墨色の瀬戸には青い鬼が出る

クララ

1.

繭子まゆこ!」

 

 夏休み前、最後のゼミ。返却する本やバインダーなどをカートに乗せ、夕暮れの道を一人図書館へと歩いていた繭子ははっと顔上げた。いつの間にかゼミ担当の准教授である東條とうじょうが追いついていた。彼はさっきまで部屋で資料整理をしていたはずだ。何か必要なものまで持ってきてしまったのだろうかと繭子は首を傾げた。


「先生……何か資料が?」

「いや、大丈夫だ。それより、いい忘れたことがあって」

「はあ……」

「繭子、夏はおばあさんのところに行くのか?」

「え? ええ、そのつもりにはしていますが、それが何か……」

「付き合ってくれないかな?」

「はい?」

「フィールドワークだ。依頼されてる仕事にどうしても必要で。繭子の田舎に行かなきゃいけない」 


 繭子はじっと東條を見上げた。毎年のように祖父母の家には行くが、その土地をよく知っているわけではない。案内役には無理がある。


「先生、私、土地勘とかないですよ。美味しいお店の情報も持ってませんし、免許もありません。できること言ったら荷物運びと資料整理くらいですけど……」


 そんな雑用なら繭子でなくてもできる。東條の研究に深く傾倒しているゼミ男子生徒も多いのだ、自分が行くまでもないだろう。そう続けようとした時、東條が急に破顔して繭子はたじろいだ。


(先生! ここ外! それはまずい! いや、それは……ずるいです……)


「十分だ。それに、繭子が言っていた美術館にも行ってみたいと思って。東山魁夷ひがしやまかいいせとうち美術館だっけ。お気に入りなんだろう、よく知っている人と行けばわかりやすいじゃないか。カフェで好きなものなんでもおごってやるよ」


 もっともらしい理由に聞こえるが、小さな美術館だ。一人で行っても迷うことなどない。なんだろう、これは……。前もってのお詫び? 過酷なフィールドワークになるとか? とんでもないお願いをされるとか? なんだか物騒なあれこれが脳裏をかすめたけれど、繭子の中には大好きな風景がちらちらし始めて、断る理由も見つからない。

 それに……。けれどその最後の想いには蓋をして心の中で首を振り、繭子はおずおずと口を開いた。いかにも美術館行きが嬉しいという顔をして。


「そういうことでしたら……。私は来週には行きますけど、先生はいつ頃いらっしゃるんですか?」

「そうだな。俺も、来週末には行くよ。ただ天気がなあ。雨の予報が出てる。外回りにはきついかなあ」


 そう言いながら、東條が長期予報の画面を見せてくる。二人の距離がぐっと近くなり、繭子は小さく息を飲んだ。直後、それを悟られまいと小さく咳払いをし、腹に力を入れ直して降水確率の表示を睨む。

 数字は思った以上に低かった。これなら降ってもしれているだろし、もしかしたら全く降らないかもしれない。


「この確率なら大丈夫じゃないですか? 雨が少ない土地ですからね。空振りは大いにありますよ。でもまあ、私的には降ってくれても全然いいんですけど」

「ん?」

「いえいえ。こっちの話です。あっ! バスが来ちゃうんで私急ぎます。詳しくはメールしてください」


 そう言うが早いか、東條に軽く頭を下げた繭子は、カートを押して図書館へと駆け込んだ。


「逃げられたか。バスなんて一本くらい遅らせたっていいいだろ……」


 東條は繭子の姿が消えた図書館入り口を見て肩をすくめ、きびすを返した。そして、どうやら今日も研究室に泊まり込みになりそうだと、夜食のサンドウィッチを買いにコンビニへ向かって歩き始めた。


 一方、図書館のガラス窓の向こうでは、繭子がそんな東條の姿を密かに見つめていた。バスの時間なんてでまかせだ。とにかくその場から逃げないとと思った。落ち着いているように見えるだけで、繭子は完全にテンパっていた。あれ以上一緒にいたらどんな失態を犯すか……それだけは全力で阻止せねばと必死だったのだ。


(先生笑ってた……ううん、先生はフィルードワークの助手が必要で嬉しかっただけ。私だって、私だって……奢ってもらえるのが嬉しいだけなんだから!)


 一体誰に、何に言い訳しているのだと、自分で自分にツッコミを入れたい繭子だったけれど、それだけ混乱していたのだ。東條と二人で出かけるなんて信じられないこと。まさに青天せいてん霹靂へきれき。さらに、東條に対する自分の気持ちが急速に変化しつつあることが、このところの繭子の悩みだった。そんな矢先の出来事だったわけで、これでは舞い上がらない方がおかしいというもの。


 自分の興味ある分野に精通した担当教員は実にまれなる人だ。そこにあるのは尊敬の一点。だけど、彼の見た目がとんでもなく視覚的刺激を引き起こすのは間違いないことで、ドキドキしてしまうのは何も自分だけではない、一般的な見解なのだと繭子は自分に言い聞かせていた。一部の隙もない装い、大人で知的な先生への純粋な憧れだと。けれど今、繭子の脳内に浮かび上がる東條は……。


「ないないないない……勘違いよ、気の迷いよ、落ち着け私!」


 そう自分を叱咤しったしたものの、繭子の足はブルブルと震えだし、慌てて近くのウィングチェアに腰を下ろした。けれど柔らかく沈み込むような座り心地に一息つく暇もなく、先程までのやりとりが再生される。


「先生と美術館……。先生と二人で……」


 一度口にすれば、もうダメだった。ハリボテの外壁みたいに、言い訳はボロボロとはげ落ちて、後に残るのは、東條と二人で出かけることにこれ以上ない幸せを感じている繭子だった。


「……そうだよ、嬉しいよ。こんなチャンス、嘘みたい……」


 東條のことが気になるなんて、まるで彼の外見しか見ていない生徒たちと同じになったようで悔しかったのだ。自分が惚れ込んだのは彼の才能であり知識であり……だけど、その笑顔や瞳の色が気になるのはやっぱり本当で……。

 繭子は大きなため息をついた。自分を埋め尽くすようなこの感覚を、どう表現していいのかわからなかった。予期せぬプチパニックに、繭子はそれからゆうに一時間、そこに座ったままだった。

 気がつけば、駅までのバスはもう二本も行ってしまった。図書館の入り口上の窓に一番星が輝きだしてようやく、繭子は夢から覚めたように立ち上がる。カートを押して返却コーナーに向かい、上の空のまま手続きを済ませ、今度こそ、人の少なくなったバス停へと急いだ。

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