港に降りしきっていた雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間からは光が差し始めていた。

 埠頭のコンクリートに出来たいくつもの水溜りが、陽光をきらきら反射して輝いている。

 

「……以上です。すみません、こんな話につき合わせてしまって」


「い、いえ……」おれは、今聞いた話にどう反応してよいか考えあぐねていた。

 とんでもない話を聞いてしまった。

 

「……退屈でしたか?

 すみません、わたしもこの話をするのは今日がはじめてで……普段、他人に話そうと思うことなんてありませんから。

 退屈な話だったらごめんなさい」

 

「いや! ……そんなことはないです。ただ……。

 その、すごい話だったもので」

 

「すごい話……ですか?」彼女は首を傾げた。

「や、すごいですよ! H島に固有のハリガネムシの一種、それが昔から人体に寄生する、なんて……!

 いや、こんなことが……どうして、こんな話をおれなんかに?」

「そう、ですね……」彼女の目線はふたたび水平線の彼方に絞られた。

「遺したくなったのかもしれない。最後に……」

「のこす?」


 おれは彼女の発言の意図が呑み込めず聞き返した。

 そのとき、あたりに機械的なアナウンス音声が響き渡った。

 

『お客様にお知らせします。本日運行を見合わせておりました10時35分発のM島行き、H島行き、A島行きの便ですが、天候回復の目途がつきましたためまもなく10時50分に出航させていただきます。チケットをお持ちの方はお急ぎください。繰り返します―、……』


「あっ、わたしの船ですね! もうすぐ出るみたいなんで、行ってきますね。

 すこしの間でしたが、楽しかったです」

 

 彼女はぺこりと頭を下げると、待合室へ急ごうとした。

 

「……待ってください」


 おれは思わず彼女を引き止める。

 

「……? どうしましたか?」


 彼女はきょとんとした顔でおれに向き直った。

 おれは考える。そうだ、どうして彼女を引き止めたんだったか。

 そう、ある違和感があったからだ。彼女の話には――。

 

「……すごく、おもしろい話でした。こんな話をお聞かせくださったことは感謝します。

 でも、おかしいですよ。

 思えば、あなたがこの話を切り出したきっかけは、『あなたがH島の祖父から縁を切られた』という言葉をぼくが掘り下げたせいでした。

 でも、今の話を聞く限り、あなたが祖父から縁を切られるような要素はどこにもなかった。むしろ、とてもあなたと縁を切るような人間とは思えなかった。

 あなたはまだ話してないことがあるはずです。

 どうして、あなたは祖父に縁を切られたんですか」

 

 おれの思いがけぬ質問に、彼女はしばらくぽかんとした表情を浮かべていた。

 

「……ああ、そう言えばそうですね。なるほど、忘れてました。

 いや、本当に大したことじゃないんです」彼女はしずかに口を開いた。

 

「大したことじゃないなら、縁を切られることはないんじゃないですか?

 何か、大きなことがあったはずでは」


「いいえ、本当に大したことじゃないんですよ。

 『この子たち』と暮らせる、今の日々に比べたら――」

 

 彼女はそう呟くと、そっとセーターの裾をまくりあげた。

 ふっくらと丸みを帯びた彼女のお腹が露わになる。

 

「ちょっ、いきなり何を、…………!?」


「ふふっ……さっきからこんなに暴れちゃって。ホント、かわいい子……」


 おれの目は彼女の腹部に釘付けになっていた。正確に言えば、彼女の鬱血した腹の皮膚下に蠢く無数のモノに。

 それはひとつが10円玉ほどの大きさの黒い点であった。点のまわりは皮膚が浮き上がっているのか白く縁どられ、まるで魚の目のように見える。

 彼女の腹部は、おびただしい数の「目」がびっしりと埋め尽くしていた。大小さまざまのそれは、しばし彼女の薄皮の下でぐるぐると蠢き、震え、うねっている。それは、庭の石をひっくり返したときに無数のヒルがびちびちと蠢動する光景を思い起こさせた。

 おれの頭にふと、彼女の話に登場したある単語が浮かんだ。

 腹水。

 そういえば彼女の祖父は、寄生が進むと腹が餓鬼のように膨れると言っていなかったか。

 ちょうど、こんなふうに。

 

「あ、あんた……」

 

「わたしは、祖父のワクチンを投与しなかったんです。

 あのあと、母に無理を言ってすぐ東京に帰してもらいました。東京の病院でワクチンを投与してもらうと嘘を言って誤魔化しましたが、すぐにバレて揉めました。

 その末に、『もう知らん』って。人の愛情ってほんとうに脆いですね……人はすぐに裏切る。この子たちと違って」

 

 彼女は腹に浮かぶ大量の虫たちをそっと撫でる。それは、本当に我が子を宿した腹を愛撫しているかのようだった。

 彼女の手に触れた蟲が一斉にびくびくっとふるえ、その振動が波となって周囲に伝播する。

 おれは何一つ言葉を発せないまま、その総毛立つような光景を凝視していた。

 いったい何が起こっているのか――本来なら、理解できない光景なのだろう。だが、不思議とおれの思考はその景色を予感していたように醒めていた。

 脳の奥で、推測がちりちりと焦点を結ぶ。

 

「……違います」おれはおそるおそる口を開いた。


「はい?」


「……あなた、それは違います。

 あなたの、虫への愛情は……きっと偽物です」

 

「……? どういうことですか?」


「あなたの話を聞きながら、ずっと考えていたんです。いくら島流しの地とはいえ、十数年に一度身投げが起こる島なんて異常です。

 何より、流刑など廃止されて久しい今でも身投げが続いているなんて、いくら何でも変ですよ。

 ……ぼくが思うに、その人たちの身投げもそいつらの『生活環』の一部なんじゃないですか?」

 

 彼女は怪訝な目でおれを見つめる。

 

「……ハリガネムシは、カマキリの思考を操って水に落とすんでしたよね。

 きっとその島の虫は、それだけじゃない。いわば生活環の『B』を用意してるんです。

 蚊やハエから、カマキリじゃなく――屍体ごしにフナムシ、それから魚に寄生し、最後に人へ寄生する。決して間違った寄生じゃない、こっちも織り込み済みなんです。

 そして宿主の思考を操作する。寄生虫をまるで我が子のように愛するよう……。ちょうどあなたの祖父も、似たような事例を話していましたね。

 そうして寄生生活を確保したあと、虫は最後に宿主を操作して、カマキリのように水辺へと誘い出し……」

 

 おれはそこまで言ってから、つい口を噤んだ。その先に続く内容が、あまりに不吉だったからだ。

 だが、おれの推測が正しければ、それによって寄生虫の生活環は完結する。人間に寄生して操り、宿主の身体を水に投じさせ、屍体から這い出た幼虫が集まって来たボウフラへと寄生し……あとは元の通りだ。太平洋に浮かぶ孤島にひっそり生息するハリガネムシは、閉じた生態系に対応するべく進化し――魚や人間を思うままに操作し乗り継ぐ、異常きわまる生態を身に着けたのではないか。

 そうすると、彼女の奇態も説明がつく。彼女は今まさに脳の寄生虫に思考を操られ、ハリガネムシへの強烈な愛情を育まされ、そうしてH島の「蛇が浜」へと誘導されている最中なのだ。それも、虫たちの生活環を繋げる生贄になるために。

 そっと彼女の顔色を窺う。彼女の反応はどうだろう。自分が異常な状態にいると知り、狼狽えているだろうか。それともおれの指摘に怒りを爆発させるだろうか。

 おれはじっと彼女の次の言葉を待った。

 だが、彼女の態度はあまりに想定と違っていた。

 

「……ふふっ、あはははは……」


 彼女は腹を抱えて笑っていた。

 それはまるで、おれが何かとんでもなく可笑しなことを言っているかの反応だった。

 彼女はしばらく口に手を当てて笑っていたが、やがて笑いをこらえて口を開いた。

 

「……おもしろい。おもしろいです、あなたの話。そんなこと、考えもしなかったな……。

 うん、本当におもしろい……ありがとうございます。これだけでも、今日あなたに会った価値があった」

 

「ちょ……ちょっと待ってくださいよ! あなたは今、寄生虫に操られてるんですよ!?

 決してありえない話じゃないはずです! このままなら、あなたはきっと……」

 

「死ぬかもしれない?」彼女はおれの言葉を継いだ。

「うん、そうかもしれませんね。でも、愛情ってそういうものじゃないですか?

 わたしたちの愛情だって、言ってしまえば種の繁殖のため遺伝子に操られて抱くものです。恋愛も、家族愛も。だからって愛を否定なんてしないでしょう?

 たとえ、愛のために死んでしまったとしても」

 

「そ、それは……」


「すべては科学現象で、そのほとんどは解明されています。

 怖がることなんて、なーんにもないんです」彼女はとびきりの笑顔を浮かべた。


「あなたに会えてよかった。あなたにこの事を話せてよかった。

 それじゃ、さようなら。またいつか会いましょう」

 

 

 

 

 おれは、船に乗る彼女の背中をじっと見送っていた。

 脳内でさまざまな言葉が飛び交い、おれはただぼうっと突っ立っているしかなかった。

 そうして、ふいに、おれの思考はある一点に実を結んだ。

 この寄生虫の「ルートB」には、何の意味があるんだろう?

 孤島の片隅の池で営まれている生活環から、わざわざ脱け出す意味は何なのだろう?

 そこまで考えて、おれの背筋をつめたいものが昇った。

 理由など決まっている。

 生物が居場所を離れる理由など――「繁殖地を拡げること」以外にあろうはずがないではないか。

 

「最後に、遺したくなったんです」


 彼女の言葉が脳裏をかすめる。

 おれは、ベンチに転がっていた紙コップを手に取った。先ほど彼女から渡されたもの。そうしておれが寒さに耐えかね、飲み干したコーヒーの紙コップ。

 おれは紙コップをそっと逆さにして手の上で振った。

 紙コップの底にたまった飲み残しのコーヒーから、何かがずるりと零れ落ちる。黒く湿った何かの束だ。

 

 それは、髪の毛だった。





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呪魚 デストロ @death_troll_don

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