月を見ると恋しくて

 亡都サーラカーンのある北側から何か禍々しいものが近づいてくるのを感じる。辺りに哄笑が響き渡った。

「そうそう。それでいい」

 地べたを這いずる鳥に勇気など必要ない。その声はそう告げていた。


 横に視線を向けると、チヒロさんの腕にシンディさんが抱きついている。先ほどまでの幸せそうな表情は消えていた。ああ、やっぱり駄目だ。こんなことは間違っている。僕は腰の短剣を引き抜くと二人とその怪しい雰囲気の間に立った。病床にある父さんの武器の棚からこっそり持ち出した短剣の刀身に白い文様が浮き上がる。


 僕は震える膝を押さえつけ、短剣を空中にかざした。

「邪なるものよ。偉大なヴァンフェリーの名において命ずる。ここから立ち去れ!」

 哄笑が巻き起こり空中に靄が集まってふわふわと漂いながら人の形をとった。

「小僧。面白い。確かにその短刀はヴァンフェリーの名を継ぐもののようだ。だが、お前では使いこなせん」


 僕の右腕に向かって紫色の煙のようなものが巻き付いた。強烈な痺れが走って、ポロリと短剣を取り落としてしまう。

「ほらな。ふふ。小僧。無駄なあがきに免じて、特別にお前は最後にしてやろう。今日はなんと若い者が三人も。これは良い」


 僕の心は恐怖と絶望に塗りつぶされそうになった。右腕の痺れは続いていて使えそうにない。脳裏に父や母、幼い妹ナーシャの顔が浮かぶ。僕は左手で短剣を拾い上げ、人型から伸びてくる紫色の煙にたたきつけた。腕に衝撃が走り短剣を取り落としそうになったが耐える。右腕をとりまく煙は四散していた。


「くく。この地に縛り付けられた哀れな民がなけなしの勇気を奮うか。大人しくしていればまた見逃してやったかもしれぬのに。飛べない鳥に勇気は要るか?」

 人型の顔の辺りを見ると虚無が広がっている。ゾクリと背中に寒気が走り、急速に手足が萎え、なんとか立っているのがやっとだった。


 僕は震える声で叫ぶ。

「もちろんいるさ。必要な時に勇気を出せないことがどれだけ惨めか。もう僕はあんな思いは御免だ」

 二人に貰ったお金で父さんの薬が買えた。きっと良くなる。そうすれば家族三人で生きていける……。


「良く頑張ったね」

 頭に優しく手が触れられる。そう感じると同時にチヒロさんが僕の前に出た。

「君の仕事はガイドだよ。君みたいにいたいけな子を虐める悪い奴を懲らしめるのは、お姉さんの仕事」


 ぱっと後方で赤い光が湧きおこると僕の頭上を火の線が伸びていった。人型が呻き声をあげる。

「チヒロ。今だ」

 チヒロさんがジャンプして腰の剣を引き抜き一閃させた。耳を塞ぎたくなるような叫び声が響く。


「なぜだあああ。三百年も覇をとなえたこの私が……。こんな小娘にっ!」

 人型はぐるぐると渦を巻き、苦悶の声をあげながら一点に向かって集まっていく。小指の先ほどの大きさにまとまったと思うとポンと小さな音を立てて弾けた。再び静寂が広がる。


 すぐに声を出せない僕のところへ剣を納めたチヒロさんが戻って来た。

「あ、あの……」

「もう大丈夫だと思うよ」

「あ、ありがとうございます」


 この二人は見た目に反して、物凄い実力の持ち主なのだということを痛感させられる。砂漠を這い回って日銭を稼いでいる僕なんかとは別世界の人たち。きっと偉業を成し遂げて叙事詩にその名を讃えられるんだろう。生き延びたという安堵の気持ちの中に惨めさが混じった。


 チヒロさんにシンディさんが飛びついて抱きしめる。

「また腕を上げたね。一太刀で仕留めるなんて」

「そうかなあ。シンディが炎の魔法で先に傷を負わせてたからだと思うよ。それにアージオさんも頑張っていたからね」


 チヒロさんは僕に向き直り、笑いかけてくる。

「あのね。人はそれぞれ背負ってるものの重さが違うよね。だから、恥を忍んで生き延びようとするのも勇気だと思うよ。もちろん、さっきのような勇気の出し方も良かったけどね」


 僕は思い切って質問する。

「僕が……。僕がお二人を騙してたのに気が付いて……」

「なんのことだか。アージオさんは私たちの依頼で案内をしてくれていたんでしょう? なんか変な闖入者がいただけよ」

 僕はぐっと歯を噛みしめた。どういうわけか涙が目に溢れてくる。


「そうだ。食事がまだだったわね」

 チヒロさんの言葉に僕は頷くと袖で目を擦って、荷物に向かって駆けていく。背中からチヒロさんの声が聞こえた。

「あ。流れ星」


「チヒロ。急に目をつぶってどうしたんだ?」

「私の住んでたところじゃ、流れ星にお願いすると願いがかなうって言われてたの」

「へえ。で、何をお願いしたの?」

「へへ。ひーみーつ」

 先ほどの凛々しい姿は消えて、じゃれ合う姿を横目に僕は食事の支度をする。


 ***


 その後は目的地にたどり着くまで事件は起きなかった。あんなことがあったのに、ちゃんと後金を払ってくれる。しかも、多少の色が付けてあった。

「遠慮しないで。ちゃんと迷わずに案内してくれたでしょ。予定より1日早く着いたし。それじゃあ元気でね」


 自宅に戻ると父が病床から起き上がっていた。勝手に大切な短剣を持ち出したことを詫びる。父は何も言わなかった。しばらくして、噂話を耳にする。遠く西方を恐怖に陥れていた魔神が倒されたということ、そして、その魔神を倒した一行を率いていた勇者は異世界から来た若い女性ということだった。


 僕に伝えてくれた人は眉唾だと言っていたが、僕はその話を信じた。夜空を見上げると大きな月の中に、あの人の屈託のない笑顔が見える。胸の奥がちょっと切なくなった。今頃何をしているだろう。


「お兄ちゃん。ご飯できたよ」

 夕食の支度が出来たことを告げる妹ナーシャの声。家の入口の垂れ幕をかき分けながら一度だけ振り返る。冴え冴えとした月が僕を見降ろしていた。無意識にため息が出る。垂れ幕を戻し月を遮ると、自分の心にも幕を下ろした。

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砂漠渡りと長月 新巻へもん @shakesama

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