第七話 実現する不安


 気がついたら、私は先生と居間で談笑だんしょうしていた。洗濯物を片付けて食事の準備をしていたと思ったのに、先生の隣に座っているではないか。

 先生はぼさぼさの髪にいつもの着物をまとって、あぐらをかいていた。


「先生、私たしか……」


「ん?どうした蛍?なにか嫌なことでもあったのか?」


「!せ、せせ……先生!?」


 不意に先生が私の頭をでる。穏やかな口調で、柔和な笑みをたたえて私の頭をでている。

 明日世界が終わるのでは、と思うくらいの衝撃だった。普段の先生なら絶対こんなことしないのに、どうしたのだろう。

 疑問を浮かべながらも、私は当然こばめない。先生の突然の心変わりが、嬉しくて嬉しくて仕方ない。


「先生、今日はご機嫌ですね。わ、私何かしましたか?」


 でもやっぱり不思議で、つい聞いてしまう。

 年頃の男女がこんなにもくっつくなんて、世間様には見せられない光景だ。私はもう少し乙女心の恥じらいというものを学ぶ必要があるだろう。


「いや、ただ蛍が愛おしくてな。こういう日があっても良いだろう?」


「な……」


 私は絶句した。

 先生と私は両想いだったのか。こんな時代、色恋に寛大な先生はおかしいと思ったが、まさか互いに想い合っていたとは。

 私はしばらく動けなかった。嬉しさからか戸惑いからか、頭の中が真っ白になっていた。

 呆然とする私を見下ろす先生の唇が、微かに動いた。何かを言ってから立ち上がり、襖の向こうへ歩いて行く。言葉を聞き取ることができなかったが、歩いた方向を見ると台所に向かったのだと分かった。

 正座を崩し、私は自身の顔を抑える。予想外の接触に少しほてっているようだった。

 見た目は変わらないだろうか、と顔の赤さが気になった。あからさまに顔色を変えては、先生が誤解してしまうだろう。いや、誤解も何もないのだが、素直な気持ちがバレるのは今後一緒に住む上で支障をきたす。

 だけど先生は私に「愛おしい」と言った。聞き間違いじゃなければ、それは両想いということで……


「って、さっきもこれ考えたじゃないですか」


 小声で否定し、私は正座する。

 でも、でも……やっぱり……!

 

「恥ずかしながら、こ、恋仲になるのも幸せです……」


 と呟いた瞬間、悪寒おかんが背筋を駆け上がった。粟立あわだつ腕を擦り、私は周りを見渡す。

 ……この気持ち悪さはなんだろう。

 心の中で焦りながら、私は先生が消えた襖へ視線を移す。先生はまだ戻ってきていない。普段なら先生がどこへ行かれても気にならないのに、今はすぐにでも先生のお顔を確認したかった。

 居ても立っても居られず、私は居間を飛び出した。先生が足を運んだであろう台所に走るが、到着前にぴたりと足を止める。


「先生……っ」


 先生は台所で倒れていた。

 先生を中心に、じわじわと血溜まりが広がっているのが見える。

 私は迷わず走った。走って、先生を抱きかかえて、呼吸を確認してからようやく周りを警戒する。

 周囲に怪しい人影や物音はなかった。加えて、先生に外傷もなかった。だというのに、先生の口と胸から血があふれている。

 一瞬で私の着物が紅く染まった。


「……のせいだ」


 放心状態の頭に、先生のかすれた声が届いた。ハッとして腕の中の先生を見下ろすと、先生は瞬き一つしないで私を凝視していた。


「先生、ご無事なんですね!」


 私は楽観的に叫ぶが、先生の尋常ではない様子に気圧けおされ、すぐに口を閉じた。


「……先生」刺激しないように私は呟く。「一体、何があったのですか」


 答えられる傷ではないと思った。だけど聞かずにはいられなかった。

 先程からずっと、先生が良くも悪くも。私の知っている先生は嫌悪する絹川さんと話したからと言って、甘い言葉を囁く人ではない。出会ってまだ数年しか経っていないが、それくらいは分かる。

 見つめ合って数秒後、先生の唇が動いた。


「先生、なんですか」また上手く聞こえず、私は先生の口元に耳を寄せた。「もう一度だけ、お願い致します」


 視界の端に映る出血が痛々しい。先生の言葉を聞いて、すぐにでも止血しなければ。


「……蛍」私の名を呼び、先生は腕を掴んだ。


「はい、私はここにいますよ」私はあやすような口調で伝える。「安心なさってください。今ならなんでもします」


 耳を近づけたまま数秒時間が止まる。私の腕を掴んだ先生の指が、ふるふると痙攣し始める。

 叫びそうになったが、腕の痛みがそれを遮った。

 先生に掴まれている腕が痛い。締め上げるように、どんどん力が強くなる。先生が私の腕を震えるくらいの異常な力で握りしめる。

 私はたまらず顔を上げた。


「先生、痛いです……」


「そうか」


 冷たく言い放ち、今度は先生が私に顔を寄せた。胸から血が噴き、床に斑点はんてんをつくった。先生のお気に入りのはかまはすでに元の色の見る影もない。出血量で言えば、もう亡くなっていてもおかしくはなさそうだった。

 だが、尚も先生は力を緩めない。私の腕に爪を食い込ませたまま、先生は静かに言った。


「お前のせいだ、××××」



*****



 頭を殴られたような衝撃に目を見開く。視界には落ちてきそうな天井が映り、びくりと身体が跳ねた。

 ……ここは?

 視線を右へ左へ動かす。ふすまに障子、火鉢や机が見えた。台所ではないようだ。

 次に私は不快感で身体を起こした。着物がぐっしょりと汗で濡れている。


「えっと、私……」


 私は居間の布団で眠っていた。私の布団のみかれ、先生の姿はない。

 眠ってしまったのだろうか。果たして、いつ?

 私は朝で途切れた記憶を探りながら頭を振る。絹川さんとお話しした後、食事を用意しようと台所に向かった。その途中、誰かに声を掛けられて——。


「頭を、打った気がする?」


 後頭部に触れると若干膨らんでいた。つまり私は振り返った時に足を滑らせ転倒したのだろう。痛みのない頭をさすりながら、情けない自分に溜め息を吐く。

 ふと障子を見ると、淡い光がきらきらと部屋に差し込んでいた。その色は陽光にしては青白く——。


「ああっ!もうこんな時間!?」


 私は慌てて立ち上がり障子を開けた。

 世界は闇に包まれ、空には満月がくっきりと浮かんでいる。私はそのまま縁側に座り込み、顔を覆った。

 私は一体何時間寝てしまったのか。

 こんなんじゃ、先生に顔向けできない。


「やってしまった……」


 後悔しても時間は戻ってこない。

「……はぁ」しばらく俯いてから、切り替えるために頬を叩く。「いけません、とりあえず先生のところへ行きましょう」

 まずは布団を片づけよう。

 さっさと布団を畳みながら、私は誰が運んでくれたのかを考えた。もしかして先生?いや、絹川さんかもしれない。先生は台所なんて来ないから、多分絹川さん。

 ……心の中にちょっぴり残念がる自分がいた。失礼極まりない。


「はぁ」


 続けて枕に触れた時、かちゃ、と陶器とうきが擦れる音がした。


「……ん?」


 何かある。目を凝らすが、暗くてよく見えない。畳の目に沿って手を滑らせ、陶器とうきをぺたぺたと触る。

「土鍋?」私は手探りで蓋を開けた。

 すると土鍋からたまごの甘い香りがふんわりとただよった。一瞬動揺するが「まさか」と鼻をすすり、私は月明かりの下に土鍋を運んだ。

 光に照らされ、ようやく土鍋の中身が視認できる。


「たまごがゆ……」私はハッとし、添えられたスプーンでお粥を口に運んだ。「これは先生の味……!」

 先生の料理は私よりも薄味だが、素材本来の味を生かしたものが多い。一度だけ食べたたまごがゆは、手元のものと全く味が変わらなかった。

 つまりこれは先生の作ったおかゆ


「先生!」


 感動しながらも、私はつい先程見た悪夢を思い出していた。先生が台所に立ったということは、あの出血が現実の可能性がある。

 土鍋を縁側に置き、私は無我夢中で台所へ走った。


「先生!!」


 私を介抱してくれたのは先生だ。そんな先生が今、命の危機にひんしているかもしれない。

 私は台所に勢いよく駆け込んだ。しかし先生の姿はない。床に血痕もない。

 多分大丈夫と言い聞かせながらも、あの悲劇が夢だと実感するには時間を要した。先生の無事をこの目で確認しない限り、安心はできない。

 私は次に書斎へ走った。髪も着物も乱れていて、普段の私なら恥ずかしくて先生に見せられない醜態しゅうたいだ。

 書斎へはすぐに着いた。私は怯える心臓を抑えつけ、唇を噛む。恐怖に近い感情に身体が震え、引き戸にかけた指が揺れ動く。


「……大丈夫、あれは夢です」祈るように呟き、私は引き戸を開けた。


 書斎には先生の変わらぬ後ろ姿があった。頭を抱え、低い机で悩む先生の見慣れた背中。


「……あぁ、先生」


 私はたまらず唸る。

 先生は無事だった。つまりあれは、所詮は卑しい女が見る悪い夢に他ならなかったのだ。

 私はふすまに身を預け、安堵の息を吐いた。すると先生の身体がぴくりと動き、徐に振り返った。


「起きたのか。頭を打って失神なんてお前らしくない失態だな」流し目で私を見据えると、先生は口角を上げた。


「はい、はい……おっしゃる通りで……」私は目も合わせずに頷いた。「本当に、ご無事で何よりです」


「はぁ。何を言ってるんだ、お前は。当事者が言うような台詞じゃないぞ」


「すみません、こちらの話でした。その、とにかくありがとうございます。おかげさまで元気になりました」


「ならさっさと寝ろ」


 先生は呆れたように肩をすくめ、机に視線を落とした。今の先生に声を掛けるのははばかられるが、今日の悪夢が現実になることは絶対に避けなければならない。

 自分を追い詰めすぎる先生に、私は深呼吸して尋ねた。


「先生、もし差し支えなければ教えていただきたいんですが」


「………」


「先生、少しだけ。蛍の珍しいわがままと思ってくださいませ」


「………………なんだ?」


 先生はたっぷり間を置いて、今度は振り向きもせずに言った。先生の背中からは「なぜ話しかけたのか」と苛立ちの幻聴が聞こえてきた。

 不機嫌さがひしひしと伝わってくる。


「やっぱり、何でもございませ——」


 からん、と鉛筆がすずりに当たる音が私の声を遮った。

 次いで先生の深い溜め息。


「も、申し訳ございません。失言でした」


「いや、良い。何が聞きたい?」


 先生は頭をいてから私に向き直り、あぐらを組んだ。意外にも、表情からは怒りが読み取れなかった。

 先生と向き合い、私はどぎまぎしながら言った。


「えっと、本当に今でなくても良いことなんですが……」


「良いと言っているだろう?」


 気分転換も悪くはないからな、と続ける先生。

 私は嬉しくなって、つい頬を緩める。


「で、ではっ」


 ——しかし同時に気も緩めてしまったようだ。


「先生はどうしてそんなに生き急ぐのですか?食事もろくに取らず執筆ばかりなさって……体調を崩してしまいますよ。それに、あえて強い口調で敵を作るようなことをなさるなんて……」


「はぁ?」


 先生が顔をしかめる。

 しまった、あまりに露骨過ぎた。


「ええと、つまり、何と言いますか。そんなに自身を追い込まなくても良いでしょうに」


 慌てて付け足すがもう遅い。

 先生は失笑して頬杖をついた。


「お前はこう言いたいのか。『隠世かくりよの小説は誰かに求められている訳ではないし、誰かを元気づけるものでもない。ましてや人生を賭けるほどの大作でもない。せめて大衆に好かれるなら読んでもらえるのに、本人の態度は度し難い』と」


「そ……そう言ってる訳ではありません!」


 まるで台本のある台詞のように、先生は噛まずに早口で言い切った。私は咄嗟とっさに否定したが、先生の胸には何も響いていないようだった。

 こんなに己を卑下ひげなさるなんて、あまりに先生らしくない。


「でも先生、絹川さんに褒められたじゃないですか。ちまたで評判になってるって、あの人おっしゃってましたよ」


「なんだ、聞いてたのか」先生は足元の原稿用紙を一枚拾うと、私に突き出した。「お前は純粋だな。あれで褒められたと思っているのか?」


 先生から原稿用紙を受け取り、私は紙に目を落とした。原稿用紙には文と名前が規則的に並び、先生が早口で言った言葉が書き連ねてある。中には先生の人格を否定するような暴言も含まれていた。

 

「ぜ、全然褒め言葉じゃないです……」


「そうだろう。絹川はとりあえず話題になれば報告する奴だから、あまり信じるな」


 私は頷きながら原稿用紙を握りしめた。

 そこでふと、この紙を書いたのは誰なのかが気になった。取り繕わずにここまで素直に書くなんて正直者にも程がある。


「先生」私は先生に視線を移す。「これは誰からいただいたんですか?」


「それか?それは絹川の趣味だ。街行く人に雑誌を渡し、感想を聞いて書き留める。気が向いたら作家に渡すんだよ」


「さ、左様ですか……なかなか個性的な趣味をお持ちなんですね」


 絹川さんが書いたなら納得だ。不思議と違和感はない。

 私は何か褒め言葉が書いてないかと原稿用紙を読もうとしたが、先生に「蛍」と名を呼ばれて衝動的に顔を上げた。


「はい!なんでしょうか」


 先生に名前を呼ばれるとつい反応してしまう。わくわくして笑いかけるも、先生は不機嫌そうに眉を寄せている。


「出ていってくれないか」


「え?」


「退室しろと言っている」先生は口調を強めて言った。「質問の答えは『自己満足』だ。これで用事は終えただろう?もう行け」


 質問の答え?

 一瞬戸惑うが、すぐに思い出した。先生の生き急ぐ理由だ。自分で質問しておきながら、今の今まで忘れていた。

 やっぱり先生との会話は夢中になってしまう。これで終わりかと思うと惜しくて、私はつい呟いた。


「……私は邪魔ですか?」


「しつこいのは不快だ」先生は食い気味で答える。

 がっくしと項垂うなだれ、私は渋々廊下に出た。しかし後ろから音が聞こえて振り返ると、先生の身体がすぐ近くにあった。高い位置にある二つの冷たい瞳が、眼鏡越しに私を見下ろしている。


「ど、どうしてついてくるんですか!?」


 私はぎょっとして叫んだ後に後悔した。

 先生が来てくれるならとても嬉しいことではないか。夢を現実にするわけにもいかないし、私のお側にもいてほしい。監視という意味では完璧だ。いや、でも執筆はどうするのだろう。

 先生は混乱する私を見下ろしながら僅かに腰をかがめた。


「……お前も知っての通り、文字ならいくらでも取り繕える。例えば、怖くもないのに怖いと、好きでもないのに好きと書けるだろう。私が本当はどう思っていようが、読者には文字通りの感情しか伝わらない。……これが私が文章を好む理由だ」


「……?」


 いきなりなんのことだろう。

 前置きもなく言われ、頭の中が疑問でいっぱいになる。つまり、小説には先生の本心が詰まっているということか。いまいち理解できなかったが、とりあえず「そうなんですね」と頷いておく。

 すると先生は薄笑いを浮かべた。


「……!」


 一瞬でぐさりと心臓を射抜かれる。滅多に見ない先生の笑顔ははかなくてとても美しかった。込み上げる熱を意識的に無視しながら、私は言葉を探す。美しくとも何か言わなくては、と思わせる笑顔だったからだ。


「せ、先生……」


 でも言葉は出てこなかった。

 見つめ合って数秒、先生は何も言わずに私の肩を引いた。


「邪魔だ」


 先生はふすまと私の間を抜けると、廊下へ出た。向かったのは台所の方だった。

 悪夢が頭をよぎり、私は咄嗟とっさに先生の腕を掴む。先生の怒りは最高潮だろうが、気にしてはいられない。


「どこに行くのですかっ」


「倉庫に行くだけだが?」先生は案の定口をへの字に曲げた。


「お台所ではないですか?」私はにじり寄る。


「何故台所に行く必要がある。私の用事は倉庫だ」


 先生は私の手から腕を引き抜き、早足で去る。心配で仕方のなかった私はその後をこっそりつけた。


 見つかってこっぴどく怒られたのは、また別の話。


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