ダル・セーニョ
深川夏眠
dal segno
薔薇の季節は胸が痛い。痛むのは心だけではない。
「変わった手袋をしていらっしゃるのね」
老いた未亡人は喉に絡みつきそうな粘りけのある
「絵を描く人が指で画面を
小指の先端から
「美術に転向なさったの? 左手でお
彼女の瞳が好奇心を湛えて光った。冗談か、あるいは皮肉なのか。
「両手を器用に使えるのは便利ですね」
「ええ、少しくたびれただけでポットを持ち上げるにも難儀しますから」
ボーンチャイナの蓋がカタカタ振動した。僕は急いで腰を浮かせ、彼女に代わって紅茶を注いだ。ローズティにダークチェリーを加えた風な。事件が起きた晩も月明りの中に、こんな香りが漂っていた。
指袋に覆われた手を上着のポケットに入れると、今日の主役が出番を待っていた。彼女に渡すために忍ばせてきた
「お心遣い、痛み入ります。故人も草葉の陰で喜びますわ。同窓生の死を悼んでくださって」
「忘れません。ルームメイトでしたし」
語尾の震えを誤魔化そうと、急いでティーカップに口をつけた。苦い。
「もっとも、まだすぐそこら辺にいて、笑っているみたいですけれどね。実感が湧かなくて。夜なんてピアノが聞こえてまいりますのよ。もちろん、幻聴だって承知しております。防音室なんですから」
生前の姿にせよ幽霊にせよ、無機質な小部屋より、温室で花に囲まれ、降り注ぐ月の雫を浴びて鍵盤を叩く方が、彼の端麗な美貌に相応しいに違いない。
「見かけによらず粗忽者で、皆さまにはさぞ、ご迷惑をおかけしたでしょうね。お茶を淹れてもらおうと思ったら、ソーサーの一枚ぐらい
彼女は皺ばんだ瞼に過去の情景を浮かべて懐かしむ
「パフォーマンスに差し支えるから、くれぐれもケガはしないでと口を酸っぱくして言っておりましたけれども」
確かに彼は無邪気で、やや注意力散漫だった。
「不注意で爪を割ってしまって血を流しながら練習した日もありました。不思議と、いい音でしたが……」
初耳だ。僕が知っているのは
「いつぞやはハンカチに刺繡してプレゼントしてくれました。何があっても必ずここへ帰るという意思を込めたのでしょうか、符号を縫い取って。ところが、丸を一つ忘れていたのですよ。うっかり屋さんね。そこへポツッと血が滴って、ちょうどいいと言ってはおかしいけれど、上手い具合に……」
あんな無器用な男が裁縫なんてするとお思いですか。本当なら赤い染みの一つ二つどころではなかったでしょう。
老未亡人は柔和な表情で彼にまつわる微笑ましいエピソードを列挙していった。恐らく、半分くらいが事実で残りは創作、否、叶わなかった希望なのだろう。
「もうじき誕生日を迎えますから、ささやかな祝いの席を設けたいの。親しくお付き合いいただいた方や恩師をお招きして。例の先生はどうなさいました? ほら、恋人にプロポーズするって準備した指環がどこかへ行ってしまったと大騒ぎになった。無事にご結婚されたのかしら」
字義通り死んだ子の年を数えるセンスもいかがかと思うが、彼女の中では時計が狂っているのか。どうなさるも何も、あれから十五年、指導教官は結婚し、離婚して再婚した。二番目の奥さんの連れ子が先ごろ出産したので、
「書きかけの楽譜を、どなたかに継いでいただきたいわ。パーティで披露してもらえたら素敵」
きっと誰も引き受けたがりません。仮に手を挙げる者がいたとしても、出来上がりは原型を留めない別物になるでしょう。
「わたくしのためにコンテストに参加するのだと
噂どおり、老女の脳内では記憶の
彼女は富豪に嫁ぎ、豊かな暮らしを享受したが、夫に先立たれて莫大な財産と孤独を持て余し、金の卵と睨んだ孤児を引き取って、その教育に湯水のごとく
彼女は彼がコンペに向けて寝食を削っていたので朦朧として高所から転落したと信じている。だが、事実はこうだ。
当時、生徒たちの間で飾りボタンが流行っていた。足付きと呼ばれるタイプで、購買部の担当者が何かのついでに仕入れて並べたら、デザインのせいか予想外に売れたのだ。丸い艶やかな表面に音符や演奏記号が大きく刻まれていた。大方はチェーンを通して鞄にぶら下げるのが関の山だったが、中にはシャツの袖口やジャケットのラペルホールに取り付けて、お洒落を楽しんだり、レアアイテムを交換して自慢し合ったりする者たちもいて、彼はそんなささやかな狂騒に巻き込まれたのだ。僕が無造作に買ったボタンにはSと斜線と二つのドットで構成されたセーニョが黒く記されていた。手に入れた生徒はごく少数だったとかで、条件付きの争奪戦が始まった。結果、彼はちっぽけな白いプラスティックの塊を握り締めて命を落とした。ベランダから飛び降りて――本人は華麗に着地するつもりだったのだろうが――不意に滑空してきた猛禽か蝙蝠に驚き、バランスを崩したと思われる。僕らが慌ててフェンスに齧りついたときには花壇の上に仰向けに倒れていた。一斉に駆け出した瞬間、誰かがガラスの器を引っ繰り返してお茶をぶちまけた。現場に辿り着くと、もう人が集まっていたので、僕らは波を掻き分けて前へ進んだ。彼はまるで薔薇で埋め尽くされた棺に納まったかのようで、雲の切れ間から射す月光を浴びた蒼白な面貌はゾッとするほど美しかったが、後頭部から出血しており、大きな眼をポッカリと虚ろに見開いて、水から上がった魚よろしく口をパクパクさせていた。ボタンを持っていない側の手はロートアイアンの小さな十字架に貫かれていた。アクセントと称して僕を含む何人かが戯れに設えた、数日前に外壁から撤去された
彼は搬送先の病院で息を引き取った。僕は彼の死に関与したショックと自責の念から衝動的にナイフを掴み、左の小指を斬り落とそうと試みたが、激痛に悶絶しかかったところで取り押さえられた。深手によってプレイヤーとしての前途を閉ざされた僕は、彼の死後
僕はポケットの中で冷たい遺物を弄びながら立ち上がって辞去した。最後までボタンの話は伏せたままにしておいた。彼に天与の
薔薇の季節になると古傷が疼く。それは夜露に濡れそぼつ彼の青白い
dal segno【fine】
〔BGM〕The Cure "A Chain of Flowers"
*雰囲気画⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/axXkn9mR
*縦書き版はRomancer『月と吸血鬼の
無料でお読みいただけます。
**初出:同上2021年8月(書き下ろし)
https://romancer.voyager.co.jp/?p=116522&post_type=rmcposts
ダル・セーニョ 深川夏眠 @fukagawanatsumi
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