至宝『アラカザール』の完成

秋野てくと

本文

 『アラカザール』。

 劇作家ヘンリー・スロウボウ作の悲劇。

 スロウボウ戯曲の中でも屈指の完成度を誇る古典作品だ。


 初演は今から5世紀ほど前。

 初演時の配役は冷血王アラカザール役をミステリア・ジレンポート、恋敵スレイブン役をロバート・ナカムラが好演した。そしてこの公演では主演の二人を含め、劇に登場する総勢14名の登場人物はすべてが王立演劇音楽院の卒業生で構成されていた。


 これは我が国が誇る王立演劇音楽院を愛する、生前のスロウボウの強い意向もあってのことだった。伝説的な公演となった『アラカザール』初演時の空間記録オヴリビアンは、その後、数奇な運命を辿ることになる。


 何を隠そう『アラカザール』初演の空間記録オヴリビアンこそが、歴史上初めて空間記録オヴリビアン演劇の改訂撮影の対象となった公演なのだ。


 きっかけは初演撮影から30年後のこと。

 村娘ナタリーを演じたエミリア・ヨハンナが違法薬物所持の疑いで逮捕された。エミリアは逮捕当時62歳。栄光に泥を塗り、晩節を汚したかつての名優の愚行に人々は悲しんだ。

 エミリアが所属していた芸能プロダクションは契約解除の方針を示し、彼女の過去の出演作品のライブラリも削除されることになった。そして当然ながら、その対象は当時はまだ娯楽として主流だった映画・ドラマに留まらず、空間記録オヴリビアンによる映像作品にも及ぶことになったのだ。


 5世紀前の価値観においても、今日と変わらず違法薬物は重大な社会問題であり、社会的制裁の対象だった。違法薬物は反社会勢力の主な資金源となっているためだ。


 『アラカザール』初演はたしかに非常に素晴らしい映像作品であるが、それでもライブラリ削除は妥当な処置である――そういった意見に対し、待ったをかけた人物がいた。

 それは当時の王立演劇音楽院の学長だった。彼は『アラカザール』初演の歴史的価値は計り知れず、その記録はなんとしても後世に残す必要があると主張した。そのことで、空間記録オヴリビアンの改訂撮影が実行されることになったのだ。


 空間記録オヴリビアンの改訂が理論上可能であることは、その技術が実用化した当初から指摘されていた。役者が演じたアクションに炎や爆発といった特殊効果を乗せた空間記録オヴリビアンは当時の体験型アトラクションの定番だ。映像や音響を上書きすることができるなら、それらを抜いて、別のものを追加する――すなわち、差し替えることも可能なはずだからだ。


 当時の学長はこう主張したのである。

「改訂撮影により『アラカザール』初演からエミリア・ヨハンナの存在を消し、別の役者に差し替える。それならば、ライブラリ削除は免れるはずだ」と。


 ここで遅ればせながら、空間記録オヴリビアンと舞台演劇の関係性について解説するとしよう。


 空間記録素子によって映像効果・音響効果を記録し、映像をホロライトヴィジョンで投影し、立体音響効果によって物理的振動を再現するのが空間記録オヴリビアンシステムの基本骨子だ。実用化当初はローコストかつ臨場感のある特殊撮影効果として、主に映画撮影などに利用されていた空間記録オヴリビアンだが、ホロライトヴィジョンの解像度が徐々に向上するにつれて、空間記録オヴリビアンそのものが映像コンテンツとしての鑑賞に耐えうるものとなっていった。


 映像コンテンツとしての初期の商用利用では、主にアミューズメント施設やテーマパークの体験型アトラクションなどに用いられた。しかしその後の展開として、特に舞台演劇の公演を空間記録オヴリビアンで映像作品として残すことについては、演劇業界は難色を示していた。


「舞台演劇の本質は再現性がないことにある」


 これは当時の演劇業界の主流の考えであり、また、彼らの信仰でもあった。

 生身の人間が、観客の目の前で芝居を演じる。たとえ台本を読み込んで、幾度となく訓練を重ねても、舞台は水物であり、コントロールできる限界が存在する。観客の熱気と、舞台に潜む魔物が奏でる、一度きりのアンサンブル。その軌跡こそが舞台の本質であるという思いは、当時の舞台役者たちを支える矜持プライドだった。

 対して、空間記録オヴリビアンが彼らの生理的嫌悪の対象となったことは想像に難くない。理解はできる。それはさながら、現代の我々が遺体標本技術プラスティネーションによって生前そのままの姿で保管された、美しい人体剥製を見たときに生じる胸のざわつきに近いものかもしれないからだ。


 彼らの信仰はある意味で正鵠を射ていた。

 今から5世紀前の当時ですら、過大な人的コストがかかる舞台演劇は、映画を始めとする映像メディアの後塵を拝していたらしい。苦戦を強いられることもままあったという。そんな中で演劇愛好者が感じていた魅力の一つは、美麗なる舞台芸術の中において、生身の人間が身一つで本物の演技を魅せる、その形態にこそあったからだ。


 そして彼らに一つ計算違いがあったとすれば、舞台演劇が内包するその魅力は、空間記録オヴリビアンが完全な形で保存することができた点にあった。


 世界初の空間記録オヴリビアン演劇は、劇団ファントムのミュージカル「星屑ほどの少女たち」である。この公演が評判となって、舞台演劇の空間記録オヴリビアン公演は世界で一大ブームとなった。


 役者たちが最高のコンディションで、最高の芝居を魅せた本物の舞台。それを劇場というハコを用意するだけで世界のどこでも、何度でも楽しむことができる。

 空間記録オヴリビアン演劇は従来の舞台演劇が抱えていた過大な人的コストを削減しながら、その魅力を余すところなく伝える伝道師となった。


 しかし意外にも、そんなブームの中でも『アラカザール』初演の改訂撮影が決まるまで、他の空間記録オヴリビアン演劇が改訂されることはなかった。

 理由は単純なものだ。こと空間記録オヴリビアン演劇の作品においては、改訂しないことに強い付加価値があったためである。

 空間記録オヴリビアン演劇が売りにしているのは舞台人が血の汗を流して魅せる本物の演技である。故に、編集や改訂という手を入れてしまった途端にその価値は陳腐化してしまうのだ。


 故に当時の王立演劇音楽院・学長が下した『アラカザール』初演の改訂撮影は、まさに苦渋の決断だったと言える。

 空間記録オヴリビアン演劇にとって、改訂撮影は最大の禁忌タブー。その価値が大きく損なわれることは避けられない――それでも、この公演ならば。後世に残すべき価値があるに違いない、当時の学長はそう信じた。


 王立演劇音楽院・碩黎セキレイホール。

 学長を始めとする王立演劇音楽院の関係者たちが見守る中で、ついに改訂撮影がスタートした。村娘ナタリー役には、エミリア・ヨハンナに代わって同じく楽院出身女優であるルビー・ブランドンが抜擢された。劇場に飛び交うホロライトヴィジョンと立体音響が、『アラカザール』初演の空間を再現する。


 冷血王アラカザールの慟哭から舞台の幕は開く。


 30年前に上演された初演のあらすじ通り、ホロライトヴィジョンで投影された役者たちが舞台を進行させていく。

 第2幕の中盤。アラカザールに恋の魔法がかかり、ついに村娘ナタリーの出番が来た。しかしそこにはエミリア・ヨハンナの姿はない。

 代わって、舞台に立つ唯一の人間であるルビー・ブランドンが、30年前に撮影された役者に向かってナタリーを演じた。


 ルビー・ブランドンの演技は、まさに神業だった。


 このようなことがあるだろうか。劇を見守る誰もが彼女の演技に目を奪われた。この公演にかぎっては主演は冷血王アラカザールでも、恋敵スレイブンでもなく、ルビーが演じる村娘ナタリーだった。

 後に語ったところによると、彼女は役者を志した幼少期から、幾度となく『アラカザール』初演の空間記録オヴリビアンを観劇していたそうだ。そして改訂撮影の依頼が入ってからは、空間記録オヴリビアンのデータをレンタルし、ホロライトヴィジョンの中で幾度となく演技を交わしていた。

 そう。信じがたいことだが、ルビー・ブランドンの卓越した演技力と観察力は本番を迎えるにあたって円熟に至り、ついには30年の時を越え、ホロライトヴィジョンの役者たちとの共演を可能としたのだった。


 無理があるのはわかっていた。

 しかし、たとえ質が落ちたとしても、作品そのものを歴史から消してしまうよりはマシである。それが学長の判断だった。よもや、ルビー・ブランドンを加えた『アラカザール』初演が、作品そのものの出来を底上げし、完成度を高めてしまうなどとは夢にも思っていなかったのだ。

 

 予想だにしない結果を目の当たりにした学長は、ここである種の狂気を抱いた。


『アラカザール』初演はもはや改訂撮影を施してしまった。後戻りはできない。それならば、かの聖家族教会サグラダ・ファミリアの如く、『アラカザール』初演を、全ての舞台役者が夢見て改築を続ける、未完成かつ究極の公演に仕立て上げてしまおうと。


 『アラカザール』初演は、こうして王立演劇音楽院の伝説になった。

 それは、究極の舞台を求めて、永遠に改訂され続ける公演。


 出演できるのは王立演劇音楽院の出身であり、かつ、当代の学長・副学長・学部長が全会一致で許可した役者のみ。

 誰もが認めた実力者だけが、その演技を『アラカザール』初演の一部にすることができる。これは舞台役者にとって、この上ない名誉とされた。

 舞台『アラカザール』の登場人物は総勢14名のみ。

 そしてその14名という枠は絶えずその名を更新されながら、役者たちは歴史に名を刻むことができる権利を賭けてその座を奪い合うのだ。


 そして初演から5世紀が立った現在。

 数奇な運命を経て、ついに『アラカザール』初演が完成するときがきた。


 舞台を見守りながら、当代の学長は感慨に肩を震わせていた。

 この瞬間を、王立演劇音楽院・学長として迎えることができることを誇りに思うと。5世紀ものあいだ、初演以来一度も交代することがなかった唯一の配役がついに入れ替わる。これは歴史的な事件だ。


 ミステリア・ジレンポートに代わり冷血王アラカザール役を拝命するのは、学長の教え子でもあるトビー・ベンジャミン・オズボーンだ。


 トビーはその人生を『アラカザール』に捧げるために育てられた。

 学長がトビーを初めて見たときに、それが彼の宿命だと察したからだ。

 トビー以外に、冷血王アラカザールを演じることができる者などいない。


 満員の観客の中、王立演劇音楽院・碩黎セキレイホールの中心にトビー・ベンジャミン・オズボーン――冷血王アラカザールは立った。

 舞台に屹立した彼の姿を見て、観客が息を呑むのが伝わる。


 ミステリア・ジレンポート以外に5世紀ものあいだ、アラカザールを演じることができる役者が現れなかった理由。それは、彼の人並外れた長身にあった。『アラカザール』初演時、長身のミステリアに目線を合わせるため、共演した役者たちは皆一様に上目遣いで演じることになった。そのため、彼同様の長身を持つ役者でなければ、共演者たちの目線が合わず、舞台が成立しないのだ。

 アラカザール役以外の役者を総入れ替えする機会があれば解決したかもしれないが、残念ながら『アラカザール』初演の舞台に立てるほどの才覚の持ち主が複数人同時に現れることはなかった。


 このことは長年のあいだ王立演劇音楽院の学長を悩ませた、『アラカザール』初演の完成度を高めるために越えるべきハードルだった。しかし、今日、トビー・ベンジャミン・オズボーンという――ミステリア・ジレンポート同様の人並み外れた体躯を与えられた――類まれな資質を持つ才能の出現によって、これまでにない最高の出来の『アラカザール』が完成することになった。


 舞台演劇の世界に輝く『アラカザール』初演という伝説の舞台。

 歴代の王立演劇音楽院が磨き続けた世界で一つだけの至宝に、輝かしい1ページが加わる。たとえ完成には程遠くても、まだまだこの舞台は進み続けるのだ。


 劇場に弦楽器を再現した音響が鳴り響く。照明がアラカザールを照らす。声一つも漏らすまいと静まりかえる観客たち。

 舞台の上では『アラカザール』初演の空間記録オヴリビアンが展開し、ホロライトヴィジョンが荘厳な舞台美術を描いていく。


 開幕だ。

 冷血王アラカザールの慟哭から、舞台の幕は開く。




「ああ。なんと、このような皮肉な末路が来ようとは!」




 その数日後。


 『アラカザール』原作者ヘンリー・スロウボウの生前の手記が発見された。

 手記の記録により、彼は悪質な児童買春の常習犯だったことが明らかになり――彼の著作は、その映像化作品にいたるまで、当局の手によって一つ残らずライブラリから削除されることになった。

 無論、『アラカザール』にまつわる空間記録オヴリビアンも例外ではなく。


 究極の舞台を求めて、永遠に更新され続ける聖家族教会サグラダ・ファミリア

 しかし、もはやこの舞台が公演されることはない。


 5世紀ものあいだ磨き続けられた至宝は、こうして完成を迎えたのだ。

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