番外編
番外編 ゼファーとリキト
寝台ほどありそうな広い裁断机でいつものようにボタンを縫い付けていると、外から戸を軽快に2回叩く音が響き、素早くその木製の扉は開いた。
「ゼファー、お待たせ」
今夜もいつものようにほのかな笑みを携えたリキト君が我が家『シスルト工房』へやってきた。約2ヶ月前にマーヴィス法王が病で急死し、彼は無事に牢獄から出られ、僕が暮らすこの静かな村へ再びやってきた。そんな彼はここから徒歩で通える小さな民家を借り、愛するミクちゃんと共に二人で暮らしている。城で暮らせる身分なのになぜここで暮らすのかと尋ねると、「政治は父さんやダガーが上手くやってくれるし、俺は俺にしか出来ないことをやりたいから」とその瞳に静かな灯を宿しながら言った。
彼らがここ『シスルト工房』で共に働いてくれるようになったのは僕にとっても、非常に有難いことだった。あの一件から魔女狩りを行うような人々も段々と減り続け、各ギルドも少しずつ以前の活気を取り戻そうとしていた。そのおかげで僕が所属する縫製ギルドも以前より遥かに活発になり、まだ全盛期程ではないが、仕事量も段々と増えてきていた。そんな慌ただしい状況下の中で彼らの縫製技術に救われ、助けられ、毎日が忙しくも充実した日々を送っていた。彼らは『チキュウ』での技術を惜しみ無く僕やギルド仲間へ伝授してくれ、益々ギルド内を盛んにさせている存在でもあった。リキト君が以前言っていた、自分にしか出来ないこと、そして何よりこの仕事が好きだという、その情熱とひたむきさが最初に会った時よりも、更に強靭に、二人の光明ある表情から強く感じられた。
そんなリキト君とミクちゃんは、共にここで夕方まで働いた後帰宅し、仕事が立て込んでいる忙しい時期は夕飯など済ませて、またこうやって彼だけがここへ訪れる。そして僕達二人は深夜まで黙々と仕事を行う。そんな日々を時たま繰り返すようになっていた。
「今夜も宜しく頼むよ。ミクちゃんには申し訳ないけどね。そういえば彼女は一人で寝むれるようになったのかい?」
リキト君は着用していた上着をいつものコート掛けへ引っ掻けると、足踏みミシンの椅子へさっと腰掛け、まだ作業途中だった服を慣れた手つきでまた縫い始めた。そして口を開いた。
「実久は最近やっと一人でも寝てくれるようったなったし、大丈夫。こうやってギルドが活性化してることも喜んでくれてるし、俺が夜も働きに出る事も理解してくれてる」
「そうか。彼女も成長したんだね。最初はあんなにも僕達と一緒に寝ると言い張ってたから少し安心したよ。その様子じゃ二人で暮らすのもだいぶ慣れたみたいだね」
「……まーな」
彼は作業中の手を一切止めることなく、ぶっきらぼうにそう一言答えた。ミシンのペダルを幾度となく踏み続け、かたかたと針を動かす音だけがこの薄暗い部屋に響く。その規則正しい音色は静かな夜に陽気さを与えてくれているかのようだった。部屋に灯された蝋燭の光はそれとなく愉快に踊っているようにも見えた。
彼はそれきり無言を貫いたまま口を開かない。華奢で広い背中がゆらゆらと楽しげな炎に照らされてはいるが、その表情は
「そんなに照れなくていいよ」
「照れてねぇ!!」
すかさず作業中の手を止めて大きく僕へ振り返ると、声を荒げた。蝋燭に負けないような濃い暖色の顔を向けて。
「一線を越えたんだね」
「……だからっ、いつもお前は! なんでそんな平然な顔してそういうこと言うんだよ!」
「別に普通のことじゃないじゃないか」
「普通って……!」
彼はいつも言葉を上手く言い表せない。けれども、その嘘偽りない表情だけで正直すぎる程に感情を伝えて来る。反論したいけれども出来ない、そんな彼のもどかしい姿が面白くて、ついからかうことが日課となってしまった、ともし言ってしまえば君はきっと憤慨するだろうな。
「うらやましいから、と言えばいいのかい?」
「……ゼファー、いつもそうやって息子の俺に言うなって、ずりぃよ」
彼は踵を返しミシン台の上に目線を戻し、作業を再開した。僕が未だにリニア様を愛しているというこの事実を彼はよく知っている。
「ついね。すなない、いつも」
「別にまぁいいんだけどさ……、返答にマジで困るっての。……けど、俺がもし母さんの立場だったらさ、ゼファーのこと、きっと気になってたと思うだよな。だってゼファー、……いい奴じゃん」
彼はミシンに向かったまま服を器用に縫いながら、どんどんと声を小さくしつつ最後はぼそっと呟くように吐き捨てた。
「人に愛の告白をする時は、照れないで堂々と言った方がいいと思うよ」
「だからっ、何言って……! ああっ! もういいっ!!」
再び声を大きく荒らげながら、僕へそのこそばゆい表情を見せたかと思うと、冷静さを取り戻したかのようにまたミシンへ向き直った。ほんとに君はいくらでもからかいがいがあるよ。彼のくすぐったい優しさは僕にだって分かっている。正直になれないところも。リキト君、それは君の素敵なところだと思う。僕みたいに躊躇なく何でも言ってしまう者からするとうらやましい程にね。
それからも他愛のない会話を時々繰り広げながら、二人でこの狭く暗い仕事部屋で作業を黙々と続けた。お互いにとてつもなく集中していたせいか、気が付くと時刻は深夜を過ぎていた。これは毎度のことでもあった。時間を忘れる程、夢中になれるものがいつもそこにはあった。
「ああ、もうこんな時間だ。そろそろ切り上げようか。はやく君もミクちゃんのいる家へ帰って……」
そう伝えながら自身の手から目の前にある彼の背中へ視線を移すと、僕はその姿に唖然としてしまった。彼はミシン台の上で器用にも、こてんと頭を付け、塞ぎ込んでいたのだ。
「リキト君……!?」
彼の近くまで足早に歩みより、台の上にもたれ掛かるように伏せてある横顔を慌てて覗き込むと、なんと彼は可愛い寝息を立てながら器用な体勢のまま存分に疲れを癒していた。
「寝ているのか……」
その無防備すぎる姿になぜか胸の中がじんわりと優しく締め付けられた。淡い日色を持つ長めのまつ毛、そして真珠のように淡白で、きめ細やかな肌。ふと気が付くと彼に吸い寄せられるように僕はミシン台へ貼り付けられた端正な彼の横顔をじっと見つめていた。そんな彼を見つめているとなぜかこそばゆく、少し笑みをこぼしてしまった。
「ほんとにそっくりだね、君達は……」
昔も似たような事があったなと、淡く儚い出来事が思い出される。僕がまだ12歳だった頃、16歳だったリニア様が夜遅くまで仕事をしていたあの夜、気が付くとこの場所で彼と同じようにすやすやと寝ていたのだ。今の彼と同じように彼女も仕事で疲弊し、いつの間にかこのようにミシン台の上に頭を預けていた。その姿があまりにも可憐で、しとやかなその可愛らしい様子に僕はつい、ずっと秘めていた一つの言葉を思わず漏らしてしまった。
だが、彼女には届いていなかった。
今でもあの夜のことは鮮明に覚えている。今晩と同じように静かに風がそよぐ夜だった。闇の中で、静粛に包まれながらもこの暖かな色が広がる部屋がとても愛おしく感じた。慈悲に満ちたその空間で彼女をずっと見つめていたかった。あの時の空気感も、彼女と今の彼も、まるで瓜二つのようにそっくりだ。それもそうだ、二人は正真正銘の親子なのだから。
父親似の彼だけれども、やはりそこはあの二人の子供だ。彼は彼女の血が半分も混在している。それを強く思わせるようなほのかに赤く染まる頬も、しっとりとした泡のように白い肌も、柔らかそうな唇も色濃く持ち合わせていた。
愛しく思えた。
そんな自身の心境に戸惑いながらもいつの間にか彼の元にゆっくりと右手を伸ばしていた。まるで激しく尊い何かへ強烈に惹かれるように。
触れたい――。
胸の奥隅で、自分でも制御出来ない混沌がうごめく。猛烈に惹かれてしまう。彼の閉じた目にかかるさらりとした眩い黄金色の髪へもう少しで触れられる。あと少しで柔らかくて暖かくて愛しいモノに――。
「ん……」
彼が体をぴくりと少し揺らしたかと思うと、寝ぼけているのか、いやまだ深い睡眠に入っているせいか座っていた椅子から、勢いよく体勢を崩した。そのまま床へ転げ落ちそうになり、糸くずだらけの板張りへ打ち付けられそうになった。だがその瞬間、咄嗟に彼の左腕を力強く引き上げた。間一髪だった。気が付くと、お互いの膝を床に付き、僕は彼のか細い体を抱きかかえるように支えていた。
「へ?」
彼が目を覚ましたようだ。まだ眠気
「君はミシン台の上で寝ていて、今、寝ぼけて椅子から落ちかけたんだ……」
彼の耳元で囁いた。
「え……? そうなのか? 止めてくれたのか、ありがとな」
まだ寝起きの彼のゆるゆるしい声がとても心地良く、僕の耳元から優しく響かせてくれた。その暖かな旋律の音に浸るように、僕は彼の身体を強く抱いたまま、この体制から動けずにいた。いや動きたくないのだろうか。
「ゼファー……?」
強張った僕の体に、当惑気味の彼の声が届く。もう離れないといけない。この暖かな彼から。
複雑で絡み合った糸のように、ほどけないこの儚い気持ちは彼の母親を今も尚、愛しているが故に感じられるものなのだろうか。ただ彼の身体を通してあの愛する彼女を少しでもこの肌で強く濃く、感じていたいだけなのだろうか。それとも他の何かだと言うのだろうか。自分がなぜ彼から離れようとせず、いつまでもこうしたままなのか、それは自分でもよく分からなかった。
膝を付いたままのこの体制で、最後に彼のごつついた細い体をもう一度強く抱き寄せ、体全体で染み込ませるように感じた。なぜそうしたのかはきっと聞かれても上手く答えられる自信はない。ただ、そうしたかった。自分の意思より先に自分の身体がそれを求めているようだった。彼の温もりが更に感じられると、思わず感極まり、目の奥からつんとしたものが押し寄せる。リキト君の内側から染み出る暖かな体温と優しさを、意図もせず自然と取り込んでしまったようだった。
「ちょ、ゼファー、何やってんだ……!?」
彼は困惑した様子で両腕を僕の胸へ力いっぱい押し付け、無理やりその暖かな身体から僕を引きはがした。目の前にある彼の顔は戸惑いを見せながらほんのりと赤くなっていて、くすぐったい嬉しさを感じてしまった。
「……なんでもない」
下を向いた僕は、離れてしまった彼へ一言だけそう述べた。
「……俺、帰るわ」
彼は他にも何か言いたげだったが、それ以上は何も言わず、膝を付いていた床から素早く立ち上がったかと思うと、駆け足で壁にかかっていた上着をサッと手に取り、慌てるようにこの家を出て行ってしまった。戸がバタンと閉まる音が最後に響くと、また静けさがこの家を襲った。
ミシンの音もしない、彼の心地良い声も、可愛い寝息の音も。そしてあのトクンと優しく響く心の音も。
***
「なんなんだよ、あいつ……」
気が付くと手に握りしめた上着も着ずに、青白く光る月に照らされた夜道を勢いよく駆けていた。はっきり言ってあの行動には言葉が出なかった。ゼファーは寝ぼけて椅子から落ちた俺を助けたと言った。ただそれだけだったはずだ。なのに、あいつはその後、俺を間違いなく抱きしめた。とても力強く。
「一体何がしたいんだよ……」
なんでもないって何だよ。余計気になるだろ。あいつの体は実久と全然違って、かなりゴツゴツしてるっていうか、固いっていうか、力強いっていうか……。
「ああっ! そんなことはどうでもいい!!」
せわしなく迫って来る挙動を、頭を何度も降っては暴発しそうな脳内から放出した。
ゼファーは会った当初から変わらずあの調子だ。必要なこと以外はあまり話さないし、普段から口数も多いわけではない。時々何を考えているのかさえも理解し難いことがある。だが、先程のあの行動に何か言えないような、禁じ得ないものがあるとでも言うのか。
今更ながら、あの場から逃げ去るように立ち去ってしまった自分に不甲斐なさと、後悔が押し寄せてきた。余計に気まずさを生み出してしまったかのようで、申し訳なく思えてきてしまった。せめて何か言葉をかければよかった。なぜそんなことをしたのか、も。
だけど、その答えが虚ろに分かってしまっていた故に、俺はあの場から立ち去ってしまったのかもしれない。
ゼファーの気持ちは重々に承知している。今でも忘れることなく俺の母さんを愛し続けているということを――。
頭の奥深くにあって気が付かなかった、いや、気付かぬふりをしていたのか、ずっと引っ掛かっていたある真意が今は鮮明に見えた。
もしこれがあいつの欲するものだとすれば、先刻のあの行動も全て合点が行く。けれども、もしそれがあいつの本位だとしたら、俺は果たしてどうすればいいのだろうか。俺には大切に思う人がいる。それに俺は母さんでもない。例え色濃くその血を受け継いでいようとも俺は俺なんだ。
もうすぐ自宅へ到着しそうだ。目前に迫るあの小さな家の寝室には、布団を蹴散らし、腹を出しながら幸せそうに眠っている実久がいる。よだれさえも出しているかもしれない。先程の胸をえぐられるような出来事を相殺するかのように、今すぐにでもそんな底抜けに間抜けで愛らしい実久を強く抱き締めたいと思える自分もいた。
玄関のドアノブへそっと手をかけた時、祈るような気持ちを乗せて、圧し殺すように声を吐き出した。
「……履き違えるなって、ゼファー」
***
「まだ起きてたんだな」
いつものドアを開けると、驚きを隠せないのか声も出せず、ただその顔をこちらへ向けて、少し赤くなっている目をしばたたいていた。
「……俺さ、分かってるんだ、分かってたつもりだった。お前の気持ちに。けど、ずっと気付かないふりをしてただけなのかもしれない。その……、面と向かって受け止める自信がなかったのかもしれない……。けど、もう自信とか無くたって見て見ぬふりはやめる。だってお前はずっと苦しんでる。なぁそうだろ……? もう押し殺す必要はないんだ。……俺はきっと一生お前の傍にいる。だから、俺に出来る事があればなんでも言ってほしいんだ。俺は……、お前が大切だから――」
今にも膝から崩れ落ちそうなその身体を受け止めるように、そっと抱き寄せた。そしてその暖かな体温を全身でまた強く感じた。
「もう一人じゃない。俺がいつも傍にいるから」
お前の涙を見たのは俺しかいない。
これから先もずっと――。
異世界に精霊とんぼが飛び立つ頃に 凛々サイ @ririsai
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