蠱毒姫番外編

有馬 礼

異界 de アップルパイ

 メーアメーアは蜥蜴型の魔族である。魔界はいくつかの種族が緩やかに分割統治を行なっており、異なる種族同士の交流はあまり盛んではない。その中にあって、蜥蜴型魔族でありながら人型魔族に仕えている彼は、同族からは変わり者と見做されていた。しかし彼に言わせればこれは趣味と実益を兼ねた合理的な選択であり、何も不思議なことはないのだった。

 メーアメーアは現在、執事頭の他に人間界から魔界に嫁いできたアウゲ・ギュンターローゲ姫の教育係を務めている。魔界の歴史・政治・地理などの教養から各種族の特徴など、学んでもらうべきことは山のようにある。ありがたいことにアウゲ姫は非常に聡明で向学心に富み、メーアメーアの手を煩わせるようなことはなかった。異常な負けず嫌いと、そのくせすぐ勝負事をしたがる性格を除いて。

 どちらかというと、メーアメーアの頭を悩ませているのは、執務を抜けてちょろちょろとアウゲ姫の所にやってきては勉学の邪魔をする次期魔王ヴォルフのことだった。


「ねえねえ姫さまぁ……」


 さっきからアウゲに構ってほしくて仕方ないヴォルフは、勉強中のアウゲにまとわりついて邪魔ばかりしている。


「ちょっと待って……最後の計算が……」アウゲは最近覚えた魔界式の計算盤を素早くはじく。「よし、合ったわ」


「完璧でございますね、アウゲ姫」


 メーアメーアは計算結果を見て満足げに頷くと、瞬きする代わりに舌でぺろりと眼球を舐めて湿らせる。


「それに引き換えヴォルフ様は一体何をしておいでなのですか。姫の邪魔ばかりして。そんなことでは早晩愛想を尽かされてしまいますよ。そもそも……」


「ああうん、ごめん」


 全く悪いと思っていない口調でヴォルフはメーアメーアの方を見もせずに言う。アウゲは抱きすくめられながら、首筋に顔をうずめてきたヴォルフの頭をぽんぽんと撫でた。


「ね、姫さま、今日の勉強終わったでしょ? デートしましょうよ」


「まだまだ勉強することは沢山あるの。終わりとかはないわよ」


「そんなぁ……。意地悪しないで。姫さまに意地悪されたらおれ、死んじゃう」


 ヴォルフは駄々をこねる子どものように嫌々と首を振る。


「馬鹿なの? それくらいで死んでたまるものですか」


 アウゲは仕方なく立ち上がり、ヴォルフの背中に腕を回す。ヴォルフはアウゲの肩にぐりぐりと顔を押しつけて甘えてくる。


「ね、あなたにもあなたの仕事があるでしょう? 頑張って。夜には一緒にいられるんだから」


 子どもを諭すように背中を撫でながら言う。


「うう、姫さま……」


 アウゲに毅然と優しく追い返されて、ヴォルフはとぼとぼと執務に戻っていった。


「……ちょっと可哀想だったかしら」


 ぱたん……と力なく閉じられた扉を見ながらアウゲは言う。


「優しすぎるくらいでございますよ、姫。もっと塩っぱい対応でもよろしゅうございますのに」


「あなた、結構ヴォルフに厳しいわよね」


 アウゲは苦笑する。


「当然でございますよ。ヴォルフ様は姫と婚姻を果たしたことにより、魔界と人間界両方の力を手に入れた、次期魔王なのですからね。魔王陛下のご好意により、今は2人の時間を楽しみ、代替わりはまだ先で良いと言われているだけなのです。自覚を持っていただかねば」


 メーアメーアは鼻息荒く言う。


「しかしまあ、それはそれとして、馬を走らせるためには鼻先の人参が必要と申しますので」


「……申すの?」


「申すのです。何か、ヴォルフ様がヤル気になるようなイベントを考えましょう」


 2人はしばし沈思黙考する。


「そうだわ。この前魔王陛下と王都に行った時に食べた林檎のパイがすごくおいしかったの。ヴォルフにも食べさせてあげたいわ」


「ああ、置いていかれたヴォルフ様が拗ね回っていたあの時の」


「そう」


 アウゲはその時のことを思い出して苦笑する。魔王である義母と「人間界デート」していたことを後で知ったヴォルフが完全に拗ねてしまい、アウゲは彼を宥めるのに大層苦労した。

 メーアメーアが良いことを思いついたとばかりに、ぽんと手を打つ。


「それであれば、2人で作るのはいかがですか?」


「そんなことできるの? 私、料理の類は全くできないわよ……?」


「わたくしに心当たりがございます」


 異界を含めて旅をすることを趣味としているメーアメーアは非常に博識だった。彼が人型魔族に仕えている理由もそこにある。

 人型魔族は人間界含めた異界への扉を管理しており、唯一異界と行き来ができる。メーアメーアは蜥蜴型魔族の特技である変化へんげの術を魔王に提供する代わりに、異界への行き来が許されているのだ。



「姫さまと異世界デート!? 行きましょう、今すぐ!!」


 晩餐の時にその話を聞いたヴォルフは椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がる。


「だから、あなたの執務がひと段落したら、という話よ。ちゃんと聞いていた?」


「あ、そか……」


 ヴォルフは拍子抜けした表情でへなへなと椅子に座る。


「なに、難しいことではございませんよ、ヴォルフ様」メーアメーアがアウゲのグラスに水を注ぎながら言う。「普通に真面目に一生懸命執務に取り組んでいただければすぐに終わります。ただそれだけのことです」


「うん……」


 ヴォルフはショックを隠しきれず、気の抜けた返事をする。


「頑張って、ヴォルフ。執務に区切りをつけて、たまにはのんびり楽しみましょう」


「はい、姫さま」


 ヴォルフは打って変わった満面の笑みで応える。アウゲも笑った。


 翌日から、ヴォルフは人が変わったように執務に打ち込んだ。アウゲが魔王からヴォルフと喧嘩でもしたのかと尋ねられるほどに。

 ヴォルフはあっという間に執務の山を片付けた。そのことにより、メーアメーアに「やればできるのにやらないのは、できないことよりたちが悪い」と小言を言われる始末だった。



「これから参ります異界に合わせた見目に変化へんげしていただきます」


 デート当日の朝。異世界への水先案内人役のメーアメーアが言う。メーアメーアが2人の前で両手をさっと一振りすると、服装が変化している。

 ヴォルフはネイビーの膝丈ハーフパンツに白のTシャツ、同じくネイビーの半袖シャツを羽織り、足元はスポーツサンダルといういでたち。アウゲはチャコールグレーのマキシワンピース。胸元と背中が大きくV字に切れ込んでおり、肩から腕が見えている。白い肌が眩しい。足元はヴォルフと同じデザインのサンダル。加えて、2人とも顔立ちは変わらないものの、黒目黒髪に変わっている。


「いかがですか?」


 アウゲの胸元からメーアメーアの声がする。ネックレスについた蜥蜴のモチーフに化けているのだ。


「ちょっと待って、この、寝巻きみたいな格好で姫さまを出歩かせて大丈夫?」


 ヴォルフはアウゲの頭のてっぺんから爪先まで、視線を何度も往復させながら言う。


「大丈夫でございます。異世界ではごくごく普通の服装でございますのでご安心を」


「メーアメーアそんなところにいてずるいし、黒い目と髪の姫さまが綺麗だし、もうおれはどうすれば……」


「では、参りましょうか」


 ぶつぶつ言っているヴォルフをよそに、メーアメーアが言う。


「そうしましょう」


 アウゲはメーアメーアに指示されていた傘と小さな鞄を手に取った。ヴォルフはぶつぶつ言いながら大人しく着いてきた。



 異界への扉を潜り、石造の階段を上って出た場所は、突き刺すような日射しと全ての生命を拒絶するような蒸し暑さでアウゲはくらりと目眩を覚える。


「あ、このために傘があるのね……」


 アウゲは日傘を開く。


「あなたも影に入りなさいよ」


 ヴォルフに言う。ヴォルフはアウゲに代わって日傘を持ってくれた。


「ここは魔界の灼熱界のどこかなのか?」


 ヴォルフが眩しさに目をしばたかせながら言う。


「いえ? この地ではごく普通の夏でございます」


 アウゲの胸元からメーアメーアの声が答える。


「ほんとかよ。こんな命の危険を感じる灼熱の国によく暮らしていられるな……」


「まずは、あの紅色の看板を掲げている建物へ」


「行きましょう」


 何かの魔力的な攻撃を受けているのではと思うほどの日射しと熱気の中、ジワジワと周り中で奇妙な音が鳴り響いている。アウゲとヴォルフはメーアメーアに指示された建物へ急いだ。

 透明なドアに近づくと両側にさっとスライドして開く。魔界と同じ仕組みのようだ。中に足を踏み入れると、それまでの暑さが嘘のような心地よい冷気で満ちている。


「ヴォルフ様、その手押し車を取ってください。ええ、そして、その灰色の籠をその上へ。結構です」


 建物の中は広間になっており、野菜や果物が積み上げられている。巨大な商店のようだが、売り買いする店員の姿は見えない。ヴォルフと同じ手押し車を押した人々が、積み上がった野菜や果物を自由に籠に入れている。


「あ、林檎があったわ」


 アウゲは真っ赤でつやつやした大きな林檎を手に取る。


「姫、その林檎ではなく、その隣の少し小ぶりな林檎にしてくださいませ」


「これ?」


「左様でございます」


 2人は必要なものを籠に入れながら広間をぐるりと回り、メーアメーアの指示どおり、大きなガラスの扉がついた棚の前に来た。


「上から3段目に並んでいる、林檎パイの精密画のついた袋を取ってくださいませ」


「わ……この棚は氷の魔術が施されているのね。これね」


 アウゲは溢れた冷気に驚きながら、指定の品物を手に取る。


「……この精密絵画、すごいわね。どうやって描いてあるのかしら。しかも、他のものにも寸分違わず……」


 アウゲは手に持ったつるりとした感触の袋の絵と棚に並んだものを見比べる。


「この異界は、姫の故郷同様、魔力を持たぬ者の世界ですが、それを補う技術が非常に発展しておるのでございますよ」


「この広間の冷気は、魔術じゃないのか?」


 ヴォルフも驚いている。


「左様です」


「でも、これだけの広間を冷やせるのは、ほとんど魔術よね」


 アウゲは手に持っていた袋をヴォルフの押す手押し車の籠に入れた。


「そして、隣の棚に並んでいる、臙脂色の蓋がついた丸い容器を」


 アウゲは指定の品物を見つけるが、蓋に描かれている絵が数種類ある。


「絵の違うものがいくつかあるわ」


「白い花の絵でございます」


「わかったわ……これね」


 その後も奇妙なやりとりがあり、なんだかよくわからないままに買い物が済んだとメーアメーアに言われ、2人して首を捻りながらまたあの攻撃的な日射しと熱気の中に泳ぎでる。

 メーアメーアに指示されてやってきたのは、塔のように高い建物だった。巨大なレンガを立てた形。奇妙な箱に入り、次に入り口が開くと同じような扉が並んだ廊下に出る。指定された扉の鍵を開ける。中はアウゲの離宮のような小さな部屋だった。


「ふう、やれやれ」


 メーアメーアが元の姿を表す。


「あ、この世界ではここで履物を脱ぐしきたりとなっておりますので。こちらの室内履きにお召換えを」


 2人は大人しく従う。

 外より幾分ましとはいえむっとした部屋の熱気に、アウゲは手を扇にして自分の顔を仰ぐ。

 メーアメーアが奇妙な板を操作すると、壁に取り付けられた奇妙な箱から冷気が吐き出された。


「これはどういう仕組みなんだ? 魔術じゃないんだよな?」


「詳しく説明いたしますと非常に時間がかかりますので、またの機会に。しかし、魔術ではないとは申せ、これほどに高度化複雑化した技術は、この世界でもほとんど魔術と同様のものとして認識されております」


「この棚は何? 中に氷が入っているわ」


「こちらは食料品を冷却しながら備蓄するための道具です」


 メーアメーアは先程購入した丸い臙脂色の蓋がついた容器をしまう。


「さて、ヴォルフ様、まずは林檎の皮を剥いてくださいますか。ナイフはこちらに」


「わかった」


 ヴォルフはナイフを手に取ると器用にするすると皮を剥いていく。


「上手ね」


 アウゲはその危なげない手つきを見て感心する。


「でしょ? 子どもの頃、城の食糧庫から林檎を盗んではこうして食べてましたからね」


 ヴォルフは得意げに言う。


「胸を張って言うようなことじゃないわよ」


 アウゲはくすくす笑い、ヴォルフも笑った。そうする間にも林檎が2つ綺麗に剥かれる。


「そうしましたら、芯を除いてこの程度の厚みに」


 メーアメーアが指で示した厚みに林檎を切っていく。切った林檎、水、砂糖、レモン汁を鍋に入れて火にかける。焦がさないようにかき混ぜながら煮詰めると、甘い香りが立って煮汁がふつふつと沸き、林檎が透き通ってくる。


「いい香りね。これだけでもう美味しそうだわ」


「ですねえ」


 煮汁がとろりととろみを帯び、林檎が黄金色に煮えた。バターを加えて冷ます。冷めた林檎を先程買った生地の上に乗せ、もう1枚の生地を被せる。


「いっけね、はみ出た」


「もう……雑なのよあなた」


「雑でも丁寧でも味に変わりはないから大丈夫です」


「開き直らないで」


 アウゲに叱られたヴォルフは笑って誤魔化す。

 メーアメーアが奇妙な箱を操作して、パイを中に入れる。

 待ち時間に、メーアメーアが黄色の袋を開けて奇妙な三角錐の小さな袋を取り出し、カップに入れて湯を注ぐとよい香りが立ってあっという間にお茶が入る。


「これ、便利ね。お茶をこの小さな袋に入れることで、漉す手間が省けるのね。合理的だわ」


 アウゲは感動して言う。


「じゃ、買って帰りましょうか」


 ヴォルフはアウゲの腰を抱き寄せて、頬にくちづける。


「いいの?」


「もちろん」


 嬉しそうなアウゲにヴォルフが蕩ける笑顔で答える。


「ヴォルフ様、そのだらしない顔はどうにかならぬのですか」


 メーアメーアがこの空気感をものともせずに言う。


「だって姫さまがかわいいんだから仕方ない」


 ヴォルフはアウゲを腕の中に閉じこめる。


「いいわよ、そういうのは……」


 アウゲは顔を真っ赤にしてヴォルフの胸を押してその腕から逃れた。


「ねえ、この部屋は一体どういう場所なの?」


 照れ隠しにメーアメーアに尋ねる。


「こちらは、この異界へ派遣している魔族がねぐらとして使っている場所でございます。本日は、お邪魔虫どもは外へ追いやってございますので留守ですが」


「そう……そうなのね」


 アウゲは動揺しながらカップに口をつける。ヴォルフはお邪魔虫の定義について思いを巡らせたが、口にするのはぐっと堪えた。

 そうしている間に、部屋の中に甘い香りが漂いはじめた。箱型の奇妙な炉の前で、肩を寄せあって焼き上がる様子を見守る。

 聞き慣れない鳥の啼き声のような音が鳴って、どうやら焼き上がったらしいことが感じられた。メーアメーアの指示に従って、ヴォルフが天板を取り出す。


「わあ、できたわ」


 アウゲが目をきらきらさせる。

 メーアメーアが焼き上がったパイを皿に盛りつける。


「これはアイスクリームと申す異界の氷菓子でございまして、わたくしの調査によりますと、数多あるアイスクリームの中でもこちらの品が至高でございます」


 そう言いながらパイの隣にアイスクリームを添える。パイの熱でとろりとアイスクリームがとろけた。


「おいしそう」


 アウゲは感動のあまりヴォルフに抱きつく。

 焼きあがったパイにナイフを入れると、サクッとした心地よい手応えがある。中の林檎は程よい固さを保っていて、噛むと甘さの後に爽やかな酸味が広がる。パイ生地のバターの風味とサクサクの食感もたまらない幸福感をもたらす。


「おいしいわ。自分たちで作ったとは思えない」


「ですねえ」ヴォルフは笑顔で答えたがふと真顔に戻って言う。「この前母上と王都で食べたのと、どっちがおいしいですか?」


「もう……あなたに黙って陛下と王都に遊びに行ったことは、本当に悪かったと思っているわよ。王都で食べたパイはしっとりしていて、これとはまた違った種類のおいしさね。今度は一緒に行きましょうね」


「絶対ですよ」


 ヴォルフは拗ねた顔で言う。


「じゃあ、あなたも執務を頑張って」


「うう……はい」


 熱い林檎をアイスクリームに絡めると、口の中で起こる熱さと冷たさのマリアージュが素晴らしい。アイスクリームの、濃厚だが冷たさのお陰で重すぎない甘さとこっくりした林檎の甘さが程よく溶け合う。

 アウゲがうっとりした表情でパイを味わっているのを見ていると、胸がいっぱいになる。出会った時は、こうして同じテーブルで食事をすることも許されていなかったのに。


「……ちょっと、どうしたの、ヴォルフ?」


 アウゲがぎょっとした顔で言う。


「え……?」


 ヴォルフははっと我に返り、そこで初めて自分の頬を涙が伝っていることに気づいた。


「あ……、はは、すみません姫さま。前は、こうして一緒のテーブルで食事をすることなんて、夢のまた夢だったのになあと思ったら、つい……」


 ヴォルフは手の甲でぐいと涙を拭って、照れ隠しに笑った。

 アウゲは立ち上がってテーブルを回るとヴォルフの隣に立つ。


「あなたがいてくれたからよ。今の私があるのは、全部、あなたのおかげよ」


「姫さま……アウゲ」


 重なった唇の甘さは、アップルパイだけが原因であったか。

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