4.

繭子まゆこ紫雲出山しうでやまに行ったことがあるか?」

「紫雲出山、ですか……」


 休みにしか来ない繭子。それも祖父母の家のある高松市内にいることが主で、こうして沙弥島しゃみじまの美術館にやってくるのも彼女にとってはずいぶんと遠出してきたことになる。日本で一番小さな県だと言っても、やはり東と西ではかなりの距離があるわけで、繭子には西讃せいさんを訪れる機会は今までなかった。


「聞いたことはありますけど。確か桜の季節が有名なんですよね。あとは紫陽花? でもかなり西の海の方で、行ったことはありません。それに先生、今は特に何も咲いていないと思います」

「だろうな。だけど、花の話じゃないんだ。その山がだな、浦島太郎に関係しているんだ。そこからの景色を撮った写真を何枚か見たとき、俺の中で何かがつながるような気がした。それが何か、その時はわからなかったんだけど、今ようやくわかった。これだよ」


 そう言って東條は、目の前に広がる世界を指差した。


「このモノクロームの世界があの時見えたんだ。瀬戸の遠景の中に、秘められた話に漂うものと同じ何かを感じたんだよ。繭子、御伽草子おとぎぞうしの中の浦島太郎は実に興味深いものだった。俺にとっては鬼に近いものがある。桃太郎の鬼ではこうはいかなかった。だから……」


 思いがけない展開に繭子は目をしばたたかせた。それで紫雲出山は一体……。


「その辺り一帯が伝説の里なんだ。記念公園もある。紫雲出山は、太郎が開けた玉手箱から立ち上った煙がかかった山だと言われてる」

「煙、紫だったんですか?」

「繭子……それは白だと思うぞ。紫って……それじゃあ怪異だ。違う違う、立ち上った白煙が、陰影を含んでたなびき、紫に見えたってことだな」

「確かに……。紫がもくもくだと鬼が出てきそうですね」

「だろ? まあ、そうなったらそうなったらで、俺には美味しい話だが」


 繭子は思わず笑い声をあげた。はっと口を押さえて見渡せば、二人の他に客はいない。ほっとしつつも同時に、大好きな風景の前で、大好きな人と二人なんだと改めて感じさせられて頬が熱を帯びる。そっと視線を外して呼吸を整え、気を引き締め直した繭子は口を開いた。


「先生は、その山に行きたいんですね」

「ああ。俺が見た写真は、さっき繭子が言ったような桜とか紫陽花の時期の綺麗な瀬戸内海だった。でも俺があの日そこに感じたのは、無彩色の世界だ。物語に通じるものはその色なんだ。だからそれを確かめに行きたい」

 

 晴れ晴れしい表情の東條を前に、繭子も相好そうごうを崩す。自分だけでもいいと思っていた小さな世界の喜びを何倍にもしてくれた人。より深く、何かを読み取ろうとしてくれる人。ああ、この人を好きになってよかったと繭子は思った。今までひた隠しにしてきた気持ちがするりと出てきた瞬間だった。

 東條への想いは抑えておくべきだと頑に自分を戒めてきたけれど、こんな時間を共有してしまったらもう無理だ。たとえ誰かに打ち明けなくても、自分には素直でいよう、繭子はそう心に決めた。


「とにかく、善は急げだな。今から行けばちょうどいいくらいかな。繭子、行くぞ」

「え?」

「浦島太郎のことは車の中で話すよ」

「車?」

「レンタカー借りてあるから。さあ、早く」


 会計の女性が紫雲出山までなら一時間少しでしょうかと答えれば、東條は大きく頷いた。今はこれといった花もないのですが……と残念そうに言う女性に東條は笑顔を向けた。


「瀬戸内海が見たいので十分です。穏やかで美しい、静謐せいひつさを感じさせる海の景色は、本当ここならではですからね」


 それを聞いて女性が嬉しそうに笑えば、東條の陰で繭子も微笑んだ。朝凪夕凪あさなぎゆうなぎ、まるで時を止めたかのように静まり返った海が繭子は好きだった。

 お天気の良い日に女木島めぎじまの山頂から見た海はまるで銀盤のようだったことを思い出す。降り注ぐ陽光の中、鮮やかな色彩のそれはしかし、眩しくて色を通り越し、まるで光色の濃淡だった。どこまでも静かだった。

 あの時から、自分は瀬戸にモノクロームの美しさを求めていたのだと、繭子は納得した。幽玄ゆうげんと静謐。東條の言葉が、繭子の求めるもの、愛するものをなぞっていく。

 

 それにしても驚くべきは東條の対応だ。授業かゼミかでしか見たことがなかったけれど、外ではこんなにも気さくで柔らかだったとは。しかしよく考えてみれば、鬼を追いかけて知らない土地を旅するのだ。人と心を通わせ合わなければ無理な話だろう。東條の新たな一面を目にして、繭子はまた一つ心の中に温かいものが増えたような気がした。


「先生、免許持ってるんですね」

「当たり前だ。日本中を行くんだぞ。徒歩では無理な僻地だって多い。どうもインドア派みたいに思われがちだが、俺はどちらかといえばアウトドア派だ!」


 拗ねた少年のような物言いに繭子が吹き出せば、東條も照れたように笑い返した。やがて二人を乗せて車は走り出す。道は空いていて、これなら思った以上に早く着けそうだと東條は満足げだ。


「繭子、御伽草子の中での浦島太郎にはな、その後があるんだ。今、流通しているものは後年こうねんになって、教訓を前面に出すものとして作り直されたものだ。実際にはもっと長い話なんだ」

「どの国でも伝承はそんな感じですよね。日本文学もしかり」

「ああ」


 窓ガラスについた霧雨が、いく筋もの流れになって後方へ飛び去る。景色はにじみ、無彩色がここでも二人を取り囲んだ。遠い日の物語がすぐ近くで息をしているようだと繭子は思った。


「おじいさんになった太郎に、その先の未来がまだあるんですか?」

「あるんだな、これが」

「え! もっと長生きするってことですか?」

「半分正解。太郎はな、鶴になったんだ」

「へえ? 鶴……ですか?」

「ああ、鶴。そして乙姫おとひめは亀になる」

「まさか……鶴と亀……」

「そう、あの『鶴は千年亀は万年』だ。時を超えるほどの寿命をお互い手に入れたんだよ。もともと乙姫は亀の化身だ。太郎が長生きして鶴になってくれるならそんなに嬉しいことはないだろう。そういう意味では玉手箱は大正解だったわけだな」


 小さい頃、宝物が入っているのかと思ったのに、空っぽでがっかりしたことを繭子は思い出す。意味のない箱とばかり思っていたけれど、そこには深い気持ちが隠されていたのだ。


「煙に仕掛けが?」

「いや、煙はイメージだろう。箱に入っていたのは時間だ。太郎が持つはずだった地上での時間、乙姫が奪った形になったそれを返されたってわけだ。それで太郎はあっという間に、まるで仙人のごとく歳をとって、さらには鶴になる。現実にあり得る話ではないけれど、すでに海の中の竜宮城にも招かれてるんだ。今また時を超えて変身しても、話の流れとしてはおかしくはないよな。よく出来や比喩だ」


 伝承は、事実あったものを、よりわかりやすいように何かに例えて説明する事が多い。恐ろしげな人が鬼であったり雷神であったり、暴れる大蛇は大雨の河川だったり……。ということは鶴の太郎と亀の乙姫とは……。

 繭子がそれについて考えた始めた時、ちょうど車は駐車場に止まった。

 雨は微かなものになっていた。花の季節が終わった平日の午後。人気ひとけはない。美術館に続きここでも東條を独り占めだ。この先自分の気持ちが木っ端微塵こっぱみじんになるような時が来ても、これほどの幸せを与えられたら思い出として十分だと繭子は思った。

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