海人の生涯
櫛田あすか
第1章 乗船
私は彼らに憧れていた。広大な海の上、力強い信条を持って生きていて、焼けた肌に白いTシャツと鮮やかなバンダナが格好良い。陽気な彼らはビールを片手に夜毎賭博を楽しみつつ、生涯海を漂い続けるという。
私がのんびりと石畳の道を歩いていたとき、
――
太陽の光が降り注ぐ小さな港町に報せを告げる声が響いた。私は思わず埠頭に向かって走り出す。
海人を、この目で見ることができる。
そう思うと激しく胸が躍った。なんて幸運なことだろう、今日はたまたま両親に連れられてこの港町にやって来ていたのだ。
私の町は内陸部にある。海人の存在は物語で知った。それしか彼らのことを知る手掛かりはなかったのだ。
でも、今日は本物の海人を見ることが出来る……!
埠頭には、やはり海人を見に来たのか人が集まっていた。広い階段を下りて歩いていくと、ちょうど船から背の高い男の人たちがぞろぞろと列になって出てくるところだった。
「うわあ……」
彼らは物語で読んだとおりの姿だった。浅黒く焼けた肌に白いTシャツがまぶしい。各々、赤やオレンジ、緑などのバンダナを身に着けていた。頭に巻いている人もいれば、腕や首に巻いている人もいる。海人たちのほとんどは、ぼろぼろに擦り切れたジーンズを履いていた。
船着場の手前には黄色い旗がなびいていた。よく見ると二羽の鳥――鳩だろうか――を象ったような青い図柄が描かれている。海人たちは一人一人、その旗の下に立っている人に名簿か何かでチェックされているようだ。そして、各々腕や背中にある紋身を見せている――あれが、海人である証拠だとされている。
海人たちは一箇所に集まると、皆、一人の人物へ顔を向けた。恰幅がよくて、背も高くて、真っ黒いひげを生やしている。いかにも強そうに見えるけれど、なんだか怖そうな人だなと思った。
「いいかァ、ヤロウども!」
「へい!」
「目的は食料の補給だ! 酒も忘れずに用意しろ! 金は限られてんだ、無駄遣いはするんじゃねェ!」
「へい!」
「町で暮れの鐘が鳴ったら出港する。わかったかァ!」
「へい!」
いっそう声が張り上げられた後、海人たちは街に続く階段の方へ向かい始めた。
大勢の男の人の声を揃えた返事は迫力があった。私はまだどきどきしながら、階段を上る海人たちを見つめていた。
「そう……良かったわね、アオイ」
「海人は、港町に住んでいてもめったに見られないからなあ」
宿に着くと、私は両親に海人を見てきたことを事細かに話した。私たちは今日の夜汽車で町へ帰ることになっているので、二人とも荷物の整理をしていたけれど、私の話は微笑みながら聞いてくれた。
「ねえ。私、海人になりたい!」
さして驚いた様子も見せず、私の両親は笑い声をもらした。
「あなたはダメよ、海人にはなれないわ」
「どうして?」
「女の子は、船乗りになれないのよ」
そういえば海人は、さっき見たのも物語も、みんな男の人だった。それでもずっと憧れていたんだ、諦めたくはない。今日を逃せば、もう彼らに会うことはないかもしれないのだ。
海人は物資補給のためにしか陸地に上がらないという。私の住む内陸部の町に海人が来ることは決してないだろう。
――これが、一度きりのチャンスなんだ。
「さて、お前もそろそろ荷物の整理をしておきなさい」
父親の言葉は無視して自分の鞄を持つと、私は体を翻して扉に手をかけた。
「アオイ? どこへ――」
母の言葉も最後まで聞かずに、私は宿を飛び出したのだった。
集合時間が近づいているので、埠頭には海人たちがちらほら集まり始めていた。彼らはよく日焼けしているし、目立つ色のバンダナを身に着けているのですぐに判る。海人たちはお互いを目に留めると、近づいて「どうだった」などと話しているみたいだった。
「ここの町はあまり美味そうな食材がなかったな。ガッカリだぜ」
「まあ、そう落ち込むなよナギサ。けど、酒も目新しいのはなかったなあ」
「セキ、船長の煙草買ったか?」
「ちゃんと買ったっつの。オレはまだ死にたかねェよ、先月四十になったばかりだぜ? ミギワは、鶏のえさ仕入れたのかよ」
「ああ、当然だ」
ここで会話が止まったのをきっかけに、私は彼らに近づいた。
「あの、……」
一瞬、彼らの間に違う空気が流れたのがわかった。
海人たちは私を見つめる。鋭い眼光。でも怖気づいたら負けだと思い、彼らの視線を受け止めた。
「……なんだい、お嬢ちゃん」
先月四十になったばかりだと言った海人が私に応えた。
「私、海人になりたいんです。一緒に連れて行ってください!」
突然、爆発したような笑い声が沸き起こった。
「あはは、そりゃあいい!」
「お嬢ちゃん、俺たちは旅行してるんじゃねーんだぞ?」
「こんなに可愛い船乗りがいたら、船もおもしれぇのになァ!」
少し頭にきた。なおも彼らはガハハハ、と笑い続けている。
「私は本気なんです!」
それでも私に取り合ってくれる人は誰一人としていない。
「みんな、小さな淑女に失礼じゃないか。いい加減にやめろよ」
さっき「いい食材がない」と嘆いていた人だった。二十歳くらいだろうか。私は彼の顔を見上げた。
「君、名前は?」
「アオイ、です」
「アオイちゃんだね。俺はナギサ。……すまないのだけれど、女の子は船に乗れないんだよ」
お母さんも同じことを言った。何故なのだろう。ズキンとしたけど、それよりも反論したい気持ちのほうが圧倒的に勝っていた。
「どうして女の子はだめなんですか!? 仕事は何でもします。お願いします、連れて行ってください!」
私は許可を得たい一心で頭を下げて頼み込んだ。そのとき「ナギサ。なんだ、そのガキは」と、低いうなるような声がして、びっくりして私は振り返った。
「船長。この子が海人になりたい、連れて行ってほしいと……」
「だめだ、だめだ、だめだ! 船乗りに女は要らん」
ぼさぼさした髪に口ひげ、縦にも横にもかさのある体――やっぱりこの人が船長だったんだ。
ふと周りを見ると、他の海人たちも戻ってきたらしく私は海人たちに囲まれていた。
「いいかァ、ヤロウども!」
「へい!」
「これから積荷を運ぶ! 暮れの鐘が鳴ったら出港だ!」
「へい!」
海人たちは積荷を次々と運び込んでいく。まるで私のことなど視界に入っていないかのように。
「船長さん」
内心びくびくしながら声をかけた。船長の応答はジロリと一瞥をくれただけ。
「私、ずっと前から海人に憧れていました。ずっと海人になりたいって思っていたんです。仕事は何でもしますから、一緒に連れて行ってください!」
すると、船長はニヤリと笑って口を開いた。
「お前、ビールは飲めるか?」
「……え?」
飲めるわけがない。私はまだ子供なのだし、一度なめてみたことがあるけれど苦くて二度と飲みたくないと思った。
「ビールが飲めねェヤツは、海人にはなれねェよ」
船長はこちらに顔も向けず言い放った。
何か言い返そうと口を開きかけた途端、「アオイ!」と聞き慣れた声に名を呼ばれた。
「何をしているんだ。女の子は船に乗れないとお母さんが言っただろう」
「お父さん。でも……」
「さあ、私たちもアンサルの町へ帰らなくてはいけないのだから。もう少ししたら駅へ行のよ」
「ねえお母さん。私、海人になりたいの! ねぇ、……」
私は父に背中を押され、母に手を取られた。振り返ると、船長は船の方へ歩き出している。
いやだ、待って。また会えるかどうかも分からないのに――
ごおぉ……ん、と暮れ六つに差し掛かったことを町の鐘が知らせた。
「あっ……」
錨が上げられた。
立ちはだかる壁のように大きな船が、ゆっくりと動き出した。
船着場を離れた船。それは、私の人生までもが動かされたような思いがした。
「やだぁっ!」
私は両親の手を思い切り払いのけた。
「こら、待ちなさい!」
そして、離れ行く船に向かって一目散に走り出す。
「アオイ、待ってちょうだい!」
もう両親の声なんか聞こえなかった。私は、海人になるんだ。
海人は皆、乗船時に海に関する名前を船長から与えられるそうだ。
陸上での自分を、捨てるのだ。
そうだ。私も今の自分を捨てるんだ。海人として、広大な海の上を漂いながら生きていきたい――
泳ぎに自信があるわけではなかったけれど、飛び込んでしまった以上、もう後戻りは出来ない。もちろん後戻りする気はなかった。
水の冷たさを海人として生きるための試練だと思い、私は懸命に船へ向かって泳ぎ続けた。
「おい、早くしろ。大変なんだ」
誰かの声が聞こえた。海水が冷たくて、私は大分体力を消耗していた。
疲れた。でも休むと船が行ってしまう……
胸の奥が冷たかった。心臓が凍ってしまったのではないかと思うぐらい。
「……?」
頭に何か当たった。それは音を立てずに目の前に落ちた――浮きのついたロープだった。
私はどうにか甲板へ上がることが出来た。海人たちは集まってきて「大丈夫か」と声をかけてくれる。頭が回らなくってただうなずくしか出来なかったけれど、船長が来たことに気付くと私は自分を立ち上がらせた。
「……お前、さっきの……」
海水がしみて目が痛い。完全に体は冷えていて、全身が震えていた。
「……海人になりたいんです」
海人たちの間にかすかなざわめきが広がった。私は軽く呼吸を整えて言葉を振り絞る。
「私を連れて行ってください。お願いします」そして頭を下げた。
辺りは静けさに包まれていた。
「言っておくが、旅行とは違うんだぞ。陸地に行くのは物資補給のためだけだ」
私は顔を上げた。初めて、船長と目を合わせることが出来た。
「はい」
「嵐や、不慮の事故に巻き込まれるかもしれねェ。命の保証はねェぞ」
「……はい」
「掃除、洗濯、皿洗い。出来るものはあるか」
「一応、一通り……出来ると思います」
心臓が、自分の耳に届くほど大きな音を立てていた。周りの海人たちは口を閉じて、ただじっと成り行きを見ているようだった。
――恐い。
けど、これを乗り越えればきっと、私は「海人」になれる。
「親御さんはどうした」
そうだ、さっき船長は埠頭での私たち親子のやりとりを見ていたのだった。
「アンサルへ帰る、と言っていたな。内陸部の町か。親元を飛び出してきたのか?」
「――」
「答えろ」
「……そうです」
船長は声色を強めたわけではなかったけれど、その言葉は迫力があった。今にも襲いかかってきそうな肉食獣のよう。
「海人の生活規律は、その一・時間厳守。その二・
「はい!」すると船長は踵を返した。
「好きにしろ。しばらくの間はおいてやる」
――やった!
「ありがとうございます!」
戸の閉まる音。私が顔を上げた時、船長は船内へ姿を消していた。途端にわぁっと周りが騒がしくなり、私は四方を取り囲まれる。
「いやいや、嬢ちゃんすげぇなァ。親御さんを捨てて乗船するなんてよ」
「すごいな、海人で女性船員を認めたのなんて初めてじゃないか」
「感服したぜ。絶対将来は大物になるぞ、お嬢さん」
わあわあわあと、みんなは口々に感想を述べてくれた。
やっぱり陽気なんだな、海人って。物語で読んだとおりだ。
「お嬢ちゃん!」
まだ騒いでいる
「さっきは悪かったなァ、ハハ、忘れてくれや。まったく、感服の極みだよ。さ、中に入ろうぜ。お仲間さんよ」
ニカッと笑った。差し出された、力強い手。私はその大きな手に自分の手を添えた。
「……はい!」
船の中には、船室、食堂、厨房、倉庫、遊戯室、図書室など、様々な部屋があった。
「ここがアオイの部屋になるから」
私はカイという人に船内を案内してもらった。二十歳を少し超えたくらいだろうか。彼は背が高くすらりとしていて、親しみやすい感じだ。
「夕食のときに正式な歓迎会をやるよ――暇なら、遊戯室や図書室で時間をつぶすといい」
「どうもありがとう、カイさん」
お礼を言って、私は扉の取っ手に手をかけた。
「なんだ、みずくさいな。カイでいいよ」
十歳くらいも年上そうな人を呼び捨てにするのは抵抗があった。気さくな人だとは思うけど、どうしても口をついて出てこない。
「カイ……兄」苦心の末の呼び名だった。
「”カイ兄”か。そう呼ばれるのも悪くないな」
クッと笑ってそう口にすると、カイ兄は仕事の続きがあるからと言ってもと来た通路を戻っていった。
船室の中は、まさに寝るためだけの場所と言わんばかりの狭さだった。明らかに使い古されたベッド。その脇に片側を固定された折りたたみ式の簡易机。胸の前で抱えられるくらいの籐の籠。中にあるのはこれだけである。
でも不満は何一つなかった。私は今日から海人になったのだ。窓の向こうには暮れなずむ空と穏やかな海が広がっている。
私はこれから、海人として生きていくんだ。
海人の生涯 櫛田あすか @kushida_asuka
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