第二章ー3話
「ああ、おそらく新たな碧炎の騎士が立ったんだろうな。それがカスティナに上陸した。だからね、そのことを話し合わなければいけないんだよ。そのためにアリューシャを借りるが我慢してくれるね?」
子供を諭す父親のように、ヒューイは優しくシリアに言葉をかける。
王都陥落の際には、三人の炎彩五騎士がこの地にやって来た。
彼らは王都シェスタと、カスティナの海岸沿いの多くの地をあっさりと平らげて、本国に戻って行った。
現在は帝国軍のいくつかの部隊が残り、落とした街々の管理をしているということは、リュバサに避難しているカスティナ首脳部も把握し、もちろん奪回するための準備を着々と進めている。
そんなときに、再び炎彩五騎士の一人が到着したというのだから、どのような目的でやって来たにしろ、早めに情報を得て対処するに越した事はない。
「……はい」
シリアは僅かに青褪め、こくりと頷いた。
アリューシャに重傷を負わせ。そして、兄と戦っていた緋色の男。
その時の怖ろしい光景を思い出し、シリアは抑えきれない震えが足許から這い上がってくるのが分かった。
「リュバサの所在が知られることは有り得ないから心配するな。これまで国土が蹂躙されるのを我慢に我慢を重ねて見てきたが、ようやく我らの準備も整ってきたところだ。帝国など、すぐに追い返すことが出来る」
「そうだよ、シリア。心配すんなって」
不安そうな表情になってしまった少女を、アリューシャは再び優しく抱き寄せる。自分にとっても炎彩五騎士は恐ろしい存在であったけれど、それを彼女に悟らせるわけにはいかなかった。
「じゃあ、ちょっと行って来るよ。あとで、たっくさん話しようなっ」
シリアの金色の髪をくしゃくしゃとかきまぜると、ひらりと身を離してアリューシャは笑う。
「うん……」
今度ばかりはアリューシャの笑顔を見ても、不安のすべてが消えることはなかったけれど、震えだけはおさまった。
「そう、だね。あとでいっぱい話そうね!」
兄が帰って来るまで自分を守ると、アリューシャはそう言ってくれた。それなのに、自分だけがこんなふうに甘えてばかりではいけないと思う。
だから……にこりと。シリアも強いて笑った。
そうして二人を見送ろうと、シリアがドアを開けたその、刹那。
笑顔を打ち砕くかのような慌しい足音が近付いて、シリアの目の前に立ち止まる。
驚いてシリアが顔を上げるのと、そこに佇む若い男が、蒼白になった口を開くのはほぼ同時だった。
「ヒューイどの、ジェラード将軍の所へ早く! 帝国軍が……湖岸に集まり始めていますっ!!」
「……なにっ!?」
若い男の叫ぶような報告に、そこにいた全員が言葉を失った。
アリューシャがカエナの港町で見たという帝国軍のことを、上に報告する間もなく、彼らはあろうことかこのリュバサに向かって来たと言うのだ。
この街の存在を帝国軍が知るはずはない。だから心配する必要はないとも思う。
けれども ―― それなら何故。このリュバサ湖岸に集結しているのか。不安はひしひしと押し寄せる。
相手方に、自分たちが軍神と讃えていたユーシスレイアがいることなど知るよしもないカスティナの人間にとって、今の帝国の動きは予測もつかない不気味なものだった。
「どういうつもりなんだ、やつらは……」
深く重い溜息を、ヒューイは思わず吐き出していた。
†††††
朝日を浴びた湖面がきらめくように光彩を帯び、得も言われぬあざやかな光景をつくりだす。
湖をとりまくように広がる木々の緑も。水の碧さも。空の蒼も。すべてが自然の優美さをあますことなく結晶したように、その場所にただ存在していた。
見る者すべてを祝福するかのような暖かく穏やかなその光景は、多くの者に感嘆の溜息を吐き出させる。
それを見渡すように視線をめぐらせた若い男もまた、例外ではなかった。
「あの湖の底に……本当に
健康的な褐色の肌をやや上気させながら、彼は先ほどから俯いたままの上官に声をかける。
この神がかった美しい景色の下に、カスティナ王国の隠された街があるのだということが青年を興奮させていた。
青年を、ラスティム・ヴァリエードという。
編成されて間もない碧焔直属『氷鏡』の主席幕僚を務める男だった。
ナファスの海上戦で壊滅した
敗北を悟ったゼア・カリムが、帝国軍本隊をナファスから退却させるために、みずから『蒼天』と共に
以来、自暴自棄になって第一線から退いていたラスティムではあったが、今回、新たな碧焔の騎士から直々に指名されて、再び軍に復帰することになっていた。
「粋なこと?」
幕舎の中央で、何か考え事をするように地図を眺めていたユーシスレイアは、部下の言葉にふと顔を上げた。
巻上げられた幕舎の入り口から僅かに覗く景観に目を向け、そうしてわずかに眉を顰める。
「あれは、生きることを強く望んだ古代の民が、難を逃れる為に生み出した場所だ。しかも一部の人間だけが助かるための……な。それを考えれば、粋とも優雅とも思えない」
情緒も何もあったものではない言葉を返し、ユーシスレイアはテーブルに肘を突くようにラスティムを見た。
リュバサの街。何もかもが揃う、不自由のない楽園のような奇跡の街。
けれどもそこに避難した者たちは、王族や重臣たち。そして王都シェスタに住む者たちの中でも、城郭都市内に居を構えていた民だけだ。
騎士たちによってリュバサに誘導された
そしてまた、カスティナの各地ではまだ戦闘が行われているというのに。街の所在は他に知られず、ひっそりと一部の人間だけが安全な暮らしをしているのだ。
何故、リュバサにいるはずのカスティナ本隊が占拠した帝国軍に反撃してこないのか。国土を蹂躙されるがままにしているのか。
それが、ユーシスレイアにはどうにも解せなかった。
「確かに、言われてみればそうですね。カスティナの国王は、カスティナ全土を諦めて湖底に小さな王国でも築くつもりでしょうか?」
他の町々を見捨てて、安穏とリュバサに逃げ込んでいる者たちは何を考えているのだろうか。主席幕僚の青年は興味深そうに、焦げ茶の瞳を
自分の新しい主がカスティナ出身であることを、ラスティムは知っていた。
数ヶ月前に碧焔の騎士が新しく就任したとき、交わされる言葉の端々に、カスティナ王国独特の流れるような言い回しが時折り混ざったので、ラスティムは薄々気が付いてはいた。
しかしその推測が事実の認知へと変わったのは、幕僚にと請われた際にユーシスレイア自身から打ち明けられたからだ。
腹心と頼むからには、嘘や誤魔化しはしないというユーシスレイアなりの誠意でもあった。
「……おれにも理解できん。以前であれば、そんなことはしなかったと思うがな」
ユーシスレイアは苦笑まじりに応えると、小さく息をついた。
父アルシェが軍を統括していた頃は、こんなふうに引きこもっているだけなどという下策を採るはずはなかったと思う。
各地で戦っている地方軍の者たちには、時どき激を飛ばしているようではあったけれども。国軍本隊が少しも動かないのでは、士気も上がりようがない。
「まあ、攻める側にとっては有り難いことかもしれん」
ふっとかるく笑むように口端をあげると、ユーシスレイアは再び机上へと視線を落とす。
このあたりの地形が詳細に描かれた細やかな絵図と、何か不思議な形をした……巨大な獣がぱっくりと口を開けた様を思わせる一筆書きの簡素な絵が、そこには並べておかれていた。
ラスティムは入り口を離れて碧焔の隣に歩み寄ると、覗きこむように二枚の絵図を見やる。
「彼らもさすがに自分の尻に火がつけば戦いに出て来るでしょうけど、
「……現在カスティナの軍を総括しているのはフォルテス。実戦はジェラードというところだろう。しっかり機能してさえいれば、そうそう簡単な相手ではないさ」
ぽつりと呟き、ユーシスレイアは軽く頭を振った。
自分がカスティナに居た頃、軍を総括していたのは父アルシェだった。
その父は、今は
そう考えると、次席のフォルテスが今は任に就いているはずで、その手駒となるのは従兄弟のジェラードだろうということも容易に想像がつく。
ジェラードはかつて自分がカスティナの将であったとき、腹心とも頼んでいた老練な騎士だった。
まだ若輩の自分の下についたにもかかわらず、歴戦の騎士ジェラードは不平のひとつも言わずに補佐してくれたものだ。
「だが……カスティナの軍は機能させない」
過去の記憶を振り切るようにユーシスレイアは白金の瞳を僅かに細め、地図を睨む。その頬には、鮮やかな戦意ともとれる微笑が浮かび上がっていた。
「ところで碧焔様。三日でリュバサを落とすようにと皇帝陛下より仰せつかったのではありませんか?」
ひとりごちた上官に、ラスティムは強い焦げ茶の瞳を向けた。
ここに……リュバサの湖を
「ラスティム・ヴァリエード……」
碧焔は刃を生み出すようにラスティムを見やった。
翡翠石をくりぬいて造られたリングで束ねた長い銀色の髪がゆらりと流れ、そして静かに止まる。一瞬おとずれたその静寂が、周囲の空気を鋭く張りつめた。
いつものように愛称ではなく、自分の姓名を正確に呼んできた深い声音と強い眼差しに、思わずラスティムはぞくりと身震いする。
ユーシスレイアは主席幕僚の青年に視線を据えたまま、再びゆっくりと口を開いた。
「リュバサなど、半日で落とす。懸念は無用だ」
すべての真実を見据えるような白金の瞳が、鮮烈な輝きを宿していた。それは、戦を前にした炎彩五騎士の名に最も相応しい。
やはり ―― 『碧焔の騎士』の称号を与えられるだけのことはある御方だ。ラスティムは心の中で歓喜した。
半日で街を陥落させるという言葉が、妄言や大言壮語などではないと分かる。
大きな自信とも違う。確信……だろうか。碧焔の騎士という存在が周囲に発する煌きは、決して幻ではないのだろうとラスティムは思った。
旧主を失って以来、もう誰かに仕えることはないと思っていた。
そんな自分を再び起ち上がらせたのは、この強い白金の瞳だ。旧主の仇であると知ってからも惹かれずにはおれなかった、壮絶な ―― 。
「出過ぎた事を申しました」
ラスティムは高揚する己の心を抑えるように、軽く頭を下げた。
既にこの碧焔の騎士に対して、自分が心酔してしまっている事は自覚している。
けれどもまだ……旧主の仇であるユーシスレイアに、それを見せたくないと思う、相反した自分自身も居た。
「別に、出過ぎたことではないさ」
ユーシスレイアはわずかに表情を和らげると、踵を返して幕舎の外に出る。
さきほどラスティムが褒めた蒼穹の下に広がる湖を一瞥すると、ゆらりと髪をあそばせるように褐色の肌の青年を振り返る。
「ラス、おまえには夕刻までに氷鏡を率いて行ってもらう場所がある。しっかり準備をしておけ」
「はっ。承知しました。……それで、私が行く場所とは?」
「詳細は一時間後。次の軍議にて話す。それまでは秘密だ」
笑い含みに言うと、ユーシスレイアはラスティムに背を向け、再びリュバサの湖を……否。湖の底に在る街を見据えるように、白金の双眸を鋭く煌めかせた。
月に沈む闇 かざき @kazaki_kazahara
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