今、果てしない旅路を

夢咲彩凪

第1話

 古ぼけた列車の窓から見上げた冬空は、厚い雲で覆われていた。悪魔の息さながらの暴風が、嘲るように不気味な音をあげながら降りしきる雪を煽りたてる。

「次は、千秋楽駅〜千秋楽駅〜」

 車掌の間延びした声は静かな車内によく響いた。

 千秋楽といえば、舞台などの興行の最終日を指す言葉だと聞いたことがある。変わった駅名だ、とぼんやり思った。

 だが、この駅で降りる人はいないのだろう。周りを見渡しても、降車準備をする乗客の姿はなく、みな深い眠りについている。

 ──なんとも不自然なほどに、身動きひとつせず。

 ただし、それはひとりの例外を除いて、だ。

 僕は痩せ細り、骨ばった腕で懸命に荷物を抱える向かい側の席に座った老婆の姿を一瞥する。

 彼女は俯いており、時折苦しげなうめき声をあげながら体を小刻みに震わせていた。

 生憎、僕は救いの手を差し伸べる勇気を持ち合わせた善人ではない。面倒ごとには巻き込まれたくない、と見て見ぬふりをして彼女から目を背け続ける。

「……お、うぅ……」

 ふと、老婆がなにやら身動ぎをするのが視界の端に映った。

 予想外の動きに敏感に反応してしまい、思わず彼女の姿を凝視する。

 その瞬間、声にならない叫びがこみ上げた。

「…………っ」

 彼女の異様なほどに輝いている、生気にあふれた瞳が僕の瞳を捉えていた。

 急激に、激しい動悸とともに見える景色が霞んでいく。

 そしてどこか遠くから、歌が聴こえたのだ。とても、とても美しく透き通った女性の歌声が。

 


  覚えている あの大きな背中を

  覚えている あの豪快な笑顔を

  覚えている あの言の葉の魔法を

  私は強く生きる

  それをあなたが教えてくれたから

  もうすぐ行くわ 待っていて

  あなたとあなたの愛しい人が

  眠るところへ──

 

 ようやく父と暮らした故郷に帰ってこられる。とても優しくて、強くて。でも怒ると誰よりも怖くて。

 そんな父は愚かな戦争によって犠牲になってしまった。

 ああ、会いたい。小さな箱になって帰ってきた、あなたは天国で母と幸せに暮らしているかしら。

 辛い思い出が残る故郷に帰ってくるのが辛くて、墓参りすら怠った私を許してください。親不孝な娘でごめんなさい。

 でも私もそろそろお迎えが来る頃。それまではあなたたちと過ごした場所で、自分の人生を省みようと思います。

 待っていてください──お父さん。

 


 僕が我に返ると、老婆はやはり苦しげに喘いでいた。

 今の歌声は彼女の口から発せられたものではないだろう。だが、滝のごとく流れ込んでくる強い想いは、たしかに彼女のものだった。

 清々しく、柔らかく、それでいて胸が裂けるほどに苦しげなメロディーに乗せて。

 まるで優しく語りかけるように、まるで慟哭するようにその想いは紡がれていった。

「……お、と、うさ、ん」

 ふと気づいた。よく耳をすませば彼女は、うめき声などあげていない。ただ愛しい家族の姿に思いを馳せ、呼んでいるだけだと。

 軍服に身を包み戦地へ向かう男の大きな背中を追う、ひとりの少女。僕はほんのわずかな時間に、そんな映像を垣間見た気がした。



 気付けば霞んだ空から差し込む、柔らかい日の光に暖かく見守れていた。線路沿いに整列する美しい桜の木から、儚く散り落ちた薄紅色の羽が、吸い寄せられるようにして窓に貼りつく。

 いつの間にか冬から春へと季節は移り変わり、先程の老婆もほかの乗客と同じように、眠ってしまったようだ。

 死んだように固く目を閉じて微動だにしない乗客たち。ほんの数分で変化した窓の外の季節。そして先ほどたしかに体験した、老婆の若かりし日の追憶。

 あまりにも異常な状況を、僕は心のどこかでおかしいと否定しながらも、不思議なことに大して驚きもせず受け入れていた。

 しかし奇妙な静けさには多少の孤独感を覚える。それを紛らわせようと車窓を流れる景色を虚ろな目で眺めていたときだった。

「……なあ」

 突然、すぐ隣から男の子の上擦った声が聞こえた。

 驚いて横を見ると、少し生意気そうな瞳がまっすぐに僕を見つめている。

 ──また、あの歌声が聴こえた。

 どこか懐かしい、清水のように澄み切った女性の声が。先程よりも、確実に近くで。



 ただ 寂しいだけだった

 だいっきらいなんて 

 一生会いたくないなんて  

 嘘に決まってるだろ

 もしできることなら

 もう一度おまえと親友に 

 バカみたいに笑い合える関係に

 戻りたい 戻りたくてたまらないよ

 だから今度こそおまえに伝えるんだ

 ごめん、って──

 

 あいつ、きっと怒ってるよな。

 おれはあいつに酷いことを言って、思い切り殴った。いつもはふざけてばっかのおまえが、ひたすら謝っていたのに。

 今まで一緒にがんばってきたサッカーをおまえが辞めるって聞いて、許せなかった。

 おれはただ寂しかったんだ。ずっとこれからもおまえとサッカーできるって思ってたから。

 前に、おまえはおれのこと親友だって、言ってくれたよな。あのときおれは恥ずかしくて素直になれなかったけど。

 今度こそ、伝える。殴ってごめん、嫌なこと言ってごめん。それから、これからもおまえと親友でいたい──。

 


 男の子の後悔と決意が、熱い想いが。切なく、それでいて力強く歌い上げられる。

 素直になれない彼が不器用なりに、勇気を出して伝えようとする姿が僕の胸を熱くさせた。

 人生の一ページに、彼らの友情は刻まれるんだろう。青春という名において。

 ただ流されるように生きている大人にとってそれは羨ましくもあるのだ。

 心の中でそっと『がんばれ』とだけエールを送る。彼の仲直りが成功しますように、と願って。

 彼といい、老婆の時といい、やはりその胸に秘めた想いを知ると情が移ってしまう。

 面倒ごとには巻き込まれたくない、老婆を見て見ぬふりした自分を今となって少し恥じた。

「……なあ、っつってんだろ」

 彼に呼びかけられて、ようやく我に返る。

「あ、ああ、どうしたの?」

 長い夢から覚めたような心地でまだ意識がはっきりしていない。彼はそんな僕を不審そうに見ていたが、やがて口を開いた。

「ついてきて」

 なんの説明もなくただひとことだけ、彼はぶっきらぼうにそう言って立ち上がる。

 どこに連れて行く気なのだろうか? 僕は首を傾げつつも、持っていた荷物を抱えて言われるがままにあとをついていく。

 そして、それは僕らが隣の車両に一歩踏み入れたときのことだった。



 夜闇の奴は唐突に姿を現した。

 急に視界を遮られ、僕は思わずよろける。全くと言っていいほど、周囲の様子が見えない。前にいたはずの男の子やほかの乗客たちの姿も。

「だ、誰かいますか?」

 手探りで吊革を掴もうと手を伸ばしながら、恐る恐る声を出す。

 すると、意外にも返答は窓の外から返ってきた。

 ──突然、凄まじい爆音が耳を劈いたのだ。

 空にはひとつ、またひとつと打ち上がる、火の花。色とりどりに大輪の花を咲かせては、闇に溶けゆく。

「綺麗……」

 思わずそんなつぶやきが、こぼれ落ちた。

 こんな景色をいつか見た気がする。隣にはよく知っただれかがいて、こう言うのだ。

「綺麗だね」

 はっと目を見開いたその瞬間、ひときわ大きな音をあげて、花が咲く。そして。

 花火の一瞬の輝きによるスポットライトが、揺れる列車に臆することなく凛と佇むひとりの女性を映し出した。

 長く伸ばされた艶やかな黒髪とは対照的な、純白のワンピースを着た彼女を。

 ──僕は、知っている。

佳穂かほ……」

 また、夜空に花が咲く。

 僕と彼女の視線が交錯する──その刹那。

 忘れていた記憶の波が、荒れ狂いながら押し寄せてきた。波にさらわれそうになっている僕に、畳み掛けるようにして彼女は歌う。

 僕の想いを。



  君と夕日の沈む海を眺めて

  君と星の降る夜に願い事をして

  君と古ぼけた列車に乗って旅をして

  僕はただそれだけで幸せだった

  

 君と──佳穂と恋人になってからは、毎日が幸せだった。僕たちはお互いに出かけるのが好きで、よく列車に乗って旅をしては、色々な風景を見に行っていたものだ。


  でも 君は僕を裏切った

  こんなにも僕は君を愛しているのに

  

 だが、ある日僕は偶然にも見てしまった。彼女が別の男と口付けを交わしているところを。

 どうすれば君と一緒にいられる?

 君は僕だけを見ていてくれる?

 

  許さない 君だけは

  たとえこの身滅ぼそうとも

  

 ──ああ、そうか。

 一緒に死ねば、君が最後に見るのは僕の姿だ。そして、これからもずっと一緒にいられる。


  僕は 君を愛している


 君が好きだと言った列車に乗って、ここで僕たちの永遠を誓おう。

 そしてこれからも君とたくさんの景色を見よう。


  狂おしいほどに──

 

 

「次は、千秋楽駅〜千秋楽駅〜」

 再び流れた場違いな車掌のアナウンス。その駅名の意味を、僕はようやく思い出すのだ。

「じゃあね」

 佳穂はそう言って、疲れきった顔を隠そうともせずに小さく微笑む。

 僕はそんな彼女と自分との間に抱えていた鞄を置いた。小さな列車一台ほどなら容易に吹き飛ばすことができる、爆弾という殺戮兵器が入った袋を。

 『ごめん』も『君のせいだ』も、数え切れないほど言ったから。

 僕はただ「じゃあまた」とだけ言って、笑い返す。

 ──その直後、爆音と閃光が走りぬけた。

 君が深紅の花弁を散らしていく。夜空に咲く花のように儚く、美しく。

 そして緋色と紅色の世界にこだまするは、様々な想い。

 〝最期に父に会いたかった〟〝親友にちゃんと謝りたかった〟

 僕が踏みにじって、無理やり壊したたくさんの無念の想いだ。

 ──これは嫉妬に狂った男と狂わせた女の旅。女は乗客たちの物語想いを歌い、男がそれを何度も打ち砕く。

 世紀の大事件を引き起こしたふたりの死してなお果てしなく繰り返される償いの舞台だ。

 そうして、自分が犯したことへの罪悪感に苛まれ続ける。

 確かに僕の願いは叶った。君と永遠に旅を続けるという願いは。

 だが、なぜだろう。涙が溢れてくるのは。


 冬は過ぎ、春も過ぎ、夏はやってくる。だが、僕らの舞台は──千秋楽最終公演を迎えない。

 ──僕らに秋は、やってこない。






 古ぼけた列車の窓から見上げた冬空は、厚い雲で覆われていた。


[完]


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今、果てしない旅路を 夢咲彩凪 @sa_yumesaki

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