第八話 さよなら、私のかみさま


 まもなく「ばけもの屋敷」にも冬が来る。

 冬は庭に生えた椿が芽吹き始め、気温が急激に下がる。朝起きるのが億劫おっくうになり、洗濯をする手が痛くて息も白くなるけれど、他の季節に比べたら一番好き。冬の良いところなら、先生と同じくらい語れる。


 朝の日課を終わらせ、正午を回ったある日の昼過ぎ。私は昼餉ひるげの用意は終えて手持ち無沙汰になった。縁側で澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込みながら、私は意気込んだ。

 今日も私は先生のために尽くしたい。

 縁側からは見えないが、先生のいらっしゃる書斎の方向へ視線を送る。

 ……それなのに私は、肝心の先生の顔を全然見ていない。先生は昨日から部屋にこもってひたすら執筆を進めている。多分朝も昼も夜も食べ物を口に入れてない。昨夜はお夜食をと夕餉ゆうげを持っていったが、不機嫌だったのか門前払いを食らってしまった。

 今日の朝はというと、先生はなんと起床済みだった。秋から冬にかけてはいつも「寒いから」と私の隣で寝ていたのに、昨日は隣にさえいなかった。

 日の出前に先生が起きているのはなんだかむず痒い。変に緊張して今朝から魚を焦がしてしまったし、洗い立ての服も汚してしまった。

 「いつもと違う」というのは、思っている以上に厄介らしい。


 ふぅ、と溜め息を吐いて私は拳を握った。

 昨夜は追い払われたが、今日は負けずに粘ろうと思う。私は、先生とは不調の時こそお会いしたい。

 身体の向きを変えた時「こんにちは」とおよそ予想のつかない場所から声がした。何故か声は庭から聞こえた。私は弾かれたように振り返ると、なんと庭の敷地で絹川さんが呑気に手を振っているではないか。

 

「どうも、蛍さん」


「き、絹川さん……一応庭も先生の敷地ですよ……」


「もちろん、存じてます」絹川さんは少しも悪びれずに言った。

 少しは申し訳なさそうにしても良いのでは、と私は非常識な絹川さんをつい睨む。


「でも先生って玄関から入ると怒るじゃないですか」


 ……まぁ、確かに。

 それには同意だ。

 「でしょ?」絹川さんは私の心を読んで同意を求めてきた。「蛍さんも、そう思いますよね?」


「……お気持ちは分からなくもないですけど、庭から入るのは少々ご無礼ではないですか」


「そこはぼくと先生の中ですからご心配なく。ではお邪魔します」


 絹川さんは私の横をすり抜け、まるで自宅のような気楽さで廊下を歩いて行った。


「……え!?ちょっ、絹川さん!」


 あまりに自然に上がったものだから出遅れた。私は叫びながら慌てて絹川さんの後を追う。

 絹川さんは初めて上がったと思えないほど迷いなく、先生の書斎に向かっていた。しかも廊下を走ること。


「もう!失礼な人……!」


 私もつられて走りそうになったが、なんとか早足に留めて曲がり角に差し掛かる。ここを曲がって少ししたら、先生の書斎だ。

 早足の勢いのまま曲がると、絹川さんが先生の書斎へ入っていく姿が見えた。

 なんて早い。もう手遅れだ。

 ……先生にお叱りを受けてしまう。

 私は諦めて立ち止まった。絹川さんがあんなに自由奔放じゆうほんぽうな方とは、と頭を抱える。


「……とりあえず、お茶菓子をお持ちしましょうか」


 たしか戸棚に先日作った餡子あんこが入っていたはず。

 私はきびすを返し、台所に足を運んだ。台所に着いて早速戸棚を開くと、思った通り、少しだけだが試作の餡子あんこが残っていた。

 先生に初めて餡子あんこを作って以来、私は何度も試作に挑戦している。いかに先生が喜んでくれるか、いかに美味しく作れるかを考えてみるとやめられなかった。

 作りすぎて先生に「飽きた」と言われたのがつい昨日。


「ふふ、残しておいて正解でしたね」


 昨日の今日で先生は嫌がるかもしれないが、お茶菓子ということなら問題ないだろう。


「……いえ、先生のことなら絹川さんの前で文句を言っても不思議じゃないですね」


 少し悩んで、私はお茶と餡子あんこをお盆に乗せた。他に作っている時間がもったいないからと妥協してしまった。

 しかし、と軽く跳ねながら私は書斎へ向かった。お砂糖を少し混ぜた、甘さ増しの餡子なら食べてくださるだろう。

 書斎に着いてすぐ、


「……だ。……がら……だ……」


「そんな……な……さい。ぼく……ん……から」


 となにやら話し声が聞こえ、あら、と私は目を見張った。てっきり先生が口を聞かないとばかり思っていたから急いだが、杞憂きゆうだったらしい。

 肩透かしをくらった気分で私は引き戸に手を伸ばす。


「もう一度聞きます。ばけものは貴方じゃないでしょう?ねぇ、隠世かくりよ先生」


 ——引き戸に伸ばした手をつい止めた。


 先生達は一体何を話しているのだろう。ばけものと言えばこの屋敷の名前しか思い浮かばないが、それに関係することだろうか。


「何の話だ……そんなことより——」


 盗み聞きは悪いこと。

 分かっているのに、やめられない。


 私はそっとお盆を置き、ふすまに耳を張り付けた。


「そんなこと、が僕には一番気になるんですけどね。蛍さんとどこで出会ったんです?あんな美しい女中じょちゅうさん、滅多にいらっしゃらないですから」


「蛍は女中ではない。改めろ」


「だって炊事、洗濯、掃除を任せっきりなんでしょう?」


「改めろ」


「分かりました、分かりましたよ」絹川さんの面倒くさそうに言った。「じゃあ蛍さんとは一体どう言う関係で?」


 ……なんということだろうか。

 まさかの「私」が本題だ。

 聞いてはいけない罪悪感より、聞きたい 好奇心が勝った。

 先生が私のことでお怒りになった事実。

 関係性に問われて黙る先生。

 私は先生の言葉一つ一つに身をよじりながら、嬉しい悲鳴をあげないように必死に堪える。

 さぁ早く続きを、と高鳴る胸を押さえて引き続き耳を澄ましていると、先生の重い声が聞こえた。


「…………蛍は私が拾った孤児だ。黄昏時に竹林で彷徨さまよっているのを見つけた。話を聞くと私に似た境遇だったから、気まぐれで招いただけだ。屋敷を出ていかない理由は知らん」


「本当ですか。知ってて黙ってるんじゃないですか?」


 絹川さんが詰問きつもんを繰り返す。

 だからか、ふすまへだてても聞こえるくらい、先生の溜め息は大きい。


「お前の舌は本当によく回るな。人を不快にさせる言葉を、よくもここまでつらつらと並べられるものだ。心底軽蔑するよ」


「あはは、なかなかキツいこと言いますねえ」絹川さんお一人の笑い声がこだまするが、すぐに静寂に包まれた。「ま、ぼくのことはどうでも良いんです。いい加減話を逸らさないでくれませんか、先生。いや、常夜さん」


 常夜さん?

 話は聞き慣れぬ名前に首を傾げる。


「……絹川」


 しかし、先生のただならぬ声を聞いて私の疑問は引っ込んだ。


「知ってますか、ここがばけもの屋敷と呼ばれる理由。家主の貴方が知らないはずはないと思いますけど」


  怯える私とは対照的に、絹川さんは落ち着いてゆっくり話し続ける。

 そこで、だん!と大きな音が響いた。

 反射的に肩が揺れて、心臓の鼓動が速くなる。今のは尋常じゃない音だった。どうしても気になって、ふすまを僅かに開けてみる。

 その瞬間、鋭い声と光景が私の耳目に飛び込んできた。

 

「それ以上言うなら出て行け!俺はお前にそこまでの発言を認めていないし、許してもない!」


「そんなに声を荒げると聞こえちゃいますよ、隠世かくりよ先生」乱れた服を整えながら、絹川さんが言った。「ぼくは疑問をぶつけただけです。あの身元不明の女性が誰かって、聞いただけじゃないですか」


 先生は眉根を寄せて、絹川さんに詰め寄る。


「蛍に関する質問は一切受け付けない。お前……知ってるだろうに、この屋敷でそれを安易やすやすと口にするな」


 乱雑な書斎で、先生が絹川さんを責め立てている光景は異様だった。

 先生の机からは筆の液が溢れ、畳に円形のシミを作っている。絹川さんのキャスケットは床に落ち、彼の服は乱れている。先生の原稿用紙はいつにもまして散らばり、踏まれたみたいに皺だらけだ。

 他人事のように眺めながら、私は言葉を失っていた。

 先生がここまで怒鳴っているのを見たのは初めてだ。怒るにしても決して大声をあげすに冷たく言い放ち、冷静に対処なさる方だったから目を疑ってしまう。

 先生がそんなに怒る原因——ばけもの屋敷の、ばけものの正体とは一体なんなのか。

 そして、私は誰なのか。

 後者はもちろん知っている。私は先生に拾われた孤児で、先生の恩返しのために屋敷に留まっているだけの女だ。

 そう。きっとそうに違いないのに——。

 絹川さんに指摘されてから、私の胸は妙にざわついていた。喉元まで単語が出てきているのに、言葉にできないような不快感に近い。

 ふとふすまの隙間から、絹川さんと目が合った。


「……!」


 瞬間、絹川さんが微笑んだ——気がした。

 絹川さんは先生を見据えて、口を開いた。聞いてはいけないような気がしたのに、私の目は絹川さんに釘付けになる。より耳を澄ましてしまう。

「ねぇ、先生」絹川さんは横目で私を見ながら言った。「蛍さんは一体何者なんですか。なんでばけものって呼ばれてるんですか」


「——————」


「……え」


 沈黙する先生より早く声を漏らし、私は地面にへたり込んだ。


 ——私がばけもの?


 訳が分からなくて後退ると、お盆を蹴ってしまったのか、お皿の割れる音がした。同時に、ふすまの隙間から二人が私の方を見る。

 ……世界が無音になった。

 先生が重い腰をあげ、口を開けていた。多分私に近寄って何かを伝えようとしているのだろう。

 その後ろでは、絹川さんが笑顔を貼りつけていた。いつもと変わらない笑顔のはずなのに、私を責めているように感じた。


「ち、違います、私——ばけものなんかじゃ……」


 ぶつり。

 映像が途切れたみたいに、急に視界が暗転した。




*****




 気づいたら私は竹林の中にいた。


 全身を打つ寒気でようやく思考が回復したらしい。我に返って、私は振り返った。

 後ろには狭い道と竹しかない。どうやら私は屋敷が見えないほど遠くまで離れてしまったようだ。

「……屋敷に戻りましょう」と、私は来た道を戻った。

 だが、まずは頭の中を整理しよう。気持ちを落ち着かせなければ、先生に平気な顔して会えない。


 第一に、どうして私は逃げ出したのか。

 盗み聞きという悪いことをしたから?それとも、絹川さんの意味深長な笑顔に恐怖したから?

 ……それとも、あの話は私に都合が悪かったから?

 と、原因はいくらでも湧いてしまう。でも料理をする時と同じく、私に都合が悪いからだと分かった。

 私は立ち止まって、低い空を見上げる。

 昔話をするたびに先生が悲しんでいたのは、気のせいじゃなかったのかもしれない。私の過去や身元について、先生はご存知なのかもしれない。


「私も知らない、私の秘密……」


 ふと、先生が縁側に座っていたのを思い出した。先生は時折ぼんやりと庭を眺めて、何もせず数分で書斎に戻ってゆく。お邪魔してはいけないと思い、私は声をかけることは絶対にしなかった。

 だけど眉を下げ、目頭に皺を寄せた先生の横顔を見るたびに心臓がぎゅっと締めつけられる気持ちになっていた。

 今ようやく理解した。

 先生の物憂げな表情には確実に意味があった。私が見て見ぬふりをしていたのは、心のどこかの突っかかりから、目を逸らしていたからだ。


「ほら」


 不意に私の声が後ろから聞こえた。振り向くが、もちろん誰もいない。


「自分の過去を、思い出してみて」


 続いてまた声がした。

 幻聴にしては鮮明で穏やかな私自身の声だった。


「……っ」


 気分とそぐわない声色に怒りが沸く。

 良いでしょう、と私はムキになって記憶を辿った。


 ——私は地方有数の農家の一人娘。

 厳しい両親に育てられた。今の時代農業ではなく学業を疎かにしないようにと、専門学校にまで通った。勉学は優秀な成績を修めていたし、料理は人並みにできた。気の合う友達はいなかったが、私をしたう同級生はいた。

 学校卒業後は祖父母の死がきっかけで家を追い出され、私は夢も当てもなく街を歩いた。勉学に励んだことが幸いし、しばらくは狡賢く生きることができた。

 ……しかし所持金が底を尽いてからは、何もできなかったのだった。


 だから私は山を目指した。

 どうして山を目指したかは覚えてないが、多分、山の中にある村に用事があったんだと思う。村に用事があった理由も、今では思い出せないが——結果的には村に着けず、竹林を彷徨さまようことになった。

 その竹林の中にあった「ばけもの屋敷」で、偶然にも私は先生に出逢った。


「……あれ」


 おかしい、と私は足を止めた。

 頭を押さえて目を閉じる。頭の奥から、思い出を引っ張り出そうとする。


 でも、見つからなかった。

 

 思い出せないというより、学校に通っていた事実と竹林で迷った光景しかない。それ以外は綺麗さっぱり忘れてしまっている。


 待て待て、と私は餡子作りの懐かしさを思い返した。作っている最中によぎった、暖かい触れ合いの場面。あれはかけがえのないもので、私だけの記憶のはず。ならもっと細かいところまで思い出せば————


「——っ……だめ。全然、わからない」


 捻り出そうとしても前後の記憶は分からなかった。逆に、私の隣にいた三つ編みの女性に見覚えがないことに気がついてしまった。


 はたして、三つ編みの女性は誰か。

 そして学校で慕ってくれた同級生は誰だったのか。

 ……そもそも私の親は誰なのだろうか?


 ——よくよく考えると、何もかも全く思い出せない。


「あ、あ……あああ」


 記憶の糸がほつれる。脆かった私の思い込みが、ついに崩れてゆく。


 一つだけ疑惑ができた。

 日々私が感じていた違和感。意識的に避けてきた思い込み。私が昔話をするたびに、思い詰める先生。それはまるで、喧嘩別れをした家族のような——。


「あっ」


 まるで、ではない。私の疑惑が合っているなら、先生は本来の表情を浮かべていただけだったのだ。私が付け入る隙なんて全然なかった。

 私は疑惑を口にする。


「もし、この記憶が先生のものだとしたら?」


 言葉で紡いでようやく、私は記憶の誤りを実感した。

 ……やっぱり根本から違ったのだ。



 


 これは疑いようのない事実だった。


 身体から力が抜けた感覚を最後に、頭が真っ白になった。

 それから先のことはあまり覚えていない。無心で歩き続けていたら、いつのまにか屋敷に到着していたことだけ把握した。

 石でも踏んだのか、私の歩いた道には点々と血が続いている。


 








 













 でも、ちっとも痛くなかった。

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常世のかみさま 辰ノ @viy

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