再びの海

 わたしは岬に立っている。ずっと。


 海は凪ぎ、波立ち、また凪ぐことを繰り返す。

 日が昇り沈む。

 月が昇り沈む。

 星が昇り回転して降る。

 ここは永遠の海岸線、果てのないみぎわだ。


 遠くでひとつ灯台の明かりが消えた。

 やがて別の場所に新しく明かりが灯る。

 日が沈めばあちこちの灯台から細い光が沖へと投げかけられる。


 何度この光景を繰り返し見ただろう。

 いつから見ているかも、もう判然としない。

 船を降りてここに立った時から、わたしは一歩も動いていない。


 わたしが谷で乗った船には名前があった。

 船に吸い込まれて渡し守となった瞬間から到着までの間、その名だけがたった一つ頼りにできる糸だった。

 私が翼を与えた死者の船、そこに組み込まれたが求める魂の名。

 わたしたちの船が目指すべき岬の名。


 天へ駆け昇り、その岬に船をもやって魂たちをみんな降ろしたあと、空になった船はわたしと船匠に、船体は砕けて海に降り注いだ。

 墜ちていく玉骨石の瓦礫の中からひとり、最後に岬に降りた見知らぬ船匠は、灯台の下に立っていた誰かの方へと歩いていった。それが船の名の人だとわたしは知っている。


 その後のことは見ていない。

 わたしは瓦礫とともに一度海に沈み、それからまた浮かび上がって、おそらく別の岬と灯台のある場所に立っていた。


 そして今まで、立ち尽くしている。

 はるか遠くの水平線から今しも船影が現れないかと、棒のように立っている。

 何を待っているのか分かるけれど分からない。

 わたしは、かつての『わたし』を読み出せずにいる。

 きっと、その時が来るまでは思い出せないのだろう。

 船に吸い込まれたあのときより前のことがわたしには分からない。

 すべてが散り散りになっている。

 灯台。

 岬。

 海。

 船。

 名前。

 船匠。

 魂。

 森。

 靴。

 去来する言葉に意味があるのかどうかも、分からない。




 やがて巨大な翼を広げた舟が、遠い海からやってくる。

 その甲板に溢れんばかりに死者たちの魂を乗せ、船体は傷つき、翼は大きな羽が抜け落ちいたんでいる。

 それでも。

 船は呼んでいる。

 目指すべき岬の名、船となった船匠が、たった一つ、生前の人生から持ってくることができた名を。


 それがわたしには、聞こえる。

 わたしを呼んでいる。

 わたしは大きく手を振る。

 船はやってくる。


 わたしの手はきっとちぎれてしまう。

 でも、あの人も身体を砕き石になり、船となってここまできた。

 わたしたちは、ここまできた。

 長い、長い時間をかけて。


 巨大な船が岬につけられる。誰もいないのにもやわれ、何本もの舷梯が降りてきて、満載の魂たちが雪崩れるように出てくる。

 そうして最後に空になった船は双翼と船匠に分かれ、船体は砕けて海に降り注いだ。

 墜ちていく玉骨石の瓦礫の中からひとり、最後に岬に降りた船匠が、こちらを見て手を振った。

 笑っているようだった。

 笑っている、ということばをわたしは思い出した。

 ああ、わたしはこれを前にも見た。別のどこかで。

 その人は、船の人は、歩いてくる。わたしの方へ。わたしと灯台の方へ――いいえ、わたしが灯台であって、わたしが遥か無限の海へ細々とした光を送り続けていた。


 向こうでは、巨船が砕け瓦礫となって海に吸い込まれていく。

 あの中にきっとがいるのだろう。ここまで飛び続け、役目を終え船と別れて、ついに自分の片割れを待ち始めるはずの渡し守が。新しい灯台が。


 気付いたときには、船の人が目の前にいた。

 もう仮面をつけていない、とやっと気付く。

 それから、懐かしい声がする。


春風イェフタ。どうして泣く?」


「だって、」


 だってわたし、とても、とても長く待っていたのだもの。


 わたしは思い出した。

 あなたを。

 私の記憶を。

 私の名前を。

 あなたの名前を。

 すべてを。


「ねえ。あなた、わたしを何と呼んだの」


春風イェフタ


「わたしの名前、覚えていたの」


「忘れたりしない」


「わたしは、あなたを置いてずいぶん早く死んだじゃないの。病気を隠してあなたを騙して、あなたをひどい目に遭わせたでしょう? わたしのことなんか、忘れたいのではないかと思ったの」


「忘れたりしないよ。だからここまで来た。春風イェフタ、お前も、僕を見つけてくれただろう。死鬼になっても。

 姿かたちが影の煙に変わっても、僕が履かせた靴をずっと履いていた」


 そう、木炭色のこの布靴は、棺に寝かされるわたしの足に、あなたが最後に履かせてくれた。

 この靴でなければわたしはきっと、谷へ降りることはできなかった。

 わたしたちは、お互いの記憶がないまま、一緒に船を作った。

 覚えていなくてもずっと、一緒だった。

 それが嬉しい。

 沁みるように、溶けるように、嬉しい。


 海上に船の姿はすでにない。

 私はもう、船を探して光を放つことはない。


 今ここで、手を触れ合ったら、抱き合ったらわたしたちはどうなるのだろうか。

 その瞬間砕けて消えるのかもしれない、それでも構わない。

 ここまで来たのだから。

 やっと、やっと会えたのだから。


 世界ごと崩れて滅びるのだとしても。


 わたしは手を伸ばす。

 もう何も怖くない。

 そして、懐かしい恋人の名を呼んだ。


 



 


《了》

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玉骨の翼 鍋島小骨 @alphecca_

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