5.

「ッ! 先生!」


 繭子まゆこはたまらず悲鳴じみた声をあげた。車から降りて歩き始めた途端、東條とうじょうが繭子の手を握ったのだ。


「うん? 腕の方がよかったか?」


 困惑する繭子に、東條は目を細めて足元を指差す。


「ほらそれ。それじゃあ危なっかしいから」


 密かなデートだと、繭子はいつもよりも高めで華奢きゃしゃなヒールのサンダルを履いていた。舞い上がってしまっている自分を悟られまいと、なるべく普段と変わらないコーディネイトを心がけたけれど、どうしても気持ちをどこかに表現したくて新しい靴を用意したのだ。たとえ雨が降っても、美術館内を歩き、カフェでお茶を飲むには問題はないだろうと踏んでの選択だった。まさか初日でフィールドワークに出るとは思わなかった。


「綺麗なサンダルだな。繭子っぽい。初めて見る。新しく買ったのか?」


 思いがけない言葉に繭子の目が大きく見開かれた。褒められた! 気づいてもらえた! 嬉しさが吹き出してきて、もう隠しようもない。繭子が真っ赤な顔で声もなくガクガクと首を振れば、東條は柔らかな笑顔を見せた。


「そうか。ごめんな、わがまま言って。汚したくないよな。しっかり握っとけよ、水溜りは避けるぞ」

「大丈夫です。こう見えてこの手の商品はしっかり防水加工されてるんです。足も洗えばいいだけですし」


 レースをあしらったサンダルの先には東條の瞳のような澄んだ青があった。綺麗に塗られたペディキュア。全身が淡いサンドベージュでまとめられた繭子のコーディネイトの中で、青は灯された輝きのようだ。


「繭子は青が好きなんだよな」

「え?」

「持ち物とかアクセントとか、青が多いよな。魁夷かいいブルーだっけ、あの水墨画にも青が潜んでるんだろう?」

「ええ、まあ。でもそれは、あの……なんというか……」

「なんというか?」

「それは……せ」

「せ?」

「いえいえいえいえ、いいんです。そうです、好きなんです、青が大好きです!」


 まさか先生の瞳の色ですからとは言えず、しかしどうしても「好き」に便乗したくて、繭子は勢いで宣言してしまう。おかげで一番言いたいことはとりあえず言えた。青はもちろん東條のことだ。隠された意図に彼が気付くことはなくても、繭子には大きなことだった。

 秘めた想いは、この先もしかしたら、うやむやにしてしまうかもしれないとも思っていたから、降って湧いたようなこのチャンスは、もはや記念碑的レベルとも言えた。顔から火が出るかと思うほどに恥ずかしかったのは本当だけれど、一方で妙に満たされた気持ちになったのだ。やれてよかったと、繭子は思わずにはいられなかった。


 そんな一言を発したせいか、繭子はいつになく大胆になっていた。言質げんちはとった(先生がいいと言った)し、旅の恥はかき捨て(この週末だけの助手)だ。ここはもう開き直るが勝ちだと決めたのだ。

 全てを不安定なサンダルのせいにして東條に甘える。と言っても展望台への行き帰りだけ。だからこそチャンスなのだ。ものの数分の移動なら遠慮することはない。夢だと思って存分に! アドレナリンの大放出に励まされ、繭子はとりあえずつながれた手にそっと力を入れてみた。

 ところが思いがけず握り返されてびくりと震えてしまう。恐る恐る顔を上げれば、そこには自分を見つめる東條。ガラス越しではない青に、繭子の心拍数は跳ね上がった。どうした? と言わんばかりに首をかしげる彼に答えるべき言葉を見つけられず、焦りは高まる一方だ。


「繭子? いいか? 進んでも」

「は、はい、もちろんです!」


 思わず声がうわずってしまう。いや、かすれていたかもしれない。東條がわずかに眉を寄せて繭子を覗き込んだ。眼鏡をかけていないせいで、今日はいつになく距離が近い。繭子は呼吸が止まりそうになった。


「どうした、具合でも悪いのか? 車酔いしたか?」


 確かに展望台への道はぐるぐると険しかった。常なら車酔いしたかもしれない。けれど東條と一緒で浮かれに浮かれ、話に花が咲いて、気がつけば着いていたのだ。車酔いなどあり得ない。しかし、ここはそんなことも曖昧にしておこうと繭子は思った。本気で心配してくれる東條には申し訳ないけれど、いかにもな理由があるのはありがたい。


 繭子は大丈夫だという意味を込めて小さく頷いた。東條がそれに頷き返し、二人はゆっくりと歩き始める。けれど繭子の内側は大パニックだった。

 自分よりも高い体温を感じ、思った以上の衝撃を受けていたのだ。握られた手の感覚があるのかないのかもうわからない。深い森みたいな香りに気づけば、目眩がしそうになった。もちろんそれが東條のお気に入りの香水だと知っている。けれどここまで近くでそれを嗅ぐことはなかった。今や、足元がおぼつかないのは紛れもない事実。鼓動が激しくなり、その音が聞こえたりしてはいないだろうか心配になる。


 やがて二人は展望台に着いた。嵐のような大騒ぎが露見しなかったことに繭子は胸をなでおろした。

 半島に位置する紫雲出山には三つの展望台がある。桜の有名な第一展望台。紫陽花の道が続く第二展望台。けれど二人が選んだのは、少し離れた小さな第三展望台だった。瀬戸の風景を見るのならそこがいいとカフェで教えられたからだ。


 雨はすっかり上がっていた。けれどまだ雲は厚く、灰色の瀬戸内海が目の前には広がっている。繭子は思わず見惚れた。カフェから見えた水墨画のような世界は、瀬戸大橋の大きさも相まってソコソコの迫力があった。絶妙な力加減というか。しかし、ここから見える遠景は、形というよりは色が優位で、モノクロームの世界の柔らかさを十二分に堪能できそうだ。


「うん、やっぱりいいな。これだよ。この色だ。あの日感じた、まさにそのもの。繭子の好きなこの色合いが、俺も最高に美しいと思うよ」

「小さい頃、時間が止まって見えたんです」

「ああ、そうかもな」

「島の山頂から瀬戸内海を見た日で、いいお天気で雲ひとつなくて、まるで絵みたいで……だからそう思ったのかもしれません。今もやっぱり同じように感じますけど、雨の日が好きなったせいか、多少印象が変わりました」


 握られたままの手に繭子は視線を落とす。離してくださいとは言いたくない。むしろずっと握っていてもらいたい。伝わってくる温かさが、これは現実なのだと繭子に教えてくれる。ただただ浮かれているばかりではなく、自分の気持ちをちゃんと届けたい。東條と想いを分かち合いたい、繭子はそう思った。顔を上げ、しっかりと正面に彼を見て、繭子は微笑んだ。


「初めてあのカフェに行った日、雨だったんです。今日みたいな。一緒に行った友達は、残念がってましたけど、私は感動しました。小さい頃見た風景が重なって見えたんです。そしてそれ以上に、求めていたものがそこにはあった。雲の流れがすごかったんです。もう、綺麗で綺麗で。無彩色なのに目も離せないほどに鮮やかで……。静なんだけど動だった。それで気づいたんです。モノクロームの世界は止まってしまっているんじゃなくて、自分が知っているよりももっともっと大きな流れの中にいて、全てが動いているにも関わらず、何もかもが止まっているように見えてるだけなんじゃないかって」

「悠久の時……だな」

「はい」


 繭子の心の中に例えようもない喜びが広がっていく。届くかどうか賭けだった。あまりにも漠然としたこの想いが、果たして理解されるかどうか……。けれど返ってきたものは予想以上に見事なもので、繭子の東條への尊敬の念はまた一つ深まったのだ。

 しかしそれは同時に、二人の間にある距離のようにも感じられた。やっぱり手の届かない人なのだと、小さなかげりが繭子の胸の内に差したその時、東條がニヤリと笑った。

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