3.

 待ち合わせは午後一時半だった。予想通り、小雨降る金曜日。しかし繭子まゆこにとって、それはこれ以上ないほどの好条件で、そんな時に東條とうじょうと一緒だなんて、あまりにも夢のようで頬が緩むのを抑えられない。

 

「ん? どうした、繭子。なんだか嬉しそうだな。ああ、そうか。雨の日がいいって言ってたよな。それって……」

「まあまあ、先生。まずは作品を見てから」


 人気ひとけのない館内を二人は連れ立って歩いた。へえとかほおとか呟きながら、興味津々で歩く東條の様子を繭子はチラチラと盗み見る。

 フィールドワーク仕様なのだろう、今日はスーツではない。袖をまくりあげた、オフホワイトの地に柔らかなグレーのストライプリネンシャツ。下はポケットがいっぱいついたカーキのカーゴパンツ。髪は無造作に流しただけで、メガネは胸のポケットに入っている。かなりカジュアルだけれど、清潔感があり、なおかつその容貌も相まって、なかなかに好感度の高い装いだ。繭子の目の前を、お気に入りの絵たちが次々と素通りしていった。


「最初に提出してくれた小論文、あれは良かった。無彩色の中に感じられる色。目の前の風景のようでありながら、精神世界に深く切り込む色。色の秘密が紐解かれる感じがしたよ。でも、こうして見て回るとよくわかる。水墨画だけじゃあないんだなあ。全ての絵に通じるものがある」


 繭子を振り返り、東條が感慨深げに言う。思いがけず手放しで褒められて、繭子は身体中の血液が沸騰するかと思った。コクコクと頷くだけで精一杯だ。

 それでもどうにか当たり障りのない会話を続け、二人はカフェへと向かった。窓の外に広がる風景を見てようやく繭子も自分を取り戻す。そう、これなのだ。これが東條に見せたかった。魁夷かいいの水墨画を研究テーマにしようと思えたのも、この風景があったからだ。


「先生、こっちです。ここに座ってください」


 繭子に促されて腰を下ろした東條が息を飲むのがわかった。繭子は心の中で密かにガッツポーズをする。東條ならきっとわかってくれるだろうと思っていた。彼が美しい鬼について語る時、繭子はそこにこの風景を重ねて見ていたからだ。


 大きなガラスの向こう、小雨降る海はまるで水墨画のようだ。ライトグレーの瀬戸大橋は圧倒的な存在感ながら、その輪郭はにじんで風景に溶け込んでいる。沸き立つ雨雲、海上に立ち込める霧。島々は陰影を深め、世界は無彩色の濃淡が作り出す美しさの中で揺らめいていた。


 キラキラと陽光がまぶしい夏の瀬戸内の姿はそこにはない。青い海も緑の島も、雲ひとつない空も。けれど色がないのに色がある。いや、全てを内包して、ただ一色だけがそこにあるのだ。そして、これこそが繭子の愛するもので、伝えたかったものだった。幽玄ゆうげん。偶然にも選ばれた今日の天候が、待ち望んでいた光景を作り出してくれたことに、繭子は心から感謝した。


「すごいな。これは本物なのか? よくできた水墨画のスクリーンとか?」

「先生……そんなわけないじゃないですか」

「ああ、ああ。いや、でもそうも思いたくなるだろう。なんだよこれ、完璧な色と配置。鬼が出そうだな」


 最後の台詞せりふに繭子はくすりと笑う。やはり思った通りだ。東條もまた、この世界の中に幽玄を見ているのだ。

「私、この風景が一番好きなんです。私の瀬戸内海はこれです。全てが陰影の中にあって、けれど荒々しくない。まろやかで、にじんで溶けて……」

「それでいてどこか色を感じさせる」

「はい」

「いいな。うん、繭子の着眼点。やっぱり面白い。それでいて美しい。これが魁夷の水墨画につながっていくんだな」


 コーヒーを口に運ぶ東條を繭子は見やった。色を抑えた今日の東條もまた、風景の一部に溶け込んでいくかのようだ。その青い目がより鮮やかに輝いて見えた。さっきまでのハイテンションは鳴りを沈め、甘く深く染み入るような満足感が繭子の中に広がっていく。


「先生、それでフィールドワークですけど」

「ああ、そうだったな」

鬼ヶ島おにがしまへでも行くんですか?」

「それは魅惑的な誘いだが、今回はそうじゃない」


 予想外の返事に繭子は内心ひどく驚いた。この土地のことをそれほど知る繭子ではないけれど、鬼の洞窟くらいは知っている。女木島めぎじま。そこには小さい頃よく行ったものだ。

 綺麗で静かな海水浴場が繭子は好きだった。その穏やかな海に慣れすぎてしまい、大学入学後すぐの合宿で、九十九里浜くじゅうくりはまに打ち寄せる波を見て、思わず「台風でも来てるんでしょうか?」と呟いてしまったことは記憶にも新しい。

 しばらくその海にも行っていなかったから、洞窟を訪れるであろう東條に同行し、ちらりとでも眺められればと思っていたのだ。昨今は瀬戸内せとうち国際芸術祭で賑わう島。浜にあるピアノの船は繭子のお気に入りだし、二人で歩くにはもってこいだと密かに期待していただけに、大いに拍子抜けしてしまう。


「じゃあ、どこへ……」


 小さくモゴモゴと口の中で呟く繭子を前に、東條は真剣な顔をして切り出した。


「繭子、浦島太郎をどう思う?」

「え?」

「読んだことあるだろう?」

「はい、もちろんですけど、どうって……」

「あの話を読んだ時どう思った?」

「……気の毒な人だなあって……」


 繭子の正直な答えに東條が小さく吹き出した。

 しかし繭子もそれ以外には答えられない。人の良い浦島が亀を助け、そのお礼にと竜宮城に招待されるのはいい。けれど、浜に戻ればすでに長い時間が経過していて、ショックを受けた浦島が乙姫おとひめにもらった玉手箱を開けると白髪の老人になってしまうなんて、なんとも後味あとあじが悪いではないか。恩人に対してなんたる所業しょぎょう、あっけにとられたことを思い出す。

 約束を破るとどうなるかという教訓だと教えられても、繭子はなんだか納得がいかなかった。あんまりだ。かわいそうだ浦島太郎。そんな思いばかりが残ったような気がする。


「確かに、なんとも複雑な気分になるよな。だけど、そうじゃない浦島太郎もあるんだ」

「え? なんですかそれ」

御伽草紙おとぎぞうしという本がある。鎌倉時代から江戸にかけ作られた物語だ。その新解釈をめぐる実験的な本を何人かで作る話をもらったんだ」

「まさかそこに浦島太郎が? それで先生がそれを担当? 鬼じゃないんですか?」

「ああ。もちろん桃太郎もあったさ。でもまあ、なんというか、出来心というか……。解釈も色々だし、俺的には通じるものがあるような気がして……」


 わかるようなわからないような、東條が浦島太郎を選んだ理由。けれど本気度は伝わってくる。迷いつつも、何かを見つけようとしている時の先生だと繭子は思った。それが何か、自分には全く想像もできないけれど、こうなったらとことん、浦島太郎の謎に向き合う東條をサポートするだけだ。頑張らねば! と密かに誓う繭子に、東條がさらなる謎を提示してきた。

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