おまけ 六呂の日記

「ろくろ、みる」


蛇ノ目は枯れた地面に咲く白い花を指さした。この花は乾燥に強いようだ。だが、この命もすぐに果ててしまうだろう。


「それは花、というんだ。食用ではないから食べられないよ」

「いきる?」

「ああ、生きているさ。花も草も、木も、みんな生きている」


蛇ノ目は腰の水筒から手の平に水を出し、それをかけた。突然の行動に驚いてしまう。


「いきる、蛇ノ目もろくろも、はなも……おなじ」


まだ語彙の乏しい蛇ノ目では、自分の考えを全て伝えることは出来ない。だが、野生で生きてきた彼の中で、何か確固たる決まりがあるのだろう。彼は、無意味な殺生はしない。襲われた時、今日生きていく食事が必要な時。彼は生態系というものを、今まで生きた時間でしっかり学んでいたようだ。


与えた水がさほど多くはなかったのも、水は彼にとっても重要なものだったからだ。花が生きられる最低限を、彼は与えた。



2日後、花は枯れた。頭を地面につけるほど傾け、風に煽られる。蛇ノ目はその花を摘み、口に含んだ。


「蛇ノ目、それは食べられないよ」


そう言っても、蛇ノ目は喉を動かし、花を飲み込んだ。


「はな、えもの、しぬ、たべる」


単語で話す蛇ノ目にも慣れたものだ。どうやら蛇ノ目は花は自分の獲物で、死んだから食べる。そう言いたいようだ。あの時水をやったのは、自分の獲物だと示すためだったのか。


そうか、蛇ノ目にとっては獣であれ花であれ、それが生きていたのなら、自分が獲物と考えたのであれば同じく自分の糧となるものなんだ。


「蛇ノ目、君はまだ私を食べたいかい?」


初めて会った時、蛇ノ目に襲われたことを思い出した。彼は確実に私を食べようとしていた。


「ろくろ、くいもの、ちがう」


何気ないその答えに安堵した。こうして過ごしていても、寝ている間に、背を向けた瞬間に襲われるのではないかと何度も思っていた。蛇ノ目に襲われれば、私なんて1分とかからずに死んでしまうだろう。



蛇ノ目は言葉がたどたどしいことを除けば、存外、人間らしい。朝はくーという異形の様子を見てから活動する。腹を満たせば、眠気と戦う。虹を見た時には、無邪気な子供のように目を輝かせる。その力と野性味から、彼の存在を異質なものとして捉えていたが、彼の近くで過ごしていると、ものを知らないただの子供のように思えてきた。


私の感覚がおかしくなってしまったのか。それはわからないが、蛇ノ目と過ごす時間は私が死ぬまで与えられた、密かな楽しみなのだろう。



アオーンという、鳴き声が、静かな夜にこだました。どうやら狼の群れが近くにいるらしい。こういう時は火を炊き、狼がこちらに来ないことを祈る。1度、死にかけたことがあったが、家の屋根に登り、松明や石をなげつけた。その時は、諦め去ってくれたが、彼らは私のことを忘れていないだろう。ガタリと音が聞こえた。音の主は蛇ノ目。いつの間に私の家へ来たのだろうか。


「蛇ノ目、今夜は危険だ。少し高い所へ……」


言葉を途切れさせる。蛇ノ目のランランとした目が視界に入ったからだ。月の光が反射して、彼の目が鋭い光を帯びる。彼には狼たちが見えているのだろうか。月明かりの先の見通せないこの夜に。


「ろくろ、ここ、いる」

「ここにいればいいのかい?」

「くー、いっしょ、おおかみ、いく」


予想通り、彼は狼を追い払いに行くようだ。鋭い牙を持つ狼、武器も持たないただの人間。どちらが強いかなんて明白なくせに、蛇ノ目は大丈夫だと確信していた。


家の屋根に上がり、蛇ノ目たちの様子を見ていた。群れでやってくる狼を何の躊躇いもなく倒していく。キャンっと高い声が聞こえてくる。狼は恐ろしい獣だった。しかし、蛇ノ目たちの方が恐ろしく、獰猛な獣に見えた。


その手が、足がまるで演舞のように空を切った。あれは人ではない。そう確信するのだった。





「はい、今日はここまでだね」

「ん」


手首近くまで彫り進め、じっくりと墨を入れた。黒い墨しかないのが悔しい。きっと蛇ノ目にはもっと派手な色が似合う。そう、血のような赤とか。


蛇ノ目はすでに肌に馴染んだ左腕の墨をべろりと舐める。


「美味しいかい?」

「ない」

「まぁそうだろうね」


味はないが、匂いは好きなようだ。高い鼻を腕に合わせ、すんっと音を立てて墨を嗅いだ。


「蛇ノ目、君はいつまでここにいてくれるんだい?」


彼がいるこの状況を私は幸せだと思う。1人で死ぬと孤独だけが感情を支配していたあの頃に、もう戻りたくないと毎日思うのだ。

蛇ノ目は私の問いかけには答えず、じっと見つめたままだ。彼の思考は読みにくい。何を考え、何をしたいのか、本能だけで動くならまだ獣と同じように関われる。しかし、彼は時々人らしさを見せる。



「私は君がどうしようと文句は言わないよ、君のしたいようにするといい」





ある日のこと、その日は朝から蛇ノ目の姿が見えなかった。ついに出ていったのか、少し寂しいな。準備していた入れ墨の道具をしまい、また1人かと自嘲気味に笑った。


夜が深くなった頃、私の家のドアが軋む音を響かせた。夜の冷たい風と共に入ってきたのはやはり蛇ノ目だった。


「蛇ノ目、どこに行っていたんだい?」

「ろくろ、これ、つかう」


蛇ノ目が差し出したのは5粒ほどの赤い木の実だ。それは入れ墨の染料に使う木の実。蛇ノ目には教えたことがないはずだが……


「まさか、この前嗅いでいた瓶から?」


もう中身がなくなってしまった、色つきの墨の瓶をこの前蛇ノ目に見せた。彼はそれを覗き、私には感じられない匂いをしつこく嗅ぎ取っていた。もしかすると、蛇ノ目はその匂いを覚え、辿り、これを持ってきたのではないだろうか。

この量では大きな墨を彫ることは出来ないが、小さな柄は入れることが出来る。


「今からやるかい?」


私の提案に、彼はすぐに頷いた。



蝋燭の朧気な灯りを頼りに、蛇ノ目の右胸に小さく彼岸花を彫った。もし、彼が私の元を去った時、私が彼の元を去った時、少しでも私のことを思い出してくれるよう願いを込めた。


「蛇ノ目、君は私を覚えていてくれるかい?」

「ろくろ、おぼえる、せんぶ」


そうだ、彼は教えたことを全部覚えてくれる。何度も繰り返し、無邪気に吸収していく。これは、いらぬ心配のようだ。


「蛇ノ目、君と会えなくなるのは、きっとすごく悲しいね」

「かな、しい?」

「ああ、きっと悲しくて仕方がない」









死期を悟るのは、思ったよりも簡単で、案外受け入れられるものだ。なんの後悔もない。蛇ノ目との別れも、しっかりと行うことが出来た。死後の世界を見られるなら、彼がこれからどんな生き方をしていくのか、見てみたい。


蛇ノ目が去っていく。命の音が遠のいていく。彼との時間が終わるのは悲しい。だが不思議と寂しくはなかった。

親子とも友達とも違う彼との時間を、妻と息子にどう話そう。


満ち足りた気持ちで私は意識を手放した。





――父さん

――あなた


ああ、懐かしい声がする。



――蛇ノ目さんは町を出たよ

――不思議な子だったわね


そうなんだ。彼との時間はとても楽しかったよ



――たくさん聞かせてくれる?

――なら、お茶を用意しましょ


きっとすごく時間がかかってしまうよ。彼との時間は、驚くことばかりだったから



小さな温かな手と、細く優しい手に導かれるまま、久しぶりに家族で肩を並べたのだった。

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狂人スパイラル どん @waka-1024

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