第48話 エピローグ
「井田、起きろ。起きてこっちに来い」
それがどんなに優しい呼び掛けだったとしても、それがそのまま寝ていても構わないという言葉でも、この声に井田と呼ばれれば、この自分の身体はどんな状況でも自動的に反応する。かつてはそれが自慢だったこともある。
それまでガッツリと気絶していた井田は、心臓に針でも刺されたかのように上半身を跳ね起こした。意識が覚醒したのはその少し後だ。途端に右の肋骨が悲鳴を上げる。何本か折れているのがわかる。顔をしかめると今度は顔の右半分が鰐に噛まれたかのように痛い。ほかにも身体のあちこちが軋む。相当こっぴどくやられたらしい。
「井田、こっちだ」
ハッとして辺りを見回す。
倉庫内の奥では崩れた積み荷が山となり、そこら中に中身の金属加工された細かい部品が散らばっている。
階段の手摺が妙な形に曲がっている。
東崎をこの倉庫に攫って来るのに使ったワンボックスカーがない。
後からここに乗り込んで来たセダンも見当たらない。
竜神会の四天王がいたはずだが奴らの姿も見えない。
あれからここで何が起きた。
不意にたった今「こっちに来い」と言った声の主が竜神会の若頭の長谷川の声だったことに気が付いて蒼褪める。
上体を捻って振り返る。地面に手を着くとべっとりとペンキのような液体がねばりついた。
「こっちだ」
声を失った。ズルズルと尻を引きずって後退すると自分が血だまりの中にいたことに気付く。そして傍に長谷川が横たわっている。だいぶ向こうの方からその体を引きずってきた後が見られる。
長谷川が身に着けている白いジャンパースーツはそこに広がる夥しい量の血でどす黒く染まっていた。
その血だまりの中心にある頭部に、横たわる身体から伸びている両の腕がしきりに何かを掻き集めている。井田には頭部から流れ出た血を掻き集めているようにしか見えない。ただしその動きは極めて緩慢だ。やけに不器用に見えるのは顔面が血だまりの中に突っ伏しているからに違いない。
強烈な生臭さと獣臭が混ざったような臭いが井田の鼻を突く。
よく見ると長谷川の頭部は明らかに原形をとどめていない。破裂したような側頭部から崩れた豆腐のような脳梁や髄液が溢れるように露出している。人間はこんなになっても生きていられるものなのか。
もぞもぞと動き回る長谷川の腕が、こっちにも伸びてきそうで、井田は四つん這いになってその場からの離脱を試みる。
すでに凝固しかけている血だまりの上で、井田は膝が滑って思うように前に進めない。滑る。滑る。滑って血だまりの中を泳ぐ。右足が戻ってこない。見ると足首が長谷川の手に捕まっている。もう片方の膝が踏ん張りを失って滑る。血だまりの中に胸が投げ出される。
足首を掴んだ手の力はそんなに力強くはなかった。
「榊、カミオカ覚えておけよ……」
間違えないでください。俺は井田です。
喉が引き攣って声が出ない。必死になって掴まれた足首を振り払う。ぬるりとした感触の後に足が自由になる。返り見た井田は目を瞠った。
穴の開いた側頭部を手で押さえた血だらけの長谷川が半身を起こしている。
「お前の頭をよこせ」
井田はその場に卒倒した。
Double Soul 鈴木真二 @suzumiya269
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます