●リシャール・ジュルマン監督 『レーヴ(En Rêve)』再考
椿恭二
●リシャール・ジュルマン監督 『レーヴ(En rêve)』再考
●リシャール・ジュルマン監督 『レーヴ(En rêve)』再考
リシャール・ジュルマン(Richard Schulman、 1969年5月24日−2021年8月17日)
フランス・パリ三区産まれ。
幼少期から父親の影響で人類学に親しみ、パリ大学へ進学する。同大学で教鞭を取る。ヨーロッパの多方面でフィールド・ワークを行い、それに関する論考を発表。後に『ジュルマン論考集』(2011・美濃書院)に編纂されている。ケルト神話から日本神話への横断的な思想を試みる。
後年は「言語・イメージ・神話」と「感染」をテーマにした著作で知られる。それらの主題から二本の映画制作を行う、映画監督としての側面もある。
2019年から日本に研究拠点を移し、名古屋大学の教授として就任中に死去。享年52歳。
フィクションだけが人を救う。
世界は今、情報を原動力に動いている。殆どのものが情報で買える。時には愛さえも。数字やプログラム言語に形を変え、様々な有象無象が生まれている。情報のみが価値であり、我々の意識はそこにある。それは、救われない歴史と言えなくはないのだろうか。
「映画」というメディアがある。そして、近年一本の作品が偶然発掘された。研究者グループの所有する巨大な映像アーカイブの片隅で、辛うじてデジタル保存されていたものが一般公開された。
映画は金で撮影され、編集され、上映される。俳優に支払われるギャランティもあれば、様々なロジスティックスもある。大資本による大作になれば、そこで動く資金活動も巨大化した。しかし集団的意識や、歴史そのものが救われるかもしれない可能性を、このメディアは大きく示唆してきた。それは情報だけでは不可能だ。それをこれから紹介する作品は、それを明確に我々に明示するのである。
筆者は本国で唯一のリシャール・ジュルマン監督の研究者として、この記事を寄稿する。
フィクションだけが人を救う。
そんな、奇跡がある。
本日は一本の「映画」を再考する。
これから紹介するのは、リシャール・ジュルマン監督の二作目にして遺作、『レーヴ(En rêve)』である。
フィクションは、歴史との闘いでもある。
時にプロパガンダにも利用された時代もあった。
リシャール・ジュルマンは、『野生の思考』(クロード・レヴィ=ストロース 1962)からの、ポスト構造主義のアカデミズムの文脈にいた人類学者だ。幼少期から神話学と言語学に興味を持ち、その分布と自然の関係について教養を深めていたとされる。
そこには父親からの影響も大きくある。近代フランスの思想家として、モース、メルロ=ポンティ、サルトルからの現代思想を模索した人物である。本国では1960年代『コレージュ・ド・フランス』のセミネールへの参加や、『ダン・モデルヌ』への僅かな寄稿も行っていたようである。
彼は父の研究を引き継ぎながら、初期の研究はケルト神話であった。主要な著作に『紋章としての言語』(1982・竹下書房)、『媒介する言語』(1984・竹下書房)、『アジア−言語感染』(1989・古典ハウス新書)がある。
しかし、余りにも対象から飛躍しすぎた理論のために、アカデミーでは相手にされなかったとも言われる。
そこで、デジタルビデオを使ったフィールド・ワークのテクニックを活かして映画制作に着手した。それまでに映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』への寄稿も希望したようであるが、1980年代には掲載は確認されていない。晩年のジャン・オーレル(Jean Aurel、1925年11月6日−1996年8月26日)が当時の回想の中で、ジュルマンと批評誌には思想の齟齬があったと述べた、との説もある。その為に、彼が映画監督であることは知られていない。
また、映像作品にも人物にも謎が多い。
断片的な史料によれば、処女作であり、自主制作映画の『地図/カルテ(Carte)』は、謎の感染症ウィルスの蔓延する世界が舞台だ。世界各国のパワーバランスの動向と人脈を分析する施設の一人の監察官が、コンピュータに記録された一定の地図の中で変異していくウィルスの様子を描いたものだ。一箇所に複数の感染者がいるとそれが変異を起こす理論から、「神話は言語のウィルスである」という意識領域の変容を示唆することに注力して表現を行った。
一見すればSF大作のように思えるが、全編がモノローグで語られ、彼の属していたパリ大学の講義室をセットにして、学生数人が役者で演ずる。記録映像からのインサートが多用される、言って仕舞えばチープな作りだ。
この作品は人類学界からも、当時の映画批評家からも批評を受けるまでもなくお蔵入りした。当然劇場でかかることはなく、当時の学生が講義の最中に数回観たという記録だけが残っている。なお、オリジナルの行方は分かっておらず、未だに現存しているかは不明であるため、詳細はジュルマンの回想録と教え子の記憶しかないが、それも現在では殆ど失われている。
しかし、ここでジュルマン監督は諦めなかった。二本目の制作に着手した頃の当時、彼は名古屋大学に拠点を構えて間もなかった。アニミズムと日本神話の言語研究のために、日本に渡っていたのだ。
何故、彼がここまで「映画」というメディアに執着を見せたのかは不明であるが、映像というものに強い思い入れがあったのだけは確かである。其れ故に、筆者は「ジュルマン再考」はなされるべきであると考える。
二作目の制作までは三年の月日を要する。その間にハリウッドの大手スタジオへの売り込みを行った形跡など努力の跡が見られるが、結局フランスのテレビ地方局が、日本メディアと共同出資で、ジュルマンによる日本のルポルタージュとして製作資金を出したとされる。つまりは「テレビ映画」のドキュメンタリーの一種である。
そして完成したのが、ジュルマン監督の二作目、『レーヴ(En rêve)』である。
そのクランクアップまでには様々な苦難があったであろうことは、想像に難くない。
まず本作を楽しむためには実際に、世界的な新型コロナ・ウィルスの中で起きた、実際の事件を理解する必要がある。発熱、咳、悪寒、頭痛などを齎す爆発的な感染力を持つ、新型コロナ・ウイルスの世界的な流行の拡大は、最初に中国・武漢で発生した。流行は欧米や中東などにも飛び火、発生から数ヶ月後に世界保健機関(WHO)はパンデミックの状況にあると発表した。その後、全世界に波及し、ワクチン接種の普及による収束までに数年を要した。
渦中ではマスク着用や、消毒の徹底がなされなければならない苦難な時代だった。密集を避けることを余儀なくされ、人と人の距離は分断された。
パンデミックの中で、数々の事件が起きた。当時、医療崩壊の起きていた日本では重篤者も病院への搬送不可能で、多くの人々の救われた尊い命が失われた。
特筆すべき事件は、シングルで二児の母である名古屋大学仏文学教授の笠川裕子さんが、コロナに感染して病院の移送先が見つからず、訪問医者や救急医療班の必死の努力にも限らずマンションの自宅で子供を前にして死亡したものだ。彼女は死の間際の勇気ある決断と希望で、一切のモザイクなしで、居合わせた医師、パートナーの男性、家族に想いを託し、自分の死に至るまでを映像公開した。
これを「笠川裕子さん映像公開事件」と呼ぶ。
現在もこの映像はアーカイブで歴史的に価値がある。
この渦中で製作されたのが、『レーヴ(En rêve)』である。
当然、その渦中で作られた本作は、パンデミック世界を映し出し、そこでは「笠川裕子さん映像公開事件」に代表される医療崩壊の悲劇も描く。ロケ地に実際の事件現場を選んでいることからも、監督のこのシーンに関する気持ちの入り方が伺える。残された子供などの遺族にもインタビューを行っている。ここでジュルマンが、「不謹慎である」と当時受けたであろう批判は頷ける。
『世界残酷物語(Mondo Cane)』(1962)のような「モンド」との差異を問われた時に、彼が明確な回答を持っていたとは言い難い。だが、このドキュメンタリー・パートのジャーナリズムの姿勢は、フィールド・ワークから学んだのであろう誠実な姿勢がある。
幼な子がキャストを間違えて親のように何度も呼ぶシーンは、まさに作品の白眉だ。それから創作パートの切り替えの鮮やかさは、映画作家として評価されるべきであろう。
ストーリーは日影良幸演じる落ち目の医者が、ひょんなことからダニエル・アレン演ずる国家施設の一人の監察官と共に、日本での感染発生の研究を進めていく。そこで医療崩壊などの悲惨な現実を目の当たりにしていく。
前作からは信じられないほど、『大統領の陰謀(All the President's Men)』(1976)ライクに、国家の欺瞞を暴くエンターテイメントに舵を切った作風には驚かされる。
このジュルマンの心境の変化の理由は不明だが、哀愁が漂よう落目の日影と、一介の技師のアレンとの最高の相棒の物語でもある。圧力を掛けて言論封殺しようとする政治家や、ウィルスに対してデマゴギーを流す御用学者に踊らされながらも、「俺たちも捨てたもんじゃないさ」というぼやきが繰り返され、パンデミック収束に向けて活躍し、しみじみと二人の友情を育んでいく姿が、有り余るほどの人間賛歌で描かれる。
『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立(Crimes of The Future)』(1970)のような等身大の人物が事件を追うスタイルを目指しながらも、低予算ながらも資金的に比較的余裕があったのか、『コンテイジョン(Contagion)』(2011)のような鬼気迫る逼迫した現場を描く作風は、前作のようなアート性はなりを顰めているために、視聴しながらも当時の人々が権力に怯え対抗し、それでもなお必死に生きようとした姿が生き生きと映し出されるために、圧巻とも言えるであろう。
同時に笠川裕子さんをモデルにした女性とその家族や、親や友人といった人々のささやかな日常の、それこそ見ることを当時は見ることを許されなかった、レーヴ(夢)のような日常の尊さも描かれる。
子育てに困難な時代でも、その愛を絶やさない。父母との電話での不安ながらもお互いを気遣うやり取り。金銭的に逼迫する生活と、不自由な外出。それでも教壇に立ちながらフランス民族史を教える裕子さんの姿は愛おしい。それだけに彼女の選ぶ、最期の苦しみの中の映像公開の選択のシーンは胸を打たれる。しかし、死は描かないことにより、逆に我々にその行為の意味を問いかける。
これは「笠川裕子さん映像公開事件」を知らなければ、「映画」そのものは全く意味不明かと思われる。ご存知でない方は当時の日本を学ぶべきだ。
また他にもコロナ渦で強行された国際的運動大会や、遅々として進まなかったワクチン摂取、一種の独裁的な政権によって行われていた政治、そして映像公開そのものへのバッシングにも言及しているので、その点も含めて簡単に調べておくことを進言する。
ジュルマン監督がこの作品に込めたの意図は多義的だ。神話が言語の内にあるのと同時に、遥か彼方にもある。神話が言語体系の不可欠な構造部分に属し、同時にその認知は言語行為による。それは言説に属する、というレヴィ=ストロース以降の神話構造から、彼は前作で、「神話は言語のウィルスである」という台詞を残した。
では、人間にとって「映画」、あるいは映像はどこにあるのか。コロナ・ウィルスとはどこにあるのか。可視化されるものとは何か。その上で人間とは一体何を認知しているのか、という彼の問いが内包されていることは明らかだ。
だが、彼の描きたかったことは、神話的世界でもなければ、政治の混迷、あるいはこのパンデミックそのものではなかったのかもしれない。
しかし、結論的にこの作品の完成度が高いか、と問われた時に筆者は素直に頷けない。クライマックスに近づくと端正な作りから、乱雑なストーリーテリングになる。
しかもラストは人を喰ったかのように、二人のバディがあっさりと、まるで滑稽にこのパンデミックの謎を解決してしまうのだ。そして、シークエンスが転々として絶対に安全な副反応もないワクチンがものの数分で完成し、世界にはそれを乗り越えた人類の平和が訪れる。
余りにも荒唐無稽で、困難だったコロナ時代の史実とは異なる。陰謀論的な冒険活劇でもなく、鬼気迫るドキュメンタリー・タッチでも、アートフィルム的でもない。どちらかと言えば、「B級ファンタジー」というジャンルに属する。
無理にでも幕を引こうとしたのか、一人の老婆と老人が、孫らしき子供に囲まれながら浜辺で遊んでいるカットで唐突に終わる。
筆者は今回この寄稿文の為に、何回も視聴した。そして、一箇所だけ腑に落ちない台詞があった。それは、笠川裕子さんの遺族に取材をするシーンだ。
そこで五歳ほどの男の子が「papa」と二人の主人公のバディを呼ぶ。
ダニエル・アレンは英国出身で、日影良幸は国際派の英語が堪能な俳優だ。だから本編での二人の会話は殆どが英語である。だがここで一瞬、二人は少年の言葉の返答に困るのだ。最初はこの二人を父親(papa)と間違えたためだと思ったが、良く聞けば分かるが この発音はフランス語のものだ。
男の子はキャスト二人ではなく、カメラの横にいるであろうジュルマン監督を見つめている。
––––父親(papa)として。
ジュルマン監督は、映画が崩壊することを余儀なくされても、自らの子供、いや世界の人々に向けてクライマックスの、その全てに自らのレーヴ(夢)を仕込んだのだ。同時に本作は、愛する笠川裕子さんの映像に真実を託した勇気と、その他多くの尊い同じような犠牲者への敬意ある「映画」による回答だと読み替えることも可能であろう。
あのパンデミックから半世紀。
過去の災害として皆が忘却している。
そして、現代は紙のメディアが衰退し、「映画」というメディア用語も一般ではない。愛好されることも少なくなった。遥か昔に劇場という空間は失われ、インターネット配信も加入者の激減から軒並み閉鎖した。最早、映像は意識情報として消費されるのが一般だ。「映画」は一部の好事家と研究者のものでしかなくなった。
かつてのリシャール・ジュルマン監督の奇跡。それはフィクションが世界を変えうるかもしれない、という夢でもあるのかもしれない。
この世界で、一度この作品にアクセスしてみては如何だろうか。
2051.8.21
Michael Okazaki
●リシャール・ジュルマン監督 『レーヴ(En Rêve)』再考 椿恭二 @Tsubaki64
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