海辺の窓辺

Jack Torrance

第1話 海辺の窓辺

波打ち際から500ヤードくらい離れた高台に構えるケープコッド様式の一軒家。


化粧しっくいで固められた家屋から浅くせり出た窓辺のポーチ。


祖父の代からずっとそこみ在る古びたロッキングチェア。


ウィル オブライエンはギブソンのアコースティックギターを手にしてそっと腰を下ろした。


欅で張り巡らした床板がギシギシと軋む。


胸ポケットからマールボロを一本抜き取りジッポで火を点ける。


火を点ける手が小刻みに震える。


大きく煙を吸い込み虚空に向かって大きく吐き出した。


そして、銜え煙草でブルーズを爪弾き出した。


ブラインド“ウィリー”ジョンソンの『ダーク ワズ ザ ナイト-コールド ワズ ザ グラウンド』を一音一音、魂を刻み込むかのように弦を弾(はじ)く。


何故だかギターを爪弾く際には小刻みな手の震えが弱まっているとウィルはいつも感じていた。


やさしい音色が夜の帳を包み込む。


だが、その調べは悲しげで憂いを帯びていた。


裏山の梟のハミングとさざ波の寄せては返す旋律。


ウィルは神が創りたもうた自然の偉大さに心を委ねる。


しかし、時に牙を剥き出しにして人類を脅威を以て戒める混然としたその表裏一体の姿に人々は困惑し打ちのめされる。


基本、人間の多くは罪なき者だが中には罪深き者もいる。


だが、多くの人間は見て見ぬ振りをしてきた。


森林伐採を黙認し、己の生存もしくは罪深き欲の為に資源の枯渇を黙認し、大気、水質、土壌の汚染という愚行を重ね、大きな代償を払っているという自責の念すら見せずに、その恩恵に与(あずか)ってきた。


人類は右肩上がりで増加する一方で動物や植物などの生物は絶滅危惧種なども増大しているという儚い現実。


そして、人間は自然の怒りに触れ淘汰されているのだとウィルはペシミズム的な思考を眼下に見下ろす海を見ながら抱いていた。


曲を弾き終えるとギブソンを家の壁に立て掛け煙草を足下に投げ捨てて踏み消した。


徐にジーンズのポケットからフラスコを取り出しワイルドターキーをぐびりとヤる。


溜息を吐きながらロッキングチェアの横のテーブルにフラスコを置く。


マールボロを抜き取りまた火を点けると物思いに沈みながら海をじっと眺めていた。


そして、またワイルドターキーをぐびぐびと流し込んだ。


空を見上げると月は真ん丸で月の柔らかな光がウィルを照らしていた。


こんな夜に彼女が隣にいてくれたらな…


煙草を足で踏み消しワイルドターキーをぐびりとやりながら夜空と海を眺望しているとフラスコが空になった。


家に入りキッチンの食器棚からボトル毎持ってテーブルの上の携帯も握りまたポーチに出た。


ボトルから直に一口呷ると携帯のウォールペーパーに目をヤル。


0時23分だった。


海から吹き付けて来る風で夜気は少し冷たく感じた。


ウィルはダイヤルしようかしまいか少し思案したがダイヤルした。


呼び出し音が1分くらい鳴って「もしもし」と女の眠たげな声が聞こえてきた。


ウィルは無言で携帯を耳に当てていた。


「ウィル、あなたね。大丈夫なの?」


女が心配そうに尋ねる。


ウィルは、このまま電話を切ろうか喋るべきか一瞬迷ったが声を発した。


「ああ、こんな遅くに済まない」


「ウィル、あなた、かなり飲んでいるの?」


「ああ」


「またヘレンの事、考えてたの?」


「ああ、そうかも知れない」


「ウィル、あの事故は誰のせいでもないのよ。お酒に逃げちゃ駄目よ。ウィル、あなた、一人で大丈夫?今すぐにベッドに行ける?」


女は子供をあやすようにやさしく受話口の向こうから語り掛ける。


「解らない」


「何処から掛けているの?」


「ポーチ」


「今から15分でそっちに行くからもう飲んじゃ駄目よ、ウィル。解った?」


「ああ、シンディ。努力してみるよ」


そう言ってウィルは電話を切った。


ウィルは電話を切るなりマールボロに火を点けると無意識のうちにボトルに手が伸びた。


またぐびぐびと呷りながら夜空の星々を見上げてロッキングチェアに揺られていた。


間もなくしてフォードの四輪駆動のリフトアップがポーチの前に横付けされた。


運転席から中肉中背の30歳を過ぎたくらいの愛くるしい顔の女が降りて来た。


アッシュブロンドのショートカット。


くるりとした丸い目で長い睫。


首の後ろにそばかすが散っていた。


雑草を踏み分ける足音をかさかさとさせながら小走りでウィルの元に駆け寄る。


ウィルの側に歩み寄ると横のテーブルの上のボトルを取り上げた。


そして、テーブルを挟んでもう一脚置いてあるロッキングチェアに腰を掛けてウィルを窘めるように言った。


「ウィル、お酒を家に置いちゃ駄目って何度も言ってるじゃないの。どうして解ってくれないの。あたしがこんなに心配しているのに」


女は目尻に流れた涙を人差し指で拭う。


「済まない、シンディ」


ウィルは項垂れながらポツリと言った。


「またヘレンの事を考えて自分を責めていたのね。あの事故は不可抗力だったのよ。誰も悪くないのよ」


ウィルとシンディとヘレンはボストン大学の同級生でウィルは大学卒業後には夏のシーズンはカルマス海岸でライフセーバーをやり、オフシーズンには知り合いのサーフショップやギターショップで務めていた。


ウィルとヘレンは大学時代から付き合っていて卒業してから3年後に結婚した。


そして三人にはサーフィンという共通の趣味があった。


今から3年前。


28歳の夏だった。


三人で波乗りを一頻り楽しんだ後だった。


風が凪いだので浜に上がり少し休憩していた。


売店でダイエットコークを買って皆で飲みながらサーフミュージックや最近の気に入ったブランドの服の話など他愛のない会話を楽しんでいた。


ウィルが、ふと急に思い浮かんだかのように言った。


「あのフロートまでパドルで競争しようぜ」


シンディは砂浜に横になっていて気だるそうに言った。


「あたしは疲れているからもうちょっと休んでおくわ」


「ヘレン、君はどうする?」


ウィルが悪戯っぽい笑みを浮かべてヘレンに尋ねた。


「あなたみたいなへっぽこライフセーバーにあたしが負けるとでも?いいじゃないの。受けて立とうじゃないの」


「おいおい、自分の亭主によくもそんな事を」


そう言い残して二人は笑いながらボードを担いで海に入って行った。


ほんのちょっとしたお遊びだった。


パドルで夢中になってスイスイと沖のフロートを目指す二人。


ウィルはライフセーバーとして致命的なミスを犯してしまった。


離岸流が発生し潮の流れが沖に向かって速くなっていた。


気付いたらヘレンの方がどんどん沖に流されていて波に撃たれてボードがひっくり返りヘレンは単身海に投げ出されていた。


ウィルが救助しようにも自然の力に抗う事は出来なかった。


ウィルはライフセーバーという職業柄。


対処法を心得ていたので自力で難から逃れたがヘレンは帰らぬ人となってしまった。


「あの時は風が凪いでたから離岸流を早めに察知していてもおかしくなかったんだ。俺があんなお遊びを持ち掛けなかったら…」


ウィルは自分を責めてアルコールに依存するようになっていった。


自分の殻に閉じ籠るようになり日常生活にも支障を来たし仕事を辞めてペシミズム的な思考に耽るようになった。


「ウィル、あなたのせいじゃないわ。あれは不可抗力でどうしようもなかったのよ」


シンディはウィルを慰めた。


ウィルとシンディは今年の1月から7月までこのウィルの家で同棲していた。


1月の半ばくらいだった。


今日と同じようにウィルから電話があった。


ウィルは酒を呷りながらベッドの上でアルバムを見ていた。


「シンディ、俺はヘレンの事が忘れられないんだ。俺のせいで、俺のせいで…」


そう言ってウィルは子供のように号泣していた。


シンディは大学在籍時から密かにウィルに心を寄せていた。


だが、ウィルはヘレンに首ったけだったので自身の感情を押し殺して良き友人としてウィルとヘレンと付き合っていた。


ヘレンが亡くなった後もウィルはヘレンへの未練を断ち切れなかったのでシンディはウィルを友人として献身的に支えていた。


そして、ウィルが号泣していたその晩にシンディは今まで耐え忍んで来たウィルへの愛情を押さえきれなくなりウィルを今まで以上に愛おしく感じた。


泣きじゃくっているウィルの頬の涙を手で拭ってやりながらウィルのその唇にやさしく唇を重ねた。


「あたしが全て忘れさせてあげる。もう泣かないで、ウィル」


もつれ合うようにベッドにウィルを押し倒しシンディは愛する人と結ばれた。


そして、シンディは決意を固めてウィルの家での同棲を始めた。


隣の街で医療事務の仕事をしていたシンディはアパートを引き払ってウィルの家での新生活を始めた。


しかし、ウィルのヘレンへの未練と自己破滅的な生活がシンディを苦しめた。


「あたしがこんなにあなたの事を愛しているのに何故解ってくれないの。ウィル、あなた、このままじゃ本当に駄目になってしまうのよ。今が変わる時なのに。なんで、なんで…」


そう言ってシンディは泣き崩れた。


「済まない、シンディ。こんな馬鹿な俺で」


ウィルはいつもそう言って項垂れるだけだった。


シンディは少し冷却期間を設けて家を出た方が自分にとって必要なのかも知れないと思い先月にアパートを借りて家を出たばかりだった。


あたしがいなくなればウィルも少しは自立するかも知れないと思って。


シンディはギターを手に取り家の中のブルーオパールの色調の二人掛けソファーにそっと置く。


シンディがホームセンターで買って来たソファーだった。


いつも物憂げなウィルの肩に頭を乗せながらシンディはいつもウィルを解き放とうとしていた。


シンディはウィルと過ごした短い同棲生活を回想しながらポーチに戻って行く。


「ウィル、立って歩ける?」


「ああ」


ウィルは立ったが足下は覚束ない様子なのでシンディがウィルの脇に手を差し入れゆっくりとベッドまで誘導して行く。


ベッドに腰を下ろさせ靴を脱がせてやる。


頭を支えながらウィルを横たえさせるとブランケットを掛けてやる。


「ウィル、愛してるわ」


シンディがウィルの額にやさしくキスする。


ウィルは無言でシンディを見つめる。


目尻から涙の雫が伝っていた。


シンディはワイルドターキーのボトルを掴んで車に乗り込みキーを回しながら。月光に照らし出されたポーチを見ていた。


手入れが行き届いていない家や雑草が伸びて荒れ放題の玄関前。


やっぱり、あの人はあたしが支えてあげないと死んじゃうわ。


あたしもウィルのいない人生なんて考えられない。


明日、アパートを解約して戻らなきゃ。


シンディはそれが自分が進む道なんだと改めて己に言い聞かせ車を私道に出して走らせた。


穏やかに波打つ海を眼下に見渡しながらラジオのスイッチを入れた。


「次の曲はケリ ノーブルの『ルック アット ミー』です」


やさしい声の女性のDJが紹介した。


ピアノの美しいメロディが流れてきてシンディは胸を打たれて聴いていた。


私を見て


私の瞳を見つめて


ねえ、教えて


私がいつも側にいるのが分からないの?


それとも世間に膝まづいてしまうの?


私の所に来て


自分を見て


あなたの心の中を見て


ケリ ノーブルの切なくて張り裂けそうなヴォーカルとその歌詞が今の自分の心境とシンクロしてシンディの目から涙が溢れ出してきた。


あたしの目にもワイパーが必要ね


シンディはラジオから流れてきた曲に元気を貰って家路に就いた。


ウィルとの幸せな未来を夢見ながら…

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海辺の窓辺 Jack Torrance @John-D

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ