狂気の世界─赤ずきん─
腹が減った。銀色に輝く月を見上げながら、彼はぼんやりと考えた。一ヶ月ぶりの狩りの夜だ。今夜は若くて柔らかな肉に思いきりかぶりつきたい。ほとばしった鮮血で喉の渇きを潤して。まだぬるい内臓をじっくり舐め上げるのだ。
森から村へ続く小道を歩いていくと、一人の少女がたたずんでいた。彼好みの若さと肌つやだった。この喉笛を牙で貫いたら、彼女は最期にどんな声をあげるのだろう。彼は思わず舌なめずりをしそうになるのをこらえた。代わりに優しい声色で話しかけた。
「こんばんは、可愛いずきんのお嬢ちゃん。こんな時間になにをしてるんだい?」
赤いずきんをかぶった少女は、彼に怯える様子もなく答えた。
「こんばんは、オオカミさん。おばあさんの家にお見舞いを届けにいく途中だったんだけど、お花を摘んでたら遅くなってしまったの」
「それはたいへんだ。よければ俺も一緒に、おばあさんの家についていこう」
「まあ、本当? 一人で心細かったの。とっても嬉しいわ」
少女は無邪気に喜び、彼を疑うことなく承諾した。
彼は少女の隣を歩きながら、いつその肌に牙を突き立ててやろうか考えた。少女ははじめて会う彼のことをすっかり信用しているらしい。親に彼のような生き物の話をされなかったのだろうか。いずれにせよ彼にとっては好都合。愛らしい丸い瞳が恐怖に見開くさまは、きっと最高に美しいに違いない。
森の奥へ向かうこと数十分。彼はご馳走にありつけるのを、今か今かと待ち望んだ。
やがて少女の祖母の家が見えた。しかし様子がおかしい。これだけあたりが暗いというのに、明かりがついていない。少女は祖母が病気だと言っていたが、孫が向かっている最中、しかもなかなかやって来ない状況で、早々に床につくだろうか?
彼の鼻がひくりと反応した。嫌な予感がする。彼はとっさに前をいく少女を呼び止めた。
「おい、お嬢ちゃん」
しかし遅かった。少女は小さく「ひっ」と悲鳴を上げ、その場にへたり込んだ。
どうやら彼の想像は当たっていたようだ。家の前には、血だまりとわずかな肉片が残っている。そばには少女の祖母が着ていたのだろう、寝間着が血まみれになって落ちていた。そして少し離れたところには、立派な毛皮のオオカミが、銃で撃たれて死んでいた。彼はそれを見て身震いした。
少女は呆然として、祖母ともわからない肉片を見つめた。予期せぬ展開に、彼もなんと言ってやればいいのかわからなかった。無防備に背中を見せる少女に食らいつくチャンスだと、彼の中の本能が語りかける。しかしわずかに顔をのぞかせた理性が、彼を抑えつけた。もうあと数時間で夜が明ける。そうすれば少女と一緒に村に戻り、他の人間を連れて来られるだろう。
「なあ、お嬢ちゃん」
彼が再び少女に声をかけた次の瞬間、なにかが破裂するような音がした。彼が振り向くと、彼のすぐ側にあった木の枝が、ぽきりと折れて地面に落ちた。少女がまたもや悲鳴を上げる。彼は反射的に少女の前に立った。
「おまえ、狩人か……?」
木の向こうにいるのだろう人間に声をかけたが、返事はない。そのかわりにカチャッという音が響いた。
ドン、と二回目の銃声。そこから放たれた銃弾は、彼の肩を貫いた。痛みと怒りで咆哮を上げる。彼は霞む視界で、狩人を見た。知らない男だった。少なくとも、村にいた狩人とは別人だ。それに様子がおかしい。彼の方を見ているはずなのに、その瞳はずいぶん遠くを見つめているような、意識だけが別にいってしまっているような、奇妙な表情だった。
狩人が至近距離から狙いを定めてくる。彼はゾッとしながらも、少女からゆっくり離れた。狩人の狙いは彼だけだった。むしろ、少女の存在に気づいているかさえ定かではない。
ごくりとつばを飲む。身体中から汗が吹き出し、心臓が早鐘を打つ。
やめろ、やめろ、やめてくれ。俺は、俺は人間だ。朝がくればわかる。やめてくれ。殺すな。頼む、許してくれ。俺はまだなにもしていない。だって俺は人間で、だから、お願いだ、やめ──
──ぶつん。
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