源氏は「氏」、平家は「家」?

平安時代、皇位継承の安定を意図して各天皇は多くの皇子を儲けていた。しかし皇族の身分を維持できる者は限られ、当然のこと、その道を閉ざされた皇子が多く溢れることとなる。これらの皇族がその身分を離れ、姓を与えられて臣下となった。

これ即ち『臣籍降下しんせきこうか』、源氏や平氏など武士の始まりである。


源氏は八一四年、第五十二代嵯峨天皇が皇子・皇女ら八人に『源』の姓を与えて臣籍降下させたことに始まる。平安時代に入ると藤原氏が台頭し、朝廷の要職を独占するようになっていた。これに対し天皇は自らの子女に姓を与え、官職に就けて権力の

奪回を目指した。

嵯峨源氏は公卿くぎょうとなり、源まこと、源ときわ、源とおるは左大臣にまで昇った。後に続く天皇もこれに倣い、源氏には祖とする天皇別に二十一の流派がある。


武家源氏の源流となったのは清和源氏、第五十六代清和天皇の孫・経基つねもと王の系統で

ある。朝廷の官職にも限りがあり、経基の長男・源満仲が摂津国多田で武士団を形成して朝廷の警護を担ったことで『摂津源氏』と呼ばれるようになった。

満仲の子である頼光・頼信の兄弟は藤原摂関せっかん家に仕えた。長男・頼光は大江山の鬼退治で知られているが、和歌の達人としても名高く公家との交流も多かったという。

三男の頼信は根っからの武人で、左大臣・藤原道長に仕えて諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任する。後に河内守に任じられて『河内源氏』と呼ばれ、源頼義、義家ら代々の嫡男は陸奥守むつのかみに任じられた。

八幡太郎はちまんたろう義家は陸奥国清原氏の内紛を見事に平定(後三年の役)するなど、東国に

武家源氏の基盤を築いた。この系統から輩出された頼朝や義経は、紛れもなく武家

源氏の嫡流である。


平氏は八二五年、桓武天皇の第五皇子・葛原かつらはら親王の子女が『平』の姓を賜ったことに始まる。桓武天皇が築いた平安京にちなんで平氏と名付けられた。

平氏には四つの流派があり、武家平氏として活躍が知られるのは高望たかもち王の流れ

坂東ばんどう平氏』である。坂東平氏は上総かずさから下総しもうさ(千葉)、常陸ひたち(茨城)にかけて

東国に広く勢力を広げていた。


坂東平氏と言えば、頭に浮かぶのは『平将門まさかど』であろう。東国に独立政権を樹立し『新皇』を名乗った。(将門の乱)

この乱を平定したのが将門の従兄に当たる平貞盛。当時は京に上って出世しており、その妾腹の四男・維衡これひらの子孫が後に伊勢に移り住んだ、これを『伊勢平氏』と言う。平清盛はこの伊勢平氏から輩出されている。朝廷に進出したことで「平家」と呼ばれたが、残念ながら坂東平氏の中では傍流に過ぎない。即ち、清盛一族は武家平氏を

代表する存在ではないので、一つの家系として『平家』と呼ばれている。

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源氏は「氏」、平家は「家」? 山口 信 @masatoUKYO

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