恋に落ちる音

内山 すみれ

恋に落ちる音


 生まれた時、人間は絶対音感を持って生まれ、成長する過程でその素晴らしい感性は失われてしまうらしい。勿体ないな、と思った。私はその感性を残しておきたかった。電車の揺れる音や、風に誘われて動く木々の音。その音一つをとっても色々なことを感じられるような、そんな感性溢れる人間になりたかった。三十路手前の女にはもう無理なのかもしれないが。

 洒落たジャズが店内を流れる。大きな声で話す客もおらず、隠れ家のような喫茶店。私はここがお気に入りだ。世話焼きのマスターが時折話しかけてくることはあるが、マスターの人の良さ故かそれも気にならなかった。ここにいると気持ちが穏やかになる。何もかも忘れられる、そんな気がした。

 休日はゆっくりしようと喫茶店に足を運ぶと、店内で演奏会があることを知った。なんでも、店のマスターの知り合いにピアニストがいるのだが、脚光を浴びることなく燻っているらしい。そこでマスターが練習も兼ねてここで練習するのはどうかと提案したのだという。生のピアノ演奏を聴くなんていつぶりだろう。私は密かな楽しみを胸にその日を待った。






 弾むように、遊ぶように音が私の鼓膜を揺らす。その人は肌に優しく触れるように、鍵盤に指を這わせる。もち肌のように柔らかく指に吸い付くような音に、思わず撫でたくなるような心地を覚える。柔らかく滑らかで艶のある、深々とした音は一夜で私を魅了したのだった。

 それから私は、彼、『三浦 真琴』の演奏会がある日があると必ず喫茶店を訪れた。彼の奏でる音が私の鼓膜を撫でる度に、私はうっとりと聴き入った。彼の音色はステンドグラスのような鮮やかさや繊細さ、ベルベットのような柔らかさだけでなく、力強さがあった。どの音も私の心を鷲掴みにし、楽しませてくれた。演奏会の夜は満たされた気持ちで眠ることが出来る。彼の音色は私の生きる活力になっていた。






「花ちゃん、この後空いてる?」


 演奏会が終わって余韻に浸っていた時、マスターが声をかけてきた。演奏会の後は予定を入れないようにしており、今日もそれは例外ではなかった。それはマスターにも以前話していたことだし、今日わざわざそれを確認するのには何かあるのかもしれない。


「予定はないですが……マスター、何かあるんですか?」

「いや、俺が何かあるんじゃないんだよ。この後食事でもどうかなと思ってね。君と真琴くん二人でさ」

「えっ」


 それは突然の誘いだった。世話焼きのマスターは私の聴き入りように恋と勘違いしたのだろうか。


「真琴くんは先にレストランに向かったよ」

「えっ、いやあの、三浦さんは断らなかったのですか?」

「勿論!さ、早く行っておいで。真琴くんを待たせていいのかい?」


 全く、お節介焼きのマスターだ。私は三浦さんを待たせてはいけないと思い、指定されたレストランに走り出した。






 息を切らして辿り着いたのは、洒落たレストランだった。流石マスター。センスがいい。なんてこと今は思っている場合ではない。私は息を整え、意を決してドアを開けた。

 店員に案内された場所は、夜景の見える席だった。その席で夜景を眺めていたのは三浦さんだった。私に気付いた三浦さんがこちらを向いた。


「……あ、あの、初めまして」

「喫茶店の外で会うのは初めてですね。初めまして。三浦 真琴です」

「ええ、存じております……」


 私の言葉に柔和に笑うのは、繊細な音楽を奏でるピアニストというよりも好青年の顔だった。私は向かいに座って、一先ず水を飲んだ。渇いた喉を冷たい水が流れる。けれど喉の渇きは止まらない。演奏会の後に個人的に二人で話す、というステップを飛び越え先に食事をすることになってしまったのだ。緊張するのも無理はないと思う。今度会ったらお節介焼きのマスターに一言文句でも言ってやろう。そう思っていると、目の前の三浦さんが口を開けた。


「……マスターのこと、怒っていますか?」


 自分の気持ちを読まれてしまったのか。私はあわてて口を隠す。そんな私に三浦さんは笑って髪を触る。その笑みは、私にではなく自分自身に笑っているようだった。


「……実は、食事をセッティングしたのはマスターではなく僕なんです」

「えっ?!」


 私は驚きのあまり声を出してしまった。思いがけず大きな声を出してしまったので、私は再び両手で口を隠した。三浦さんはそんな私を見て笑う。どことなく嬉しそうな顔をしていた。


「演奏会、いつも来ていただいてありがとうございます」


 三浦さんは深々と頭を下げた。


「そ、そんな!頭を上げてください。私が好きで来ているので……」


 言葉にすると恥ずかしい言葉だ。私はそう言葉にしながら、恥ずかしさに俯いた。顔を上げた三浦さんと、俯いた私の目が合う。はは、と誤魔化すように笑う私に三浦さんは人の良さそうな笑顔を返してきた。


「嬉しいです。演奏会を始めた時は自分の実力に落ち込んでいた時期だったので……」

「そうだったんですね」

「ええ。ですが今は大好きなピアノで演奏会をするのが楽しみなんです」


 三浦さんは目を泳がせて、それから真っ直ぐに私を捉える。


「……あなたのおかげなんです」

「……私、ですか?」

「あなたが私の演奏を聴き入ってくれるのが、とても嬉しくて。私の奏でる音色に合わせて楽しそうに身体を揺らすあなたを見ていたら、その……」


 三浦さんの頬が徐々に赤みを帯びてゆく。


「……ピアノみたいだな、と思って……」


 演奏会では見せることのない赤面した顔。その顔を見た時、どこかで音が聞こえた。恋に落ちるって、こういう音なのかもしれない。私はつられて頬が熱くなるのを感じた。


Fin.

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