無敵時間

真花

無敵時間

 病気で一ヶ月仕事を休んだ。「辟易していたぜ」と鼻歌混じりだったのは最初だけで、すぐに休んでいることが普通になって、その内に働けていないことが不安になり、復帰の直前には仕事を求めていた。

「働けることに感謝すら感じるんだ」

 最初の週末、礼子れいこと横並びにベンチ、目の前で彼女の二人の子供が追いかけっこをしている。

「それはすごいわね」

 彼女の顔には疲労が彫り込まれていて、その言葉に迫真性は一縷もない。「礼子は仕事をどう感じてる?」口から漏れかけた残酷、これは必要のない虐待だよ、飲み込む。

 子供がギャーと声を上げた後に大笑いする。

 俺達は黙ってその様を見て、でも本当の沈黙の理由は子供達じゃないことは分かっているし、だから俺は子供の向こうの遊具の、さらに向こうの空を見る。白色を一滴垂らしたような空、君は本当は何になりたかったんだい? 俺は今ほど仕事に喜んだことはない。もっと情熱を傾けた時代も、仕事から喜びを得た時期も、成長に感動し続けた頃も、あった。俺は今、仕事に喜んでいる。

隆弘たかひろは結婚しないの?」

 彼女は正面を向いたまま、呟く。

「予定はないよ」

「私って早く結婚したじゃない。それで子供産んで、別れて、働いて」

 知ってる。高校時代から全部知ってる。彼女が続ける。

「何か最近、一人に疲れちゃった」

「子供達がいるじゃん」

「それと一人は別だよ」

 礼子が仕事を、生活をどう考えているか。彼女は子供を見ながら、決して空を見ない。

「別」

「私だって女なんだよ。母親と仕事だけで私が出来てるんじゃないんだよ」

 母の溜め息のような言葉、子供達は気付かない、走って、笑う。

「仕事と同じで、しばらく母親をやめたら、それをすることに喜びと感謝を感じるかもね」

 彼女は錆びたブリキを回すように顔をこっちに向ける。

「じゃあ、あの子達を一ヶ月預かってくれる?」

 俺の口角が片方だけ反射的に釣り上がる。

「それは無理だよ」

「……そうよね。私もあの子達を手許から離すのは嫌」

「じゃあさ、仕事と家庭の間に、もう一つ自分の時間を持ったら?」

 礼子はムッと顔を顰める。

「それは女の時間ってこと?」

「そうは言ってない。自分の時間だよ」

「考えてみるわ」

 俺は父親ではないから、仕事以外は全部自分の時間だ。当たり前にあるそれが、礼子を前にすると貴重なのだと思う。でも、彼女と別れて俺の時間に戻ればそのことはもう忘れる。俺は当然のこととして自分の時間を使う。仕事が半分、自分が半分で丁度いい。その仕事に感謝を感じるのだから、俺はいつもより、休みで貯めた分だけ、足りている日々にある。


 足りている日々にあった。

 感謝の萎むスピードは駆け足で、どうやってそれを感じていたのか想起出来ない。仕事をするのは生きるために必要で、そこに手抜きはないし、人生の大半をそれに費やすことに納得もしている。覚えなきゃいけないことや付けなくてはならないスキルが堆く俺の前に積み上がっていたのはとうの昔、仕事を回すことにときに勉強が必要であっても、困ることは殆どない。

 薄暗い中、礼子と話をした公園で同じベンチに座る。

 向こうで女の子の影がブランコを漕いで、そのうちに足を止める、ブランコは往復運動を続ける。

「俺と同じだ」

 俺もいずれブランコから飛び降りるのだろうか。

 慣性の中の俺は、顧客を獲得しても、感謝されても、業績を上げても、同僚から有り難がられても、それはどれも普通のことに希釈されて、感情が微動だにしない。一日仕事をしてこころが動かないと、疲労につり合うだけのものを何も得ないで帰路に就かなくてはならない。

「ベンチに座りながら溜め息をかなくてはならない」

 俺はこんなことをするために生まれて来たのだろうか。

 このままじゃ、仕事をするだけで人生が終わってしまう。

 子供もいなければ、何を遺して俺は死ぬのだ。

「それだったら婚活するか? でも、俺は一人がいい」

 老後に使うための金を貯めるだけの機械なのか。

 スマホを弄って死ぬまでの時間を稼ぐ人と、何が違うんだ。

「俺はこのままじゃ、死んだも同じだ」

 虚空に言葉を放ってみて、だったら金なんて貯めずに使ったらどうだ、思い付いた自分の、貯金ばかりの人生の裏側を撫でる、俺は立ち上がって駅に、電車に、新宿に向かった。


 店員が手袋をして扱うところに高級感があるのかも知れない。

 伊勢丹の時計売り場で腕時計を選ぶ。時計に興味を持ったことのない俺でさえ知っているブランドが並ぶ。知られていること、それは高級であること、この二つがセットになっていることがブランドの価値なのかな。

「こちらはどうでしょう?」

 細身の店員は俺よりも若い、丁寧な説明、豊富な知識。時計の扱いがよく、慎重過ぎず、荒くもなく、ああ彼は時計が好きなんだな、彼は仕事をすることに少なからず喜びを感じている。

 だから腹が立つ。

「違いますね」

 彼は全くめげない。客商売も初心者じゃなければ冷たい客に怯むなんてない、俺の身にも染みていること。

 彼は根気よく俺が選ぶのに付き合う。俺が冷やかしじゃないと察知している。

「こちらは、いかがでしょう」

 モノの良し悪しなんて分からない。価格が高ければいいモノと判断するしか出来ない。礼子に言わせれば、バリューとプライスを理解していないのは信じられないことで、世の中の多くのものがその価値に比してぼったくりの値段が付いていると言う。特に、高級ブランドでそれが顕著だと。彼女の諫言通りの失敗をこれからしようとしている。

 俺は分かっていて手を出すのだ。

 これまでこういう買い物をしなかったのは、価格オンチだって自覚があるからだ。

「百三十万かぁ」

「はい」

「お兄さんなら、この時計は買い? それとも別のにする?」

 彼は少しだけ思案する。

「買いですね」

「どうして?」

「すいません、変な言い方なんですけど、ズキュンと来るからです」

「ズキュン」

「値段は、重要な要素ですけど、もっと大事なのはハートに来るかどうかだと思います」

 バリュー、プライス、否、ハートにズキュン。

「……その観点で、もう一回見てもいいですか?」

「もちろんです」

 時間をたっぷり使って、時計を選んだ。

 高級な、見る人が見ればその価値がすぐに分かるモノを腕に着けて歩く。治安が悪いところでこれをすると腕ごと切り取られると聞いたことがあるけど、それだけの価値をぶら下げる。

 新宿の人混み。誰もがシルエットになる。

 輝いているのは俺の時計だ。

 買って着けただけなのに、昼間の仕事のつまらなさを帳消しにして余りあるくらいに、俺を高揚させる。

「いい車、いい女、……いい時計。そう言う自分に付属させる何かに『いい』を求めるってのは、人生のつまらなさを回避する方法なんだな。こう言うのを若いときから希求してた奴らは、その頃から人生がつまらなかったんだ。だから、自分の外にいいものと『されるもの』を付着させなきゃならなかった。俺もその仲間入りをした」

 家に帰れば時計を外す。だけど気分のよさは変わらない。

 仕事に着けて行けば何人かは反応した。それも気持ちがいい。

 何日も保つ、無敵感を買ったのだ。

「これはいい買い物をしたんじゃないのか」

 だけど、減衰した。

 緩やかに、時計のある日々が普通になった。どう時計を身に付けても、二度と最強になれない。もし、なるのなら、次のモノが必要で、それを買わなくてはならなくて、その連鎖に入ったら永遠に買い続けなくてはならない。

「つまらなさを仕事で得て、金を仕事で稼いで、つまらなさを消すために金を使う。……アホの方程式だ」

 腕時計は俺がその方程式に組み込まれる門だ。


 礼子とまた公園のベンチ。俺は時計を着けている。

「最近さ、子供達を遊ばせてくれる人が出来たんだ」

 礼子の顔は改善していない。

「俺の知らない人?」

「うん。職場の人で、独身で、子供達もなついてて、遊園地とか連れてってくれるの」

「子供とその人だけで?」

「そうなの。だからその間は私は私に戻れるんだ」

 子供達は俺達の前にいない。

「礼子に戻るって、女になるのとは違うんだ」

「いつもはね」

「今日は?」

「女に、なりたいなぁ」

 礼子は俺の手に彼女の手を重ねる。俺はそっと手を離す。

「その子供達を連れて行っている人って男なの?」

「そうだよ」

「だったら、その男の人こそが礼子が女になる相手なんじゃないのか?」

 彼女は首を振る。

「それは違うよ」

「何もしてないのか?」

「もてなしてはいるよ」

 俺のじっとした目線が彼女の顔を捉える。彼女は、ふん、と鼻息を払う。

「私がその人とセックスしてると思っているんでしょ」

「そうは言ってないよ」

「残念ながらしてません。彼はしたそうだけど、生殺しよ。私だって選ぶ権利があるわ」

 子供達の利益のために男に股を開く、発想をしていた自分を消し去りたい。礼子はそんな軽い女じゃない。お互いにたくさんの恋愛を語り合っている、彼女の元夫よりも今の仲良しよりも、彼女のことは俺が一番知っている。

「ごめん」

「いいよ。ねえ、なんかすごい時計してるね」

「ああ、買ったんだ」

 俺は腕から取って、彼女に渡す。

「高そう」

「やるよ」

「え!?」

「俺にとっての効果はもう終わっちゃったから、もしそれで強くなれるなら礼子がした方がいい。あ、仲良しの男性にあげるのはなしね」

 彼女は携帯でもしまうみたいに俺の時計をカバンに自然に入れると、同じ手でさっきよりもずっと、積極的に俺の手を握る。

「隆弘、私を女にして」

「俺達今まで、そう言う関係にならなかったよな」

「私、最後の恋愛をするとしたら、隆弘だと思うんだ」

「今日が最後でいいの?」

 彼女はまた首を振る。

「最後の始まり、よ。ねえ、二人で一線を越えようよ」

 場合によっては結婚して、連れ子二人を育てつつ、自分の子供を作る。

 そうじゃなければ、セックスだけをする。

「その恋はどこまでを想定しているの?」

「そんなのなってみないと分からない」

 ずっと俺達は友達だった。もしセックスをすれば、元には戻らない。

 でも、俺の中のつまらなさが帳消しになるかも知れない。

「誰にも秘密なら」

「約束する」

 俺達は太陽から隠れるようにホテルに入り、俺は一度も触れたことのなかった彼女の肌に触れた。

 礼子の下腹部に子供を宿した跡を見付けて指でなぞったら、腰を振っている間にすら感じなかった独占の欲求が、俺のこころをパンパンにする、「礼子」、強く呼ぶ。

「なぁに?」

 俺よりも余韻と喋っているような彼女のとろけた眼に、俺はギラつく視線を当てる。

「俺の彼女に、ちゃんとなってくれ」

「もちろんだよ」

「仲良しの人と離れてくれ」

 礼子は、うん、と頷いてから俺の背中に手を回す。

「これからもよろしくね」

 俺は黙って彼女を抱き締める。


 きっとずっと、俺は礼子を求めていたんだ。世界がキラキラと色付いて、鮮やかな彩りに歩みも軽くなる。確かめたら羽は生えてなくて、でもハートは何度でもズキュンと言う。

 仕事の色は変わらない。こころと別行動の笑いや共感がその度毎に累積する隙間は、帰り道にはれっきとした虚しさに育って、だけど礼子を想うだけで埋めて余りある、俺に溢れる、俺は笑う。

 笑いながら空を見る。

 空の白さはこんこんと増しているけど、変わらずに空だ。

 立ち止まる。

 通り抜ける風。

 俺は変わらずに俺だ。

「この喜びも、仕事の嬉しさや、時計と同じように、消えて、日常に組み込まれてしまうのだろうか」

 俺は目を瞑って、首を振る。


(了)

 

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