だから私は彼を殺したのに

たぴ岡

だから

 目の前にいた男がどさっと地面に倒れ、歪んだ顔でこちらを睨んでいる。力が入らないのか、左手をこちらに伸ばすだけで立ち上がろうともしない。右手は痛みを押さえ込むように腹を押さえている。そこから流れ出ているのは、彼の命そのもの。降り続ける雨のせいでそれは道路へと溢れていって、排水溝へと消えていく。

 彼はもう、あと少しで、死ぬのだろう。

 私は手に持っている血に塗れたナイフと青白く血の気がない彼を、交互に見る。

 これは私がやったことだ。彼は私のせいで死ぬのだ。私が殺したのだ。まだ生きているけど、こんなところにひとり倒れている男なんて誰にも見つけてもらえないだろう。少なくとも今晩は発見されない。もうこんなに夜も更けている。こんな暗い山奥、明日の朝になっても誰も通らないかもしれない。そうだとしたら、捜査は混乱する、よね。

 私は手に持っていたナイフをタオルで包み込んで鞄の中に急いで放り込んだ。

 雨が止まることはなかった――。


 目的を達成した私は、傘も差さずに帰路へ着く。

 少し冷たい水滴が顔にあたって気持ちいい。全てが流れて消えていくような気持ちになる。今までの彼との汚い記憶も、さっきの赤黒い罪も、全部が。

 自分の身体が汚れているような気になる。あの人の全てが憎い。返り血なんてついているのすら腹立たしい。あの人は死んで当然のことをした。私はあの人を殺しても罪に問われない。仕方のないこと。辛いこの人生から抜け出すための、唯一の方法だった。これは、許される行為。

 付き合い始めた当初は、たぶん普通の甘酸っぱい恋人同士だったと思う。暴力も振るわれなかったし、それにすぐに私の身体を求めるようなことはしなかった。彼が変わってしまったのはいつからだったろうか。もう思い出せないくらいずっと昔のことかもしれない。

 周りを歩く人たちはみんな、ずぶ濡れの私に一度や二度は心配そうな、もしくは迷惑そうな瞳を向けるけれど、結局助けようともしなければ説教をしようともしない。だから私は彼を殺さざるを得なくなった。自分自身を守るために。

 見上げてみれば、美しい星空が目に入った。どうしてこんなに土砂降りなのに、星は綺麗に輝いていられるのだろう。どうしてこんなに惨めな女がいるのに、頭上で知らん振りをしていられるのだろう。私は神にも天使にも愛されなかった。私は彼にも、本当の意味で愛してもらえたことはなかった。こんな人生、生きる意味はない。私もこのナイフで――なんて考えてはみるものの、それを実行する勇気はない。

「あの人を殺す勇気はあったのにね」

 ひとり自分を嘲笑う。

 あぁ、私は誰にも見向きもされず、孤独なまま死んでいくのだろうな。

 あの日私の苦しみに微笑んで手を差し伸べてくれたあの人は、ただの身体目当てだった。私はあんなにも惹かれて、嬉しくて、楽しくて、幸せだったのに、彼はそれ自体を望んでいた訳ではなかった。彼は、誰でも良かったのだろう。私でなくとも満足したのだろう。それを私は、期待してしまっていたなんて。馬鹿らしい。

 あの日照れながら告白してくれたのも、あの日優しく手を握ってくれたのも、あの日ふわりと唇を重ねたのも、全て彼の嘘。彼の思い通りだった。あの日私の頬を殴ったのが、あの日私のスマホを壊したのが、あの日私のスカートを破ったのが、それらこそが彼の目的。私を愛しているからではなかった。悔しかった、苦しかった、辛かった。どうして私だったのか、疑問でならなかった。

 毎日のように勝手に家にあがっては、力で私を押し倒す。首を絞める。嫌がる私に構いもせず、彼は強引に覆い被さってくる。それから私の抵抗も虚しく彼は自分だけを満足させて、勝手に家を出て行く。私の涙は、彼の何にも影響させられなかった。泣いたところで彼の手は止まらない。泣いたところで彼がやめることはない。痛くて苦しくて、怖くて。

 きっと誰かは、何故救いを求めようとしなかったのか、と言うのだろう。言うだけなんて簡単なことだ。誰かに相談したところで、助けてくれるようなひとはいないだろう。友人は少ないし、ほとんどが女性であの男に対抗など出来そうもなかった。それに相談したことがバレてしまえば、きっと彼は私のことをもっと酷く扱っただろう。暴力に堪えなくてはならない時間が延びて、暴言を言う回数も増えて、それから身勝手に私を汚していくのだ。

 堪えられなかった。彼の玩具であることが嫌で、たまらなかった。

 自分が死ぬことだって考えた。しかし結局は自分がかわいい。私を殺すことなんて出来なかった。それに、死ぬのならあいつの方なはずだから。私が死んで彼が生きているのは許せない。どうして被害者が死を選んで、加害者はのうのうと生きていられるの。それなら、と彼を殺すことを選んだ。

 私は正しい。

 私は間違ってなんかない。

 河原の近くで立ち止まり、水の量が増えたそれを見つめる。周りに人気はない。ここなら――私は鞄からタオルに包まれたナイフを取り出し、思い切り川に投げ込んだ。どぷん、と小さな音が鳴って、ナイフは水の奥底に消えた。もしかしたら川底に沈んで動かずにいるのかもしれないし、それともこの急な流れに飲まれてどこか違うところへ行ったかもしれない。

 ――私もあんな風に、怒りに飲み込まれたのかな。

 息が苦しくなってその場にしゃがみ込む。咳が止まらなくて、思うように酸素を取り入れられない。私はおかしくない。私は正義だ。大丈夫、私は私を救っただけ。罪なんかない。

 と、雨が止まった。上からバタバタと騒がしい水の音が聞こえる。顔を上げると雨がやんだ訳ではなさそうだ。雨脚は強くなるばかりなのが見える。

「大丈夫、ですか」

 頭上から声が降ってくる。

「風邪ひいちゃいますよ」

 柔らかい、優しい声。

「あ、これ使ってください」

 私にかけられたのは、少し大きな上着。

 見上げるとそこには温かい笑顔の男性がいた。

 私のすぐ傍に、こんな人がいたなら、あの人がもし、この人のような人間だったなら――私は彼を殺さずに済んだのかもしれない。

 雨に濡れていた頬に一筋、温かい水滴が伝った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

だから私は彼を殺したのに たぴ岡 @milk_tea_oka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説