヨウが言うことの意味は分かる。だが、やはり納得はできなかった。


 「もし誰かに〈どこでその知識を学んだのか〉と聞かれたら、教会に薬草園があったとか、男性の医者に教わったとか答えなさいね」


 一緒に薬湯を煮出しながらもヨウがそう言うので、アルドは思わず渋い顔をしてしまった。


 「誰に聞かれる機会があるというんですか……この辺りの町の人たちは、僕がどこの誰なのか知っているというのに」

 「人生には何が起きるか分からないものよ。森を歩いていて、突然行き倒れの兄弟を見つけることもあるしね」


 ヨウは静かに鍋をかき回した。小さな肩が目につく。腕を回したら、簡単に抱えられそうだ――二十歳を超えた今、アルドはすでにヨウを見下ろせるほど背が高くなっていた。


 いまや、彼女と並んでいても親子や兄弟には見えまい。だが彼らのやり取りは相変わらず師弟の域を出なかった。ヨウはほほえんだ。


 「避けがたい運命というのは、兆しなくやってくるもの……今はそのつもりがなくても、どこか別の町へ旅することだってあるかもしれないわ」

 「あなたが行くとおっしゃるなら、ついていきますが」

 「まじめに聞きなさい、もう」


 ヨウは繊細な指先で彼の額を小突いた。


 しかし。ヨウの話は、それから間もなく杞憂ではなくなった。


 「兄さん、大変だよ! 」


 ある日、森を突っ切ってきたらしいブレンがやってきた。友人らしい金髪の青年を連れている。庭先で野菜の世話をしていたアルドは、何事かと顔を上げた。自警団員として町へ出てからというもの、ブレンは一度もこの家に戻ってはいなかった。


 「久しぶりだな、ブレン。そちらは――」

 「初めまして。僕はブレンくんの友人のレンと申します。一緒に自警団員として活動しています」


 レンは礼儀正しく頭を下げた。ブレンは言った。


 「レンは、ヨウさんのことを知ってる。昔ヨウさんに、怪我したところを助けてもらったことがあるんだって」

 「なるほど。……それで、何が大変なんだ」

 「町の連中が、ヨウさんを広場で火あぶりにするって言い出したんだよ。もう隣町でも何人か処刑されてるからって……それで、自警団の連中が明日こっちに来ることになってるんだ」


 レンは眉間にしわを寄せて言い足した。


 「通常は、まず被告として裁判を受けることになるのですが……ヨウさんの場合は、すでに近隣の人々に〈魔女〉として広く認知されているという理由で、申し開きの余地はない、と」

 「それで、おれたちだけ〈様子を見てくる〉って言って抜け出してきたんだよ。今なら、まだ間に合うからさ」


 そのとき、当のヨウが庭先の来客に気がついて表へ出てきた。珍しいお客さんだこと、とにこにこしている彼女に、ブレンとレンは勢い込んで危機を知らせた。


 ヨウは


 「まあ、そう」


 と世間話を聞いているような口調で穏やかに頷きながら、やがてブレンに笑いかけた。


 「信頼できるお友だちができたのね、ブレン。わたしも嬉しいわ」

 「ああ、そうなんだよ……いや、そうじゃなくて! 」

 「まあ、せっかく来たんだからお上がりなさい。お菓子くらいなら出せるから。アルドも、お茶にしましょう」

 「ヨウさんたら! 」


 ブレンが焦れる。だが、ヨウは笑って家の中に戻ってしまった。アルドはふたりを促した。


 「とにかく、ふたりとも中へ入りなさい。町から来たのでは疲れただろう」

 「言ってる場合じゃないよ! 明日には、みんながヨウさんを捕まえに来るんだよ!? 」

 「しかし、ヨウさんはおまえたちだけで説得できるような人じゃない。……あの人は、恐らくずっと前からこんなことになると分かっていたんだろう。今さら、おまえたちの一言二言で慌てるはずがない」

 「それじゃあ、ヨウさんには何か安全に逃げおおせる手立てもあるかもしれないですね」


 レンが喜色をあらわにする。ブレンは疑問らしく眉を寄せたが、ここでごねていてもどうにもならないと悟ったのだろう。懐かしい家の中へ入っていった。


 結局、若いふたりがどんなに熱弁をふるっても、ヨウを頷かせることはできなかった。ヨウはふたりに焼き菓子をすすめながら、何でもないことのように言うのだった。


 「そんなに心配しなくても大丈夫よ……わたし、死なないから」

 「なに言ってんのさ! 冗談言ってる場合じゃないよ! 」

 「そうですよ……魔女狩りを正義だと思っている連中は、〈彼女〉がどんな人物かなんて気にしません。人助けばかりしているあなたのことだって、火刑台に上げることをためらいはしないでしょう」

 「ふふ。本当に魔女だったら、火に焼かれたくらいで死ぬなんておかしくない? 」

 「ヨウさん! まじめに聞いて! 」


 ブレンが怒る。ヨウは自分のお茶をひと口飲んで、ごくまじめに言った。


 「聞いてるわよ。あなたたちが何とかしてわたしを助けようとしてるってことも、分かってるわ。……でも、あなたたちの方こそどうなの? わたしがこの家を置いて逃げおおせたとして、あなたたちはみんなになんて報告するつもりなの? 」

 「……それは、見に行ったときにはもう家には誰もいなかった、って言えばいいだろ」

 「それで何事もなく済めばいいけどね。魔女狩りなんてはじめる人たちは、猜疑心が強いものよ。一度様子を見に行ったあなたたちが〈誰もいなかった〉なんて言っても、誰も信じてくれないわ。〈あいつらは魔女にたぶらかされておかしくなった〉〈もともと魔女の仲間だったんだ〉なんて言われて、下手すればあなたたちも処刑されるのがオチよ」

 「そんなわけ……」

 「そうね。普通はそんなことにはならないわ。でも、考えてみて――相手が〈魔女〉だというだけで、火あぶりにしようとしているような人たちなんでしょう? この手の異端審問は、最初から結論が決まっているものよ。まして、今回はその異端審問もやらないっていうじゃない。今からわたしを助けようだなんて思わないで、自警団としての役割をしっかり果たしなさい」

 「………」


 何とか言ってくれ、というような目がこちらを見つめてくる。だが、アルドは無言で首を横に振った。ヨウがブレンたちの立場を案じている以上、彼女を自発的に避難させるのは難しいだろう。彼らには酷な話だろうが、彼らがヨウに〈先に様子を見に行くと言って抜け出してきた〉と馬鹿正直に言ってしまった時点で、この結末は決まっていたのだ。


 だが、自分の立場からなら、あるいは――。


 「絶対あきらめないからね! 」


 振り向きざま言い捨てていくブレンと肩を落とすレンをヨウとともに見送りながら、アルドは言った。


 「……ヨウさん。僕も、この家を離れていただきたいと思っています」

 「あら。でも、自警団が来る前に留守にしたら、あの子たちの立場がないでしょう」

 「灯りをつけていくなり食卓を片づけずにおくなり、痕跡を残していけばいいんです。彼らが来るのを直前で察したのだ、と分かるように」

 「あなた、わたしが傷つかないことを知っているでしょうに」

 「時間が巻き戻るというだけで、傷つかないわけではない。それに、苦痛を感じないわけではないでしょう」


 アルドはヨウの肩に手を置いた。かつて自分たちを拾ってくれたときにはあれほど頼もしく見えた彼女の体は、本当は普通の女性と何も変わらない。細い肩は、手のひらで簡単に包めるほど華奢だった。


 「ヨウさん、お願いします。僕らは……僕は、こんな理不尽な仕打ちであなたを失うわけにはいかないんです」

 「あなたは、ずいぶん大きくなったわね」


 そのときヨウが浮かべたほほえみを、アルドは何と言って表したらいいのか分からなかった。こちらを慈しんでいるような、寂しいような、疲れたような、無垢なような、すべてを見透かしたような――。


 「わたしは、もう十分生きたわ。普通の人の何倍も……こんなことは初めてじゃないの。だから、今回だってどうせ死にやしないわ。心配なのは、わたしが処刑されたあとであなたたちが何事もなく暮らしていけるかどうかってことだけなのよ」

 「あなたが家を出るなら、僕も従います。またどこか別の町で――別の森で、こうして生きていく道を探しましょう」

 「あなた、わたしが生まれてからずーっとこの森で暮らしていると思ってるの? 」


 ヨウはおかしそうに言った。


 「どこへ行っても同じことの繰り返しよ。まして、今回は国中で〈魔女〉が処刑されているんだもの。ここを逃げ出したって、落ち着く先なんかありはしないわ。この呪いが解けない限り、わたしは永遠に住処を変え続けるしかないのよ。そんな一蓮托生は嫌でしょう? 」

 「僕はあなたが許してくださる限りそばを離れないと言ったはずです」

 「そしていつか、わたしを置いていくのよ」

 「たとえ魂になっても……」

 「こんな女に執着するのはおやめなさい。あなたには、わたしの知識のほとんどを教えてあるわ。どこに行っても、医師としてみんなにありがたがられるはずよ」


 師弟の舌戦は決着しなかった。この翌日、ついに自警団が〈魔女〉を捕らえに来るというときになって、アルドは最後の手段に出た。自警団のものたちがこちらに向かってくるのに気がついたのは、彼の方が早かったのだ。ふたりは夕食の支度をしているところだったが、アルドはヨウのふいをついて彼女を抱き上げ、そのまま外へ連れ出した。


 ヨウはさすがに驚いたのか、玉杓子を持ったまま彼の首にしがみつき、木立ちの中へ下ろされるまでじっとしていた。そして、じっとりと彼を睨んだ。


 「……やってくれるわね。さすがわたしの弟子」

 「恐れ入ります、師匠」

 「そんなにわたしを逃がしたいの? お夕食を抜いてまで」

 「もちろん。たとえ破門されてもこれは譲りませんよ」


 ヨウの家には自警団のものたちが到着し、乱暴に中を捜索しているらしい。ブレンとレンの顔もあった。どうやら兄がうまくやってくれたようだ、と頷き合っている。


 彼らの顔を見るのも、これで最後になるかもしれない。アルドは弟たちの顔を心に焼きつけようとし――。


 「……そう。そこまで本気なの」


 ふと、ヨウの手が頬に添うのを感じた。振り向いた途端、唇に何か柔らかいものが触れてくるのが分かった。ほんの数秒のことだったかもしれない。しかし、口づけられているという事実は理解した途端彼の頭を痺れさせ、一瞬すべての時が止まったかのような感覚があった。


 唇を離したヨウは、ほほえんで間近から彼の瞳を覗きこんだ。


 「仕方のない子ね」

 「ヨウさ……」


 しかし、わずかに震えながら彼女を呼ぼうとした声は、途中からまったく違ったことを叫んでいた。


 「――魔女はここにいます! 」


 アルドは驚いて自分の口を押えようとした。だが、彼の体はこのとき、まったく主人の意思を裏切っていた。指一本、自由に動かすことができない。まるで誰かの操る糸につなげられた人形のように。


 沈黙を守ろうとすればするほど口は魔女の所在を叫び、ヨウから離れようにも足は根を生やしたようにその場から動かなかった。


 「魔女はここにいます! 」


 彼の声を聞きつけた自警団のものたちが、彼らのいる場所に集まりはじめた。ブレンとレンはぎょっとしたようにアルドを凝視し、口を開こうとした――そのとき、ヨウがひそかに彼らに向かって指を鳴らした。


 「………さすが兄さん! 魔女のふところに潜り込んで、告発するときをずっと待ってたんだね! 」


 ブレンは快哉を叫んだが、恐らく心にもないことが勝手に口から滑り出たのだろう。その顔色はみるみるうちに青ざめていった。レンも似たようなものだ。ふたりは、アルドの身に何が起こっているのか理解してくれたに違いなかった。


 「へえ、そうだったのか。てっきり、あんたもこの魔女の仲間なのかと思ってたよ――正直、おまえらふたりのことも疑ってたんだ。魔女の家にいるやつの弟とその友達だってんだからな」


 自警団の頭が感心したように言う。


 「だが、これでその疑いもめでたく晴れたってわけだ! さすが、昔教会にいたっていうだけあるな! 大手柄だぞ! 」


 別の自警団員が夕日の中でヨウの顔を覗きこみ、気味悪そうに言った。


 「まさかとは思ってたけど、本当に年取らねえんだな……おれがガキの頃に見たまんまの顔だ……」

 「さあ、立ちな! 余計な怪我したくなけりゃあな! 」

 「怪我なんか今さらだろ……じきに焼けちまうんだから」


 自警団員たちが両脇からヨウを抱えて立ち上がらせようとした。ヨウはそれを制し、みずからの足で彼らの前に立った。自警団の方へ行く間際、ヨウはアルドに囁いた。


 「さようなら、いとしい子」


 彼女は後ろ手に縛められ、鉄の檻がついた粗末な荷車に乗せられた。まるで、罪人か屠殺場へ送られていく家畜のようだ。あまりのことにアルドは呆然と突っ立っていたが、


 「あんたも来いよ! なにしろ、大手柄だからな! 」


 とひとりに声をかけられた途端、それまで動かなかったのが嘘のように足は地面を離れた。



 町の広場にはすでに大仰な火刑台が組まれ、犠牲者の到着をいまかいまかと待っていた。周囲には人だかりができ、祝祭の日のような賑わいだ。かつてヨウに連れられ、ブレンとふたり、町の祭りに出かけたことがあったな、とアルドは思った。体は自由にならなくとも、心は自由だ。彼はヨウが火刑台に縛りつけられ、静かに目を閉じているのを見つめながら、彼女と過ごした日々を思い出していた。


 一緒に森を歩き、植物の名を教わった日。ヨウの秘密を知り、ずっと彼女とともにいると誓った日。彼女に抱きしめられ、涙を流した日――。


 「ヨウさん……」


 いまだ自由には動かない口で、彼女の名だけは呼ぶことができた。


 「……ヨウさ………」


 いくつもの松明から火が放たれ、火刑台は間もなく炎に包まれた。観衆の歓声が高くなる。彼らはみな、少なからずヨウに世話になってきたはずではないのか。医者にかかろうとすれば法外な金を取られ、効果があるかどうかも怪しい治療をされる――そういう時代だ。良心的な取引で効果も折り紙つきのヨウの処方は、多くの人を救ってきたはずだ。長年の経験により、産婆の腕も確かだった。弔いの儀式にしても、彼女以上に多くを知っているものはひとりもいなかった。


 それなのに、時代は彼女ではなく迷信を肯定するのか。観衆はみな興奮し、祭りの見世物を見ているかのように楽しげだった。


 どのくらい時間が経ったのだろう。夜空に煌々と燃えていた火はやがて下火となり、あとにはただ、黒く焼け焦げて誰なのかも分からなくなった華奢な体が残された。〈彼女〉は自警団のものたちによって灰や煤とともに麻の袋にまとめられ、後ほど森のどこかへ捨てられるという話だった。


 「やれやれ、これで我が町の魔女もおしまいってわけか」


 誰かがそう話すのを、アルドはどこか遠くで聞いていた。いまや、彼を縛るものは何もなくなっていた。当然だ。縛っていたものはもうこの世を去ったのだから。


 アルドはその場に膝をつきかけたが、はけていく人波に流されるようにして何とかその場を離れた。ヨウが命がけで守ってくれた命を、一時の絶望でふいにするわけにはいかなかった。


 ヨウが処刑されて間もなく、アルドは住み慣れた家を出た。どこへ行く当てなどなかった――時折、ブレンとレンにだけは消息を知らせた。だが、旅回りの医師として常に町から町を渡り歩く彼に、弟たちの返事が届いたことはなかった。


 それから、瞬く間に十年が経った。

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