最終章:天地創造
瞼の向こうに光を感じる。
あれから1時間か、それとも1分しか経っていないのか。俺はミミズの残骸の中で目を覚ました。身体を動かすことができず焦ったが、それもそのはずで、ミミズの肉や皮が濡れたシーツのごとく全身にまとわりついていたのだ。ああでもない、こうでもないと、肉塊から身体を苦労して引き出し、アスファルトの地面に這い出た。
顔を上げると、ぼんやりとした視界の中で、体育座りの冴子と目が合う。この女、人が四苦八苦している様をぼんやり見ていたのだ。
「お前さ、手伝えよな」
「ごめんなさい。てっきり死んだのかと思って」態度に悪びれる風はまったくない。
「生きてるよ、多分」
「そう、良かった」冴子は立ち上がり、俺に向かって手を差し出す。「生きていようと死んでいようと、さっさと立ちなさいよ」
「ありがとよ」俺は冴子の助けで立ち上がった。
くそっ、目がよく見えない。なんか息が苦しい。
冴子の手が俺の顔へ伸びる。ぺろりと何かを顔から剥がしてくれた。ミミズの薄い膜のようなものが張りついていたのだ。彼女はビニール状のそれを、鼻水をかんだティッシュを扱うみたいに脇へ投げ捨てた。
薄く重たい仮面が外れた。新鮮な空気を目一杯吸い込み、太陽の日差しを感じる。
見上げた空は快晴の青空だった。
「雨、止んだな」
「そうね」冴子は空なんかまったく見ていない。俺の顔を驚いたようにまじまじと眺めている。「あなたって、そんな楽しそうな顔できるのね」
俺は自分の顔に手を這わせてみた。どんな表情かなんて全然わからない。
ミミズは絶命したようだ。
体内でいくつもの手榴弾が炸裂したせいで、長い身体が半分に断ち切られている。全身がびくり、びくりと震えているが、反射作用のようなものだろう。弱々しく開け閉めされる口からは、もはや噛み合わされることのない牙の列が見える。俺たちはあんな場所に向けて飛び込んだのか。
「あなたが寝てる間、生きてる生徒を結構見かけたわ。学校外へ逃げたり、どこかへ隠れたりしたようね」
あたりは生徒や教員の死体で埋め尽くされていた。ミミズの巨体に潰された者、身体半分を噛みちぎられ打ち捨てられた者。
どぼり、という轟音とともにミミズの腹の断面から、何かが大量にまろびでた。半ば消化されて肌全体がケロイド状に溶けた者たちが束になって漏れ出たのだ。もはや顔どころか性別もわかりそうにない。
その中でも、まだ生きている者がひとりいた。辛うじて。
佐々木だった。全身がぐずぐずに崩れているのに、なぜ俺は彼だとわかったのだろう。
「なあ、俺の脚ってどうなってる?」ほとんど聞き取れないほど弱々しい声で、佐々木は俺に言った。「感覚がない、感覚が全然ないんだけど」
脚どころか腹から下全部がなくなっていることを教えてやるべきだろうか。
もう佐々木は助からない。不思議だ。何ヶ月も同じ教室にいたのに、何度も会話したのに、最後の瞬間になって初めてこいつの顔を見たような錯覚に陥る。
「寒い。死にたくない、助けてよ」
この熱い日差しの下で、佐々木は寒さで震えていた。俺は歩み寄って、顔をくっつけるように屈み込む。
「なあ、佐々木。聞こえるか、俺の言うことがわかるか」
「寒い」
「お前に伝えたいことがある。ずっと言えなかったことなんだ」
「死にたくない」
「聞いてくれ」
「死にたくない」
「俺、お前のことがずっと嫌いだったんだ」
「はあ?」死んだ。短すぎる臨終の言葉だが、心はこもっている。
俺と冴子は二人並んで校門から学校の外へ出た。
静かな住宅街に、夏の爽やかな風が吹き抜ける。
二人とも実に悲惨な状態だ。全身がミミズの体液や肉片、糞でまみれている。人間のものもたくさん混じっている。制服のシャツは赤茶色に染まってしまい、元の色は白だったか、薄い青だったか、もう思い出せない。
俺たちに出くわす通行人は驚くだろうな。きっとその人は俺たちを見て、ばったり足を止めるだろう。頭からつま先までじろじろ眺めて、なんなんだこいつらは、という顔をして。そして鼻を曲げてしまうだろう。俺たちの鼻は慣れてしまっているが、きっとたまらない悪臭をぷんぷんさせているはずだ。生臭さ、土臭さ、糞臭さ、その他嗅いだこともない臭いが混ざり合っているから。そして俺はこう言うんだ。細かいことはあとで説明しますから、まずはシャワーを使える場所はありますか、って。
でも、いつまで歩いても通行人に出会わない。
道路のど真ん中に、パトカーが停まっていた。運転席側の扉が開けっ放しだ。白い車体に、赤い血がべっとりこびりついている。地面を見ると、何かに引きずられたように血痕が伸び、どこかへ消えていた。
俺たちは歩く。
駅前の大通りに出ると、乗り捨てられた車がたくさん並んでいる。いくつかは真っ平らに潰されており、何か巨大なものに踏まれたのだろうと推察される。からから、と音がするほうを振り向くと、風に押されて一台のベビーカーが転がってくる。カバーをめくり上げても空だった。
俺たちは歩く。
あきらかに一般とは違う車が横倒しになっていた。まるで戦車のようなそれは、自衛隊の装甲車だった。こんな重量感のある車両が、なんらかの凄まじい力で転がされたのだ。地面には空の薬莢が大量に転がっている。何人もの人間が、その場で銃を撃ちまくって戦った痕跡だった。
俺たちは一旦立ち止まって、頭上を見上げた。
目の前に大きなヒキガエルが現れたのだ。大きいなんてもんじゃない。ビルに足が生えたみたいだ。身体中の疣ひとつひとつが人間よりもでかい。地面を踏みしめるたびに、地響きで俺たちの身体が上下する。分厚い粘膜で覆われた眼が俺たちを捉えたようだが、ヒキガエルは興味なさそうに大通りを横切っていった。
「私がミミズを育てようと育てまいと」冴子の声には無力感と奇妙な解放感があった。「結局こうなることは決まっていたのね」
すべては生物たちのレジスタンスだった。今まで石の下、暗く湿った場所に隠れていたような連中が、今度は生態系の頂点に立とうとしているのだ。
携帯電話が繋がらないと騒いでいた生徒たちを思い出す。どうりで電話できないわけだ。学校どころか、ここら一帯、いや日本中がこうなっているのだから。ミミズ一匹ごときがなんだと言うのか。俺は遙か後ろにある学校を見た。俺たちを捕らえていた巨大な牢獄に思えたそれは、今ではランチの添え物のちっぽけなチーズの欠片にしか見えない。
俺たちは歩き続ける。路地を越えて、街を抜けて。
どこかで、今年最初の蝉が鳴き始める。
背中を焼く強い日差し。熱せられたアスファルトの臭い。
いつしか坂道を上りはじめていた。だらだら汗を流し、息を弾ませながら、長い道を登っていく。二人とも何も言わない。
頂上に着くと、高台から街を見下ろした。さらにその向こう、遙か都心のビル群も望むことができる。太陽の光を受けて輝く風が、視界を通りすぎていった。
この瞬間、青空は俺たちだけのものだった。
いまさらながら、世界はこんなにも綺麗だった。それに気づいたのが遅すぎたのか、それともこの瞬間が来るまで気づくことはありえなかったのか、俺にはわからない。でも、こうして気づくことはできた。
これは夏休みだ。世界の夏休みがはじまったのだ。
「私、日本がちょっと好きになれそうだわ」
彼女はそう言って、人生最後の友達に微笑みかけた。
ヤング・ジャパニーズ 荒川アルドー @deepchill
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