腐れたる草

 突然決まってしまった結婚を、親友にどう打ち明けたらいいか。

 茶葉が十分蒸らされるのを待ちながら、もやもやと思考を巡らせる。

 私は紅茶を淹れるのが大好きだ。ティータイムの準備をしている時間は、心を無にして、清らかな気持ちで作業ができる。

 しかし、さすがに今日ばかりはそういうわけにもいかなかった。

 八重樫真尋――彼女は高校以来の親友で、8年間ともに暮らしてきたルームメイトである。さらさらストレートの黒髪ロングヘアーに、身長が高くスタイルがいい。黙って無表情でいると人から怖がられたりすることもあるけれど、話が上手で面白くて、笑顔がとってもかわいい素敵な女の子だ。

 そして実を言うと、私にとって真尋は『初恋の人』でもあったりする。

 熱湯が注がれたガラス製のポットの中を、茶葉たちがふわふわとたゆたっている。茶葉がよくジャンピングするのは、茶葉と水が新鮮である証拠だ。

 ふわふわ、ゆらゆら――。

 その様子を眺めながら、私は真尋と出会ったばかりの頃のことを思い返していた。


 ***


「八重樫さん。それ、なんの本読んでるの?」

「……別に。なんでもいいでしょ」

 これが私と真尋の、(恐らく)初めての会話である。

 もしかしたら一年生の頃に道ですれ違ったり、体育祭の騎馬戦で紅白帽を奪い合ったりしたこともあるのかもしれないが、少なくとも互いの顔と名前を認識してからは初めてだ。

 ……この時点で真尋が、私の顔と名前をきちんと認識してくれていたのかどうかは定かではないが。

 私は高校二年生のときに真尋と同じクラスになったのだが、当時の真尋はというと、誰に対しても必要最低限の事務的な会話しか交わさず、仲良くなろうという姿勢は皆無。クラス外に友だちがいる様子もなく、休み時間はいつも一人で読書……。当然、クラスメイトたちもそんな彼女に対してあからさまな敵意は向けないまでも、常に一定の距離感を保ち続けるいわゆる『腫れもの扱い』な状態だった。

 私は出席番号の関係上、真尋のすぐ前の席だったのだが、彼女は私にとって非常に気になる存在で、あえて周囲を拒絶し孤独を選ぶ真尋のミステリアスさや格好よさに、正直心惹かれていた。自分が持っていないものを、彼女はきっと持っているに違いない――そんな風に感じていたと思う。

 そんな私が彼女と仲良くなりたいと考えたのは必然だった。……というわけで話しかけたはいいもののしょっぱなから完全に塩対応をされてしまったわけだが、そこは私こと、諦めの悪い女――本宮ほのか。

「八重樫さん、おはよう。今日はいい天気だね?」

「八重樫さん、今日の数学の小テスト予習してきた?」

「八重樫さん、お昼ごはんは何食べたの?」

 この調子で、真尋の席が私のすぐ後ろなのをいいことに、登校時から下校時までずっと懲りずに話しかけまくっていた。

 すると、ある日の下校時に。

「八重樫さん、一緒に帰ろう?」

 いつものようにそう話しかけると、また無視されるかと思いきや、真尋はこちらを振り返ってきた。

「……本宮さん、だっけ」

「覚えててくれたんだ、嬉しいな」

「私の親のこと、誰かに聞いたりした?」

「……聞こうとしたわけじゃないけど」

「それで、一人でいる私をかわいそうとでも思った?」

 真尋は両親が離婚していて、それで東京から母親の実家のあるこの町へ引っ越してきたということについては、偶然友人から聞いて知ってしまっていた。

 しかし、それがきっかけで真尋と仲良くなりたいと思ったわけじゃない。まして、かわいそうだと思ったから、ということは断じてない。

「私はただ、八重樫さんとお話がしてみたい、って思っただけだよ」

「迷惑なの。私、別に一人でいるの苦じゃないから。……もう話しかけてこないで」

 真尋は吐き捨てるようにそう告げると、私に背を向けてさっさと歩きだしてしまった。

 初めて真尋の口から、私に向けて発せられた明らかな拒絶の言葉。

 ……しかしこの一言によって私は諦めるどころか、逆にがぜんやる気を出してしまったわけである。好きの反対は無関心。無視され続けるよりかは、なにか反応してくれただけでも一歩前進、というわけだ。

 それからも、相変わらず顔を合わせる度に話しかけてくる私の諦めの悪さに真尋は明らかにウンザリしていたが、やがて無視するのにも疲れてしまったのか、徐々に言葉を返してくれるようになった。話しかけられる言葉を無視し続けるというのも、逆にストレスになるものだ。

 それから、テニスの授業でペアを組んだり、お昼休みに一緒にご飯を食べるようになったり、勉強を教えてもらったり、私の友だちとひと悶着あったり……そういったことを通じて徐々に真尋と私はどんどん距離を縮めていったのだが、そこらへんの話はいったん省略しよう。

 

 そうして迎えた6月の、とある日。

 私は親と喧嘩して、家出をした。

 あの頃はかつてないほどに両親の仲が悪く、一つ同じ屋根の下で暮らしているというのに一切口も利かないという有り様だった。

 私はそんな家にいることに嫌気が差し、溜まった怒りや不満をぶちまけて、勢いで家を飛び出してきてしまったのである。

 既に外は真っ暗だし、夕飯を食べ損ねてしまったのでお腹も空いている。家を出たはいいものの、行き先を決めていたわけでもなく、とぼとぼ通学路を歩きながらどうしたものかと思案していたとき、ぽんと思い浮かんできたのが真尋の顔だった。

 そのころ私たちは既に「ほのか」「真尋」と名前で呼び合う仲になっていて、携帯の電話番号も交換していたのだが、互いの家には行ったことがなかった。

 それでも真尋なら、私の行き場のない感情を受け止めてくれるような、そんな気がした。

 私は携帯を取り出して、真尋の番号へと電話をかけた。

 

「いらっしゃい。……上がって」

 突然の来訪にもかかわらず、真尋は快く私を受け入れてくれた。

 真尋の住む家は瓦ぶき屋根の古ぼけた木造一戸建てだ。家も土地もそれなりに広いが、今は真尋と母親と祖父母の四人だけで暮らしているということだったので、だいぶ持て余してしまっているようだった。

 玄関へあがり、廊下を歩くと、床板がところどころギシギシと音を立てた。家の中は静かで物音ひとつ聞こえてこないが、当然この広い家のどこかの部屋に真尋のご家族もいるのだろう。

 私はまず客間に通された。こじんまりとした和室の中央にちゃぶ台が置いてあり、その手前の座布団へ座るように促される。

「足、崩しなよ。私しかいないんだし」

「……うん」

 そう提案されて、素直に足を崩す。正直言うと、慣れていない正座はツラいなぁと思っていたところだったのだ。一方目の前の真尋は、背筋がピンと伸びたキレイな正座で、悔しいけど誰がどう見ても私より真尋のほうが断然大人に見える。家事を手伝っていると聞くし、来客の対応なんかもやったりして慣れているんだろうか――なんて想像する。

「ごめんね。突然押しかけちゃって」

「全然いいよ。それより、迎えに行けなくて悪かったね」

「そこまではさすがに申し訳ないよ!ごはん食べてたところだったんでしょ」

「まぁね。あ、そういえば夕飯って食べてきた?」

「……食べて、ない」

 お腹に手を当てて、目を逸らす私。嘘をつこうかとも思ったが、腹の虫が鳴って結局バレるとかっていう展開にでもなったらあまりに恥ずかしいので、それはやめておいた。

「本当?それじゃお腹すいたでしょ。ちょっと待ってて」

「い、いや!大丈夫だよ!私が勝手に食べてこなかっただけだし、それはさすがに申し訳なさすぎるっていうか……」

「いいよ、いいよ。どうせ残り物だしさ。ほら、ついてきて」

 奥の部屋へと向かう真尋についていくと、そこには六人掛けの椅子が並んだ食卓があり、さらにその奥は台所になっていて、まだ料理が入っているであろうお鍋がそのままコンロの上に置いてある。

「ほのかが来るって聞いて、ごはん食べるかどうかわからなかったから、一応残しといてよかったよ」

 真尋はそう言って台所に立ち、鍋に火をかける。

 料理ができることは知っていたが、家族の分まで全部真尋が作っているのだろうか?女子高生にしてそれはちょっとすごすぎる。

 食卓について待っていると、ほどなくして私の前に温め直された料理が配膳される。

 かぼちゃの煮物、ほうれん草の胡麻和え、そして白米とお味噌汁。純和風でヘルシーな食事内容だ。

「召し上がれ。量が少なくてごめん」

「おお……とんでもない!こんなご馳走いただけるなんて、ありがたすぎるよ。いただきます!」

 両手を合わせて、食事を始める。

「うーん、かぼちゃが甘くておいしいね!料理は全部真尋が作ってるの?」

「それはどうも。おばあちゃんと一緒に作ってるから、全部ではないかな」

 真尋が私の正面に座ったので、私は食事を進めながら、真尋と会話をかわす。

「へぇ……家事はどこまでやってるの?」

「おばあちゃんと分担しながらだけど、ほぼほぼ全部。料理、掃除、洗濯、ゴミ出し、買い物……もうほとんど主婦だよ」

「そ、それめちゃくちゃ大変じゃない?お母さんはどうしてるの?」

「お母さんは……仕事が夜勤だから生活タイミングがあまり被らないのもけど、ほとんど家事はやらないかな。離婚する前はもちろんやってたけど、こっちきてからはなんか抜け殻みたい」

「そっか……」

 母親のことを『抜け殻みたい』と語る真尋に対して、私はかける言葉が見当たらなかった。

 学生でありながら、専業主婦並に家事をこなして遊ぶ暇もない生活……とても私には真似できそうもない。

 自分の抱えている悩みが、急にちっぽけなことのように思えた。

「……ほのかの家族はどんな感じなの?あまりそういう話、普段はしないけど」

 少し重くなった空気を取り繕うかのように、真尋は明るい調子で問いかけてくる。

「うち?うちはお父さん、お母さん、私、弟の四人家族で……お父さんはふざけてばっかりいて面白いけど、よくお母さんに叱られてる。お母さんは普段は優しいんだけど、怒るとすっごく怖いんだ」

 実はその両親と喧嘩をして、家出をしてきているわけだが……一旦その話は置いておく。

「弟は三つ下だから今中学2年生なんだけど、既に私よりしっかりしてるかな」

「あー……なんか想像つくかも。姉がダメだと弟はしっかり者になるとか」

「誰がダメな姉だってー?……まぁ、確かに叱られる頻度は弟よりも高いんだけどさ」

「弟とは仲いいの?」

「前は結構二人で遊んだりしてたけど、互いに進学してからは全然。恥ずかしいのかな?思春期の男子って面倒くさいね。しかも最近は色気づいちゃってさ、こないだなんか……」

 家族の話をしているうちに、場の空気が和んでいくのを感じる。

 家が嫌で家出してきたのに、家の話をしているというのも、なんだか不思議だった。

 そうしているうちに、いつの間にか食事は終わっていた。

「ごちそうさまでした。はー、おいしかった」

「お粗末さまでした。食器もらうね」

「あ、そっち持っていくよ」

 食器類はそのまま流しに放置される。恐らくは後で真尋が自分で洗うのだろう。洗いものを増やしてしまって申し訳ないな……なんて考えていたら、真尋が口を開く。

「じゃ、私の部屋、行こうか」

 当たり前のようにそう言うので、少しドキリとしてしまう。

「え。う、うん」

 真尋の部屋……どんな内装なんだろう。本が多そうだとは思うが……私の部屋とは全然違うことだけは確かだ。女同士なのに、部屋に行くだけで妙にドキドキするのは、そのミステリアスさからだろうか。

「階段急だから、足元気をつけてね」

 狭くて急な階段を昇り終えて2階に着くと、廊下の左側、突き当たり、右側にそれぞれドアがある。真尋は右側のドアを開けて、部屋に入っていく。

「どうぞ」

 真尋に続いてドアをくぐりぬける。

 私の部屋と大して変わらない広さの洋室だ。壁紙やフローリングはところどころ劣化しているようだが、掃除は行き届いていて無駄なものもなく、清潔感がある。

 そしてとにかく圧倒されるのは、本の量だ。本棚には既にギッシリ本が詰まっているが、入りきっていない分が床に直置きされている。机の上にも、テーブルの上にも本がある。本の虫とは、こういう人のことを言うのだろう。

 自分の部屋の風景を思い返してみる。比較すると、とても同じ女子高生の部屋とは思えなかった。

「本がいっぱいある……なんか、大人のひとの部屋みたいだね」

「うち、昔から結構厳しくてさ。漫画もゲームもダメで、本なら買ってもらえるから本ばっかり。あとは少ないお小遣い使って自分で買った本も一応あるけど……これとか、これとかね」

 真尋は本棚にある本をいくつか指でトントンと指し示す。

「あ、これ。こないだ話してた本だよね」

「そうそう、グロいやつ。読んでみる?」

「うーん、真尋の説明だけでお腹いっぱいかな……これ読んだら一生モツ食べれなくなりそう」

「あっはっは。美味しいじゃん、モツ」

 真尋の笑顔に、ドキリとしてしまう。

 最近真尋は、私と2人きりのときだけなら笑顔を見せてくれるようになった。

 それは友だちとして距離を縮めることができたということで、非常に喜ばしいことなのだが、その笑顔を見る度になぜか胸が高鳴って、謎のときめきを感じてしまう私がいた。

 思わず、真尋から目を逸らす。

 勉強机の上を見ると、本や参考書だけでなくCDラジカセも置いてあった。

「ラジカセ、あるんだね。音楽とか聴くの?」

「音楽は、うちにもともとあるカセットとかCDを聴くぐらいで、流行りのは全然。ラジオを聴くことのほうが多いかな、勉強しながら流してたり」

「へぇー、ラジオかぁ。どういう番組が好きなの?」

「なんでも聴くよ。バラエティに、音楽番組、ラジオドラマとか……お笑い芸人が深夜にやってる番組も聴いたりするし」

「えー!真尋がお笑いのラジオ聴くなんて、めっちゃ意外……」

「テレビは見ないから、ネタは全然知らないんだけどね。深夜番組って少し大人の世界って感じがして、好きだな」

 大人……か。私は両親の顔を思い出して、少しブルーな気持ちになる。

「コーヒー淹れてくるから、ここ座って待ってて」

 真尋はそう言って微笑むと、私を座布団に座らせてまた部屋を出ていき、淹れたてのコーヒーを両手に持って帰ってきた。

 コーヒーも、大人の味だ。私はまだ子どもだから、砂糖とミルクが必要。真尋はちょっぴり大人だから、ミルクだけでいいらしい。

 私たちはローテーブルを挟んで向かい合わせになって、コーヒーを啜る。

 部屋の中にコーヒーを啜る音と、互いの呼吸音だけが響いていて、会話はなくとも全然気まずくなかった。心地いい沈黙をやぶって、真尋が口を開く。

「2人で遊べるようなゲームとか全然なくて、つまらない部屋で申し訳ないけどさ。気が済むまで、うちにいていいから」

 そう言って、真尋は私を見つめてくる。

 真尋はなぜ私が家出したのかを訊いてこない。

 きっと、私が自分で話し出すタイミングを待ってくれているのだ。

 真尋の優しさが、身に沁みる。そしてその優しさに、もう少し甘えてみたくなってしまう。

「大人になんか、なりたくないな」

 ぽつりとそうつぶやくと、真尋は意外そうな顔だ。

「……そうなの?」

 私は何も言わずに、コクリと頷く。

「真尋はどう?」

 真尋はコーヒーをひと啜りしてから答える。

「私は、早く大人になりたい。大人になって、自分の力で生きていけるようになって……この家を出たい」

 真尋はコップの中でゆらゆらと波打つコーヒーを見つめている。

 自由になりたい。

 私以上に親の都合に振り回されて、この家に縛り付けられている真尋にとって、それは悲痛な願いだ。

 人付き合いが苦手で、不器用ながらも心優しい、大切な友人の助けになりたい。

 しかし私に、何ができるだろう。

 真尋と比べたら、幼稚な子どもでしかない私に。

 沈黙の中、そろそろコーヒーを飲み終わってしまうなぁ、なんて思っていた頃。

 真尋が急になにかを思いついたように、口を開いた。

「そうだ。せっかくだし、ほのかに見せたいものがあるんだけど」

「えっ。う、うん」

 突然の申し出に戸惑いながらも、なんとか返事をする。

 『見せたいもの』……なんだろう。

 有名人のサインとか?

 いや、真尋のことだからそういう俗物的なものではない気がする。

「じゃあ、行こうか。ついてきて」

 真尋は空になったコップを持って、立ち上がる。

 どうやら『見せたいもの』は、この部屋の中にはないらしい。

 狭苦しい階段を再び下って一階へと降りると、真尋はコップを片付けたと思ったら玄関へ歩いていき、靴を履き始める。

「え、外行くの?」

「うん。大丈夫、そんなに遠いわけじゃないから」

「なんなの?『見せたいもの』って」

「それはまだ秘密。サプライズってやつ」

 真尋は意味深な微笑みを浮かべて、懐中電灯を手に取り、玄関の引き戸をそっと開ける。

 まさか外に出るなんて……余計に訳が分からなくなってきた。

 こんな夜に外に出ても、何も見えないと思うのだが……。

 不安を覚えつつも、私もスニーカーを両足へ装着して、真尋の後に続く。

 真尋の家は、正面は道路に面しているがすぐ裏は山で、鬱蒼とした森が広がっている。

 その真っ暗な木々の中へと向かっていく真尋。

「ちょ、ちょっと。山の中入るの?大丈夫?」

「うん。ここ、うちの山だし。道はそんなに険しくないけど、足元暗いから気をつけて」

 当惑する私をよそに、真尋はズンズン森の中へ入っていってしまう。

 こんな暗い夜の闇の中、置いてけぼりにされてしまってはたまらない。慌てて真尋を追いかける。

 山へと一歩足を踏み入れれば、そこからは完全に道なき道だ。

 あまり背の高い草は生えていないし、傾斜はゆるやかなのだが、あちこちに木の根っこが張っているわ、油断していると木の枝に頭をぶつけそうになるわで、なかなかハイキングのように歩いてはいけない。

 何よりも、うちから真尋の家までの道のりでは、月明かりと街灯でかろうじて周囲の風景くらいはぼんやり視認できたのだが、森の中は木々によって月光が遮られて完全な暗闇になってしまっている。真尋が足元を懐中電灯で照らしてくれてはいるものの、なんとかついていくのに必死で、一瞬たりとも気が抜けない。

 今日はスカートにサンダルじゃなくて、動きやすいクロップドパンツにスニーカーというスタイルで本当によかった。まぁ、さすがにそうじゃなかったら真尋もこんな山の中へ入っていこうなんて言わないだろうけども。

 真尋は慣れているのか、木々の間を抜けて難なく歩いていく。読書好きで、インドア派のイメージがあったから、その姿は少し意外だった。

 急に立ち止まり、パッとこちらを振り向く真尋。

「ここから先は少し傾斜がきつくなるから」

 そう言って、私に向かって左手を差し出してくる。

 その手を取ると、私の手のひらをギュッと握りしめて、また歩き出す。

 他の女の子たちとは普通に友だち同士のノリで、手を繋いで歩いたりはする。けど、真尋と手を繋いだのは初めてだ。目的地も知らされぬまま暗い山道を歩かされている緊張感も相まって、なんだかドキドキしてしまう。これが、吊り橋効果というやつだろうか。

 私一人だったら、こんな真っ暗な山道を歩いてはいけない。真尋のことがとても頼もしく感じられた。

 私たちは手を繋いだまま、何もしゃべらずに黙って山の中を歩き続けた。

 やがてそのまましばらく経ち、少し傾斜のきつい場所を何箇所か乗り越えた頃。

 真尋が立ち止まり、こちらを振り返って言う。

「そろそろだよ。ほら、聞こえてくるでしょ」

 私は耳を澄ます。なにやら液体が流れているような音が聞こえてくる。

「水の音が……川があるの?」

 真尋はまた、口元に笑みを浮かべる。

「さぁ、行こう。もうすぐそこだから」

 真尋に手を引っぱられて、茂みへと入っていく。

 上半身は半袖のTシャツなので、露出した肌に枝や葉が当たるのを我慢して茂みを抜けると、そこは開けた場所になっていた。

 私は思わず息を呑んだ。

 その場所には細い沢がちょろちょろと流れていて、そして沢のほとりに生い茂った長い草の周囲を、無数の小さな光たちが飛び交い、葉にとまり、明滅していた。

 真尋は懐中電灯の明かりを消す。ここは月明かりも届くので、じっくり見ればなんとか足元くらいは確認できる。

「ね、すごいでしょ。ここ、穴場なんだ」

 真尋は私の手を引いて、沢へ向かって歩き出す。

 光の群れに近づくと、そのうちの一つが私に向かってゆっくりと飛んでくる。

 その光は静かな羽音を立てて、ゆっくりカーブを描いてまた別の草へと飛び移った。

 ホタルだ。

 無数のホタルたちの光が、星々のようにこの沢の周辺に広がっている。

「すごい……」

 光のそばへと近づいてみると、そこには指先くらいの小さな虫がじっと葉にとまっていて、お尻の先をゆっくり光らせては、暗くしてを繰り返していた。

 私はため息を漏らす。

 真尋が私に『見せたいもの』とは、ホタルのことだったのか。

 真尋は私のそばにしゃがみ込んで、じっと沢のほうを眺めている。

 私も屈みこんで、真尋と同じ目線になってみる。

 そこからは長い草の隙間から、暗闇を流れる沢の様子を観察することができる。

 川のせせらぎ。遠くからは蛙と虫の声。

 じっと葉にとまって明滅を繰り返したり、光を放ちながら沢の上を飛び回って、葉から葉へと飛び移ったりしているホタルの群れ。

 そして、夜空にぽっかりと浮かぶまん丸なお月さまと、ホタル以上に数限りなく夜空に広がっている無数の星々。

 それはあまりにも幻想的な光景だった。

「自分で見つけたんだよ、ここ。去年の夏にね。一人になりたいときには、よくここに来てホタルを眺めてる。……誰にも教えてない、私だけの秘密の場所」

 真尋の横顔を見る。

 家でもひとり。学校でもひとり。

 孤独を抱えて夜の森をさまよいながら、この場所にたどりついたのだろうか。

 この光景を眺めながら、一人現実逃避をしている真尋の姿を想像すると、涙が出てきてしまいそうだった。

 無理やりに笑顔を作って、真尋へ語りかける。

「よかったの?私に教えちゃって。秘密の場所なんでしょ」

「ほのかだけは特別。……友だち、だからさ」

 真尋は照れくさそうに、沢のほうを眺めたまま苦笑いを浮かべる。

 真尋が私のことを『友だち』と呼んでくれること。

 真尋にとって大切な、自分だけの特別な場所に、招待してくれたこと。

 真尋が一人きりでホタルを眺めていたこの場所で、こうして二人並んでホタルを眺めていること。

 そういったことすべてが私にとって、とても嬉しくて、暖かくて、素敵でたまらない。

 今こうして二人でいる時間が、光り輝く宝もののように尊く思えた。

 静かにホタルを眺めていると、真尋が口を開いた。

「『腐れたる草、蛍と為る』……って、知ってる?」

「えっ。な、なにそれ?」

 不意を突かれて、ついどもってしまう。

「七十二候の一つだよ」

「しちじゅうにこう……?」

 私の頭の上に大きなクエスチョンマークが浮かんでいるのを察して、真尋が解説を始める。

「昔の人がね、一年間をざっくりと72個の季節に分けたんだよ。それが七十二候。ほら、『春分』とか『立秋』とかってあるでしょ?」

「あー、それは聞いたことある。それが七十二候なの?」

「いや、『春分』とかは一年間を24個の季節に分けた二十四節気の一つで、それを更に三分割ずつしたのが七十二候」

「へぇー……24×3で、72ね」

「で、その七十二候のうち、大体6月10日から15日くらいの時期を指して、『腐草為蛍(くされたるくさほたるとなる)』っていうのがあるんだ。昔の人はホタルを見て、枯れた草が蒸らされてホタルに変化するって信じてたらしい」

「えっ何それ……ファンタジックすぎない?さすがに本気でそんなこと信じてたわけじゃないでしょ?」

「それが結構、江戸時代くらいまでは大マジメにそう思ってたみたいだよ」

「ふーん……」

 植物が昆虫に変化するなんて、あり得ない話だ。

 だけど目の前に広がる、この現実味のない風景を眺めていると……昔の人たちがそんなことを信じていたのも理解できるような気がする。

 光を放つ生物なんて、自然界にはそうそういない。

 なにか特別な方法で発生している特殊な生き物だと考えても、不思議ではない。

「……でも実際には、ただの虫なんでしょ?」

「うん。普通に幼虫は川の中にいて、芋虫っぽい見た目で、カワニナを食べて育つ」

「カワニナ?」

「巻貝だよ、タニシみたいなやつ」

「タニシかぁ……じゃあ正しくは『食べられたるタニシ、蛍と為る』と」

「いや、カワニナだって」

 私たちは沢のほとりで、声を潜めておしゃべりをする。

 誰かに見つかる可能性はほとんどなくとも、なぜだか大きい声を出すのは憚られた。

 一息ついてから、真尋がまたゆっくりと話し出す。

「それでさ、人の想いや魂をホタルに見立てて詠まれた古い和歌がいくつかあるんだ。『物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る』……とか」

「えーと……どういう意味?」

「『物思いにふけって悩んでいると、沢にいるホタルも、私の身体を離れて浮遊する魂かのように見える』……って感じかな。この場合の物思いってのは、恋心のことだと思うけど」

「へぇ……腐った草がホタルになるとか、恋心がホタルに宿るとか、昔の人は想像力豊かだねぇ」

 それにしても、どうして真尋はホタルに関する迷信のことやら、ホタルの生態やら、色んなことを知っているんだろう……やっぱり、同じ女子高生とは思えない。

 そんな私の考えを見透かしたかのように、真尋は照れくさそうに笑って言う。

「ま、私もこの場所を見つけてからホタルに興味を持って、図書館の本とかインターネットでいろいろ調べて勉強しただけなんだけどね」

 なるほど。謙遜もあるだろうけど、さすがに真尋でも最初から物知りではないということだ。

 それでも、自分で興味を持った事柄についてきちんと調べて、その内容がきちんと頭に入って理解できているという時点で、やっぱり真尋はすごい。

 感心しながら真尋の横顔を眺めていると、真尋がまた口を開く。

「でね……私もここでホタルを眺めながら、このホタルたちみたいに自由に飛び回れたら……って、よく空想するんだ。ホタルの成虫は一週間くらいしか寿命がないんだけど、それでもあんなに輝いて、沢の上へ飛び上がれる翅がある。私はホタルが羨ましい。一生川の中は、嫌だもの」

  ゆっくりと、静かに響く真尋の声からは、その奥に秘められた力強い意志を感じられた。

 水面のほうを見つめている真尋の瞳に、ホタルの光が映っているのがかすかに見える。

 自らの意思で望んで、この町に来たわけではない。

 あの家に一人で縛り付けられている、孤独な女の子。

 あなたの力になってあげたい。

「ありがとう」

「え?」

「ここは、真尋にとってすごく大事な場所なんだね。そういうところに案内してくれて、どうもありがとう」

「……どういたしまして」

 真尋に向かって微笑みかけると、真尋も笑みを返してくれる。

 その笑顔に、またドキリ。

 2人きりでホタルを眺めているというシチュエーションも相まって、妙にドキドキしてしまう。

 他の女の子と遊んでいるときに、こうして微笑みあうだけで鼓動が早まって、頬が熱くなることはない。

 この感情はなんなのだろう?

 また、真尋から目を逸らしてしまう。

 不意に、すぐそばの草から飛んできた一匹のホタルが私の目の前へ躍り出てくる。

 思わず右手を差し出すと、ゆらゆら飛んできたホタルは私の人さし指の先にとまった。

「わぁ……かわいい!」

「すごいね、指にとまるのはレアだよ」

 指先にとまったホタルは、ゆっくりとしたリズムで明滅を繰り返している。

 光っては、暗くなり、また光っては、また暗くなる。

 こんなちっぽけな虫が発しているとは思えないほど、その光は力強い。

 ホタルを顔の前に近づけて眺めていると、隣にいた真尋もホタルを見るため、顔を近づけてくる。

 ……近い。

 思わず、ホタルを眺める真尋の横顔を細やかに観察してしまう。

 まっすぐ伸びた美しい、長い黒髪。

 ホタルを見つめるとび色の瞳と、長い睫毛。

 私と違って日に焼けていない、透き通った肌。

 そんな真尋の横顔が月明かりとホタルの光に照らされて、暗闇の中に浮かんでいる。

 綺麗だ。

「綺麗だね」

 急に真尋がそう呟いて、心臓が飛び出そうになる。

「そ、そうだね」

 慌てて、真尋に同意する。

 正直に言えば、ホタルよりも真尋の横顔のほうに見とれていたのだが……そんなこと言えるわけがない。

 血液が顔にのぼってきて、自分が赤面していることがわかる。

 一拍置いて、真尋がまた口を開いた。

「このホタルは、ほのかの想いなのかな」

 そういえば昔の人は、自分の想いや恋心が、ホタルの形になって飛び回るような空想をしていたらしいなんてことを話していたっけ。

 ――恋。

 ふいに、その言葉が私の胸にすとん、と落ちてきた。

 他の女の子と違うのは、なぜ?

 真尋の部屋に行く。真尋と手を繋ぐ。真尋とホタルを眺める。

 そのすべてが、ドキドキして、ワクワクして、恥ずかしくて、ちょっぴり胸が苦しくて、だけどどうしようもなく心惹かれてしまうのは、なぜ?

 ああ、そうか。単純なことだったんだ。

 私は真尋のことが、好きなんだ。

「すき……」

「え?」

 真尋がきょとんとした目で私を見る。

 慌てて、撤回する。

「す、すてき。素敵だね」

「ああ……そうだね」

 なんとか、ごまかせた。ほっと胸をなでおろす。

 だけど、バクバクと鼓動する胸の高鳴りは止まらない。

 というか、止められない。

 私はどうやら、友だちに恋をしてしまったらしい。

 それも、女の子の――。

 

 それから、また真尋と手を繋いで八重樫家の前へ戻ってくるまで、私はドキドキしっぱなしだった。真尋の顔を見るのもできないくらいに。

「泊まっていってもよかったのに」

「一応、親も心配してると思うし……明日は学校休みだけど、真尋も忙しいだろうし」

「まぁ、家事くらいだけどね。それなら次来たときはお泊まりしよう」

 ……正直に言うと、このまま真尋の部屋で一緒にお泊まりなんてしたら、とても私の心臓が持ちそうもなかったので、お断りしたという事情もあるのだが。

「その……今日はホントにありがとう。楽しかった」

「私も、遊びにきてくれて嬉しかったよ。いつでもまた来て」

「うん。……じゃあ、また学校で。おやすみ」

「じゃあね。おやすみ、ほのか」

 真尋とまともに目を合わせられないまま、かろうじてお別れをして、帰路に就こうとしたとき。

「あ、ほのか。ちょっと待って」

 突然、真尋が私の上腕を掴んで、ぐいと引っ張ってきた。

 そして、私のほうへ顔を近づけてくる。

「え、あ、その」

 頭が真っ白になる。

 まさかそんな。

 いきなり、そんなことをするわけが。

 だけど、一度それを想像してしまったが最後。

 もはや完全に何も考えられなくなってしまい、訳もわからず真尋の手を振り払って、夜の闇へと走り出す。

「あ、ほのか……」

 後ろで真尋が何か言っているのが微かに聞こえてくるが、もはや聞き取れない。

 月明かりに照らされた夜道を、走る。走る。走る。

 数分間走り続けて、やがて息も切れてきて、走りは歩きになり、そのうち立ち止まる。

「はぁ、はぁ、はぁ……。はぁーーーーー……」

 自己嫌悪のため息を吐き出す。

 何をやっているんだ、私は。

 いきなりキスなんてされるわけがないのに。

 思わず気が動転して、真尋の手を振り払ってその場から逃げ出してしまった。

 あんなことをされたんじゃ、真尋もびっくりしただろう。

 いきなり押しかけた私をせっかく招き入れてくれたのに、本当に申し訳ない。

 後でちゃんと謝っておかないと。

 それにしても、これから学校でどんな風に真尋と接していけばいいのだろう。

 まともに目も合わせられないような、こんな状態で友だちとしてやっていけるだろうか。

「……はぁ」

 今度は、さっきよりやや小さめのため息が出る。

 まさか悩みが増えてしまうことになるなんて。

 恋。

 自分のなかでまだ生まれたばかりの、脆く繊細で敏感なその感情の扱いに戸惑いながら、夜道を再びとぼとぼと歩き出す。

 森のほうを見つめると、木々の合間にホタルの光のようなものが、すーっと浮かんで消えたような……そんな気がした。

 

 ***

 

 月明かりの下。

 一人取り残された私は、その場で呆然と立ち尽くしていた。

 夜の闇の中を、ほのかは走り去っていってしまった。

 

 ほのかから突然の連絡を受けたとき、私は最初驚きこそしたものの、正直のところ嬉しかった。

 ほのかが私を頼ってくれている。その事実だけで、心が弾んだ。

 いつも学校では、私はほのかを頼ってばかりだから。

 だから、できる限りのおもてなしをしてあげた。

 夕飯をご馳走したり、私の趣味を紹介したり、コーヒーを飲んでまったりしたり。

 家出をしてきたということだから、恐らくほのかは家族のことで悩んでいたんだろう。

 だけど、それはほのかが自主的に私に話してくれるまでは、こちらから尋ねるのはやめようと思った。

 人によっては、冷たいと思うかもしれない。

 だけどもし私がほのかの立場だったら、そのほうがありがたいだろうな、と思ったから、そうした。

 それが正解だったのかどうかは、私にはわからない。

 でも、それなりには元気を取り戻してくれたように見えた。

 ホタルを見せるために山を登ったのは、『ちょっとさすがにやりすぎかな』と不安にもなったが、結果的にはかなり喜んでくれているように見えたので、これも成功だったかな、と思う。

 普段はしないような、ちょっぴり恥ずかしい空想の話もした。

 確かに、私たちの仲は深まったように感じた。

 

「……仲良くなれたと、思ったんだけどな」

 だけど、どこで間違えたのか。

 距離を縮めることができたということ自体が勘違いだったのか。

 調子に乗って、距離感を間違えたのか。

 ほのかの首筋に虫刺されがあったから、痒み止めを塗ってあげたほうがいいかなと思って腕をつかんで呼び止めたら、その手を振り払い、走って逃げ出してしまうなんて。

 腕を掴んだあと、虫刺されの状態を確認するために、いきなり首筋を覗こうとしたのがよくなかったのかもしれない。

 私の顔は不健康で陰気くさい。子どもからはオバケと間違えられて泣かれることもある。

 別に子どもに好かれたいとも思わないから別にそれはどうでもいいのだが、暗闇で急に顔を近づけたことで、ほのかに恐怖を与えてしまったのかも。

 それとも……そもそも仲良くなれたということ自体が勘違いで、ほのかは私に気を遣って、無理して楽しんでいるフリをしてくれていたのだろうか。

 そうは思いたくない……のだが、あの拒絶っぷりを見てしまうと、それもあながち……。

「……はぁ」

 私はため息をつく。

 これからほのかと学校でどんな風に接していけばいいのだろうか。

 一向に答えの出なそうな悩みを抱えながら、私は自宅の玄関に向かってとぼとぼと歩き出した。

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真尋とほのか てばさき @teba_saki

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