2.

 繭子まゆこのゼミ担当教員である東條とうじょうは青い目をしている。彫りの深い顔、恵まれた骨格。それでいてその唇から流れ出すのは完璧な日本語。そう、彼はれっきとした日本人だ。高祖母こうそぼがイギリス人で、どうしたことか今になって凄まじい隔世遺伝かくせいいでんがでたのだと、本人がそれをネタにしている。

 そんな彼の専門は日本古典文学文化で、大学院では「百鬼夜行絵巻ひゃっきやこうえまき」を研究していた。鬼に関しては百戦錬磨。いい意味で、とにかく熱い、うるさい、しつこい。語らせると夜が明けるというのは、ゼミの男子生徒たちの間では周知の事実。実際、酒瓶を片手に盛り上がるということも何度かあったようだ。残念ながら、繭子たち女子数名は電車のあるうちに帰宅しているので、そんな宴を経験したことはない。


 思えば、繭子が東條の受け持つ比較文化論のクラスを取ったのは偶然だった。まだ先送りしていいクラスだったけれど、たまたまスケジュールに空きがあったこともあり、見学に行ってみたいという友人たちと共に顔を出したのだ。


「東條先生って結構人気なんだよね」

「格好いいからね」

「見てる分にはいいんでしょ。でも強烈スパルタの氷のごとき鬼教官だって」

「そうそう『鬼』だけにね。半端ないみたいだよ。生徒への要求が高すぎてついていけないとか」

「ひえ〜マジで? 冷やかしとかまずいかな」

「まあ今日は見学だから、おとなしくしておけば問題ないよ」


 ワイワイと賑やかなグループの端っこで、繭子は学生課から配布されたスケジュール表やら何やらを手持ち無沙汰に指先でもてあそんだ。この先、ゼミを取るなら一番可能性があるのが東條だった。だけど何やら怪しげな噂ばかり。果たしてこの先生とうまくいくのかと急に不安になる。まあ、早めにそれがわかれば次に打つ手もあるということで、今日やってきたのは正解だったかもしれないと密かに思った。


 まだ十分前だと言うのに、大講義室はほぼ満席だ。さらに、前方の席にいる生徒たちの雰囲気はかなり特殊だった。すでに熱を帯びていると言うか、気合が入っていると言うか。

 ざわっと空気が揺れた。ベルまであと二分と言うところでどうやら東條が入ってきたらしい。繭子は気配に顔を上げ、噂の先生を見た。


「え? 日本文学の鬼専門なんだよね?」


 そこにいたのは黒髪を綺麗にとかしつけ、きっちりと着込んだスリーピースから育ちの良さが伺える、銀縁眼鏡の美貌の准教授。そしてその眼鏡の奥の瞳は印象的な青だった。


「え? え? 東條先生って」


 繭子は慌てて手元の資料をめくり始める。何枚目かで、東條・ノア・悠聖ゆうせいの名を見つけ、「やっぱり!」と声を上げる。


「繭子、違うよ。東條先生はれっきとした日本人」

「?」

「この子……、先生のこと、全くわかってなくて来たのか!」

「?」


 その時、ベルが鳴った。前方席にざっと緊張感が増す。そのあとはまさに怒涛どとうの一時間半だった。


「……もう十分わかりました」

「うん……ないな」

「いい経験させてもらいました!っと」

「東條先生はカフェで盗み見するに限るわね」

「笑ってくれたらいいんだけどなあ」

「まあ、そんなクールはところが素敵って言うことね」


 苦笑交じりの友人たちが片付けを始める横で、繭子は放心状態だった。


(なにあれ……)


 とにもかくにも、凄まじいの一言に尽きた。ベルとともに始まった講義は一切の無駄などあるわけもなく、猛烈なスピードで莫大な情報が提示され、それが大胆不敵な解釈でどんどん切り分けられる。想像を絶する切り口を並べられて、お前はどうだと聞いてくる。それは当然次回までの提出課題となり、矢継ぎ早の質問タイムを経て、息つく暇もなく終了のベルに滑り込んだのだ。


(こんなのが毎回? これなに、戦い?)


 確かにみんなの言う通り、東條は目の保養だった。しかしその実態は噂以上のどS。究極のマニアなの? 恐るべきオタク? いやもうこれは特別仕立てのアンドロイドか最新鋭のAIかも?


 まず笑わない。無駄口を叩かない。体温もないのかと思うほど、冷静で冷淡で。けれどなぜか、その内容からは火を吹くかと思うほどの熱を感じるのだ。なんとも不可解なギャップがそこにはあった。もしや研究馬鹿の熱血漢とか? ふとそんな言葉が頭をよぎるほどの何か。しかしそれは一瞬にして、授業内容の濃さと東條の無表情に押し流されていった。

 しかし、東條がいかに優秀な人物かは疑う余地なしだった。教壇にかぶりつかんばかりの生徒たちも理解できるというもの。この人から学びたいことは山ほどあると繭子は思った。


(ちょっと怖そうだけど、ゼミ取ってみるかなあ。ダメだったら替えるしかないから、早めに申し込んでみるのも手かもね)


 繭子は覚悟を決め行動を開始する。そして一週間後、スケジュール表には「比較文化論」と「東條ゼミ」が書き加えられることになった。

 一緒に見学した友人たちには「あんたも物好きねえ」と散々冷やかされたけれど、繭子の場合は与えられる知識への好奇心であって、人形みたいな東條への恋慕ではない。しかしそれを言ったところで致し方ない。繭子は曖昧あいまいに笑っておいた。


 東條ゼミ。それは新学期ごとに生徒が殺到する名物ゼミ。しかし東條は、全員にまず小論文を書かせる。今、興味があること、卒論のテーマに考えていることなど。それをじっくりと読んでふるいにかける。そしてこれぞと言った生徒のみを拾い上げるのだ。

 狭き門かと身構えたけれど、すでに自分の中で目指すものを持っていた繭子は、すんなりと合格を言い渡された。そして始まったゼミに恐る恐る顔を出せば、まさかの展開に唖然あぜんとさせられる。


「へ? 研究馬鹿のすこぶる熱血漢?」


 ゼミの時間はオフに限りなく近いらしく、ネクタイは緩められ、腕はまくられ、ずいぶんと東條は砕けて見えた。そしてそれだけではなかった。よく笑うのだ。その無防備な笑顔は外では決して見せないもの。先生はスーツを脱いだら人が変わる! なんてゼミ生たちも一緒になって笑っていた。

 そしてそこで繰り広げられるのは、授業以上に熱の入った議論で、それこそが繭子の感じた違和感の正体だった。熱い、とにかく熱い。これか、先生の本質は! 繭子も夢中になってそれに参加した。

 そんな本気の生徒たちが東條を売るなどありえない。よって、彼の熱と笑顔はゼミの中の最高機密であり、外部に漏れることはなかったのだ。生徒たちはみな東條を尊敬し、その結束は固かった。


 さらに繭子は知ることになる。オフの東條がいかに気の抜けた人物であるかを。とにかく研究室に寝泊まりすることが多い。そしてそんな時の東條はとことんだらしなかった。綺麗に撫で付けられていた髪はくしゃくしゃになり、うっすら無精髭が生え……、朝日の中で砂糖三杯を放り込んだエスプレッソを飲む姿は、もはやゼミ生たちには見慣れた光景だ。


「先生、また徹夜ですか? ほらほら早くこれ食べて。あとで髭もちゃんと剃ってくださいよ!」


 春からまだ、たったの三ヶ月だというのに、差し入れの菓子パンを手渡しながら、何度繭子もそう言ったことか。投げ捨てられていたネクタイを拾い、窓辺のカウンターの上に置いて振り返れば、へにゃりと笑う姿が目に入る。これがあの東條かと思うほどの脱力感。けれど繭子はそんな登場の笑顔が好きだった。


 しかし今回は論外だ。完全無欠の装いの、標準零度の東條が、こともあろうか研究室の外で無邪気に笑うなど。さすがの繭子も度肝を抜かれた。同時に、事の重大さに震え上がったのは言うまでもない。


(それはダメ、絶対にダメだから!)


 慌てて周りをチェックした繭子の態度は、ゼミ生なら誰だってだっただろう。一大事だ! しかし彼女の焦りなどどこ吹く風で、東條が夏の話など進めるものだから、繭子は逃げるが勝ちだと結論を出したのだ。もちろん、自分の気持ちがいっぱいいっぱいだったこともある。


「本当、誰もいなかったでしょうね。勘弁してほしい……」


 人もまばらなバスの中で、繭子は何度も呟かずにはいられなかった。

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