6.

「なあんて、もったいぶって言うのもなんだな。もちろん、幽玄ゆうげん静謐せいひつ悠久ゆうきゅうも、まさにの言葉でありがたみがある。だけど、結局はここに行き着くんだよ、俺的には。鬼が出そうだ! それが一番しっくりくるんだ」


 本当、単純だよな。ガキみたいだと笑う東條とうじょうに、繭子まゆこはふるふると首を振った。嬉しかったのだ。すぐ近くに東條を感じられるようで、たまらなく嬉しかった。お偉い大先生なんかじゃない、いや、大先生ではある。だけど東條は東條だった。笑ったり叫んだり大忙しで、探究心が凄まじくて、それでいて繭子たちのことも絶対に放ってはおかず一緒に連れて行ってくれる。そばにいていいんだと言ってもらえた気がして、繭子は胸が熱くなる。


「なあ、繭子、さっきの話だけど……」

「さっき……ああ、浦島太郎が鶴になった話ですか?」

「そう。あれ、どう思う?」

「そうですね……ちょっと救われました。だってひとりぼっちの太郎って、悲しすぎますもん」


 繭子の答えに東條が喉の奥で笑った。


「確かにな。これでもかの長寿でお一人様は辛いよな」


 ひとしきり笑った後、東條は繭子を覗き込み、大きく息を吸った。


「あの話には色々と解釈がある。その一つが、あれは壮大なラブストーリーだと言うものだ。鶴と亀の結びつきは、一度本気で愛しあった者どうしは、たとえ見た目が変わったとしてもまた巡りあえるのだというメッセージ。想い合うものは、時を超えても結ばれると言うことだな」


 まさか東條の口から、愛やら恋やらが出てくるとは予想もしていなかった。繭子は、まるで自分が告白されたかのように息も絶え絶えになる。東條は、そんな繭子をまっすぐに見たまま話を続けた。


「時を超えるもの。鬼と化したものの想いも同じだ。喜びか悲しきはさておき、それだけの想い。ただの昔話ではなく、時を超えた浪漫ろまん。だからかな。続いてこの風景を写真で見たとき、俺にはそれが違う何かに見えたんだ。無意識に、悠久の時に繋がる何かを探したんだな。そしてそれが何かは、繭子の見せてくれたモノクロームの世界の中で完結した。だけど……」

「だけど?」


 繭子が思わずおうむ返しする。東條がまた少し、繭子との距離を縮めた。


「俺はやっぱり俗物ぞくぶつだ。鬼を追いかけてその時間に惚れてはいるものの、自分の時間はまた別なんだ。あのモノクロームの世界は最高に良かった。でも、ちょっとばかし色気が欲しいと思ったんだよ。なんたって、ここには繭子がいるんだからな」

「え?」


 東條が何を言わんとしているのか、繭子にはちっともわからなかった。けれど東條は満足そうで、空を見上げて呟いた。


「そろそろか……うまくいってくれよ」

「?」


 ますます意味がわからず、繭子は心底困った。それを見て、東條が苦笑する。


「ごめんごめん。意味不明だよな。繭子、こういう天候時には、太陽の屈折と雲の乱反射である現象が起きる。色が混じり合うんだ。頭上の青空と、地上すれすれの夕焼けが混ざり合う。さらに、雲が擦りガラスみたいになっているから、それが空一面に広がる。青に赤をにじませたらどうなる?」

「紫、ですか?」

「ああ、そうだな。紫の雲がかかると言う一節を読んだ時、俺は、想いが混じり合ったんだって思った。二つの想いがね。乙姫おとひめと太郎の想いだよ。二人は両想いだったんだなあって。紫は一方通行ではない、絡まり続ける何かだ」


 東條の言葉が終わるか終わらないかのうちに、空の色が変わり始めた。厚い雲の向こうに沈みゆく太陽。二人の前に広がる瀬戸はその反対にあったけれど、だからこそ色彩はさらに柔らかなものとなる。


「あっ!」


 繭子は小さく声をあげた。無彩色の中に落とされた一滴。淡い紫が広がっていく。それはごくごくわずかなものだ。前もって東條に説明されていなければ見逃してしまうほどの。けれどそれはまごうことなくそこに存在した。繭子はたまらずため息を洩らした。


「綺麗……。先生、こんなに綺麗なもの初めて見ました。悠久の時の中に広がる想いですね……」

「ああ、そうだな。血の通った想いだ。小さいけれどそこにあって、かけがえのないものだ」


 わずかな紫はそれでも一瞬、空を覆った。えもいわれぬ高貴な香りに満たされたかのような時間。空が、世界が震えたような気がして、繭子は息を飲んだ。


「繭子、俺は鶴にはなれないし、君も亀ではない」

「……当たり前です」

 

 突然何を言い出すのかと繭子は驚いたけれど、同時に何かが近づいてくる予感にとらわれた。東條が、握っていた手の上にもう一つの手を重ねた。


「だけど、気持ちは一緒だ」

「え?」

「この悠久の中に刻めるなら、この気持ちを俺も残しておきたい。好きな人と過ごす喜びは、言葉では表せないからな」


 繭子は大きく目を見開いたまま、答えることができなかった。


「まあ、鶴でも亀でもなくてよかったと思ってるよ。人だから、俺たちには手がある」


 東條が重ねた両手を引き寄せた。


「繭子、繭子はどうなんだ? これは俺の独り言になったりするのか?」


 繭子は答える代わりに首を横に振った。東條の香りが一段と強くなる。もう隣りなんかではない、胸の中だ。良かった、と頭上で大きな息がこぼれ、繭子は東條の熱に包まれた。


「先生はずるいです。先生はやっぱり鬼……」

「はあ? 甘い乙姫のラブロマンスはやっぱり痛かったか?」

「いいえ、そうではなくて……。鬼の方がもっとしっくりくるってことです。ずるくて賢くて、人の手には負えない。悠久の時の中に我が物顔で君臨して、相手を翻弄ほんろうするんです」

「それは……褒められてるのか? 繭子は俺に翻弄されてる、のか?」


 繭子が真っ赤になった顔を上げれば、そこにはなんとも不安そうな表情を見せる東條がいた。教壇で鋭く切り込んでくる東條でもなければ、ゼミ室で羽を伸ばして軽口を叩く東條でもない。鬼かと思うほどに美しい男が、小さくなって愛を乞う姿。繭子は言いつのらずにはいられなかった。


「決まってるじゃないですか。翻弄されまくりです。いつだっていつだって……。私は先生に追いつきたいって、そればっかり思ってるんですから!」

「繭子!」


 紫が溶け、やがて深い青に包み込まれていく。闇が世界を支配する少し手前、二つの影は重なって揺れた。無彩色の昼が、いつしかさらなる黒の領域へと進出し、鬼の暗躍する時間へと誘われる。


「じゃあ、鬼も取材しに行かないとな。女木島はあれか?」

「先生……ここからは見えませんよ。いくつ島があると思ってるんです」


 腕の中の繭子に教えられ、東條がそれはそれは愉快そうに笑った。


「この海では知らないことだらけだな。繭子が先生だ。じゃあ次は鬼の住む洞窟へ行こう。そこからまた瀬戸内海を見よう。島の上から、繭子が見た銀盤の瀬戸を見よう」


 その言葉に繭子は微笑んだ。小さくてもいい、東條に分け与えられるものがある喜びに、その胸は震えんばかりだった。海上に点り始めた灯をバックに、東條の青い瞳が鬼火のように揺らめくのを、繭子はいつまでもいつまでも、飽きることなく見つめた。





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墨色の瀬戸には青い鬼が出る クララ @cciel

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