④
その後、わたしの叫び声で起こされた祖父は、兄の姿を見るなりわたしに掴みかかって「あだんしたね!!」と怒鳴り声を上げました。
わたしが泣きじゃくりながら事の顛末を話すと、「お前ら、ほんに『蛇が浜』に行からあか!! こがぁあくたれがぁ!」と怒鳴りつけました。いつもの温厚な祖父の姿は消え失せ、心臓が縮み上がるほどの迫力でした。
それから祖父はどこかに電話を掛け、しばらく真剣な顔で何事か話していたかと思うと、「すぐ来いわ。急がにゃあまずきゃあ」と私たちを車に乗せました。
祖父の車は十数分ほどでどこかの建物の前に停まりました。建物には大人たちが集まっていて、兄はすぐに建物の奥へと連れていかれました。わたしはあの日の出来事について質問攻めを受けたのち、一晩奥の部屋に泊まるよう命じられました。簡素な畳敷きの部屋でした。
布団で横になっている間、どこからか兄のものと思しき叫び声が幾度となく響いてきたのを今なおはっきりと覚えています。
目を覚ますと、もう朝でした。いつの間にか眠りに落ちていたようです。
わたしは六畳ほどの和室に寝かされており、辺りを見回すと、部屋の壁には見慣れない写真や図がいくつも掛けられていました。
「起からあね。調子はあだんした?」
祖父でした。祖父は白衣を纏い、首からは聴診器を提げています。太い黒縁の眼鏡が窓から射し込む陽光を反射していました。
「……?
おじいちゃん、どうしてそんな格好なの?」
「そりゃあ、医者だもんのお」
わたしはそのとき、祖父が島民から「先生」と慕われている理由をはじめて知りました。
祖父が「入っといで」と呼び掛けると、病院着に着替えた兄が部屋に入ってきました。その表情はどこか憑き物が落ちたようにも思えます。
「もうお兄ちゃんは大丈夫だきゃあわ。待ってなあ、すぐハルミも手当てするでなあ」
「手当て……?
えっと、その、これって……」
「そうだあの。
そがあか、うん、ここいらで説明しておいた方がよきゃあのお。お前らが体験したモンが、何だったんか。
まあ、二人ともこっちに来るんよ」
祖父に連れられて入った部屋は、診察室のようでした。壁には薬棚やいろいろな機材が並び、部屋の片隅の机には分厚いファイルが何冊も散らばっています。
わたしたちは祖父に促され、患者用の回転椅子に腰掛けました。
ふだん見る事のないその姿は、さながら学校の先生のようでした。
「ここって……」
「わしの職場だのおわ。
機会があれば紹介しようと思ってからけんど、まさかこがあな事で二人を呼ぶとはのお」
祖父は低い声で呟きながら、棚を開けて小壜を取り出しました。
「うん、結論から言うとのお。
こんが、お前らを襲ったモンの正体なんわあ。
ほい、よく見てみい」
わたしと兄は祖父に促されるまま、小壜の中身に顔を寄せました。
それは数本の黒い髪の毛でした。長さは20センチほどになるでしょうか。
魚のワタから出てきた髪や、わたしの部屋に落ちていた髪とそっくりです。
「髪の毛だ」
「髪の毛じゃなきゃあ」
祖父は小壜の蓋を開き、ピンセットで髪の一本を摘まむと試験管の中へ落としました。
そのまま試験管に水を注ぐと、髪はたちまち魂が宿ったようにうねり始めました。
「うわっ……じいちゃん、この髪の毛、動いてるよ」
「そりゃあそうだきゃ。
こいつは、生きてあるんわ」
「生きてる……って、これが?」
「そうだきゃあ。
この島固有の類線形動物門の一種……ひらたく言やあ、ハリガネムシの仲間だきゃあ」
「は、ハリガネムシ……?」
祖父の口から出たあまりに意外な言葉に、しばしわたしの思考は止まりました。
「……ん、知らなきゃあか?
まあ、東京に住んでちゃあ見ることもなきゃあか。
ハリガネムシ、つう虫での。黒くて長くって、しかも皮膚が針金みたく硬きゃあから『ハリガネムシ』なんわ。
カマキリのお腹なんかに寄生しよって、水に入るとにゅるにゅる出て来ろおよ。こんな風に」
祖父が試験管をゆすると、虫もますます身体をくねらせて悶えました。
「こんな虫がいるのかあ……、全然見た事なかった」
「無理もなきゃあ。
特にこの島のハリガネムシは、髪のように細きゃあ。こがあはわしの推測じゃが、カマキリや蚊の身体は南の地方や小島に行くほど小さくなろおからの、
そがあに寄生するためにこいつの身体も細く小さくなったんじゃなきゃあかの」
言われてみれば、確かに島に棲む虫は本土の虫より小さいものばかりでした。
「それにの、ハリガネムシの皮膚を覆ってある硬いのは『クチクラ』ちうて、わかりやすく英語で言うと『キューティクル』……ひらたく言やあ髪の毛と同じ成分よの。
おまけにこいつらは擬死反応……死んだふりをするんけ、子供が見りゃあ髪の毛と思うも無理なきゃあねえ」
祖父からハリガネムシの生態を聞くにつけ、わたしの中でぼんやり点と点が繋がり始めました。
「おじいちゃん、まさか、それって……」
「急ぐでなきゃあ、順を追って話そうの」
祖父は隣室からキャスター付きのホワイトボードを持って来ると、マジックを手に取りました。
陽光を跳ね返して白く輝く画面に、きゅっきゅっとマジックが走る小気味の良い音が響きます。
「さて、いきなりこん虫について説明してもワケが分からなきゃあから、しばらくはお勉強になる。ちいっと退屈だろうがほんの少し聞いてくんなあよ。
ふたりとも、『寄生虫』ちうモンをどがあまで知っとる?」
「えっ、寄生虫……?
まあアレだよね、寄生するんだよね、他の生物に」
「うんうん」兄は何も考えていないようで、わたしの言うままに頷きました。
「そがあわ。
寄生虫の一生は、例えばこんな風になろお」
祖父はホワイトボードの上に大きな輪を描きました。
輪は3個の矢印から成り、矢印は順に「第1中間宿主」→「第2中間宿主」→「終宿主」の3つの文字を回って最後に「第1中間宿主」へと戻っています。
「多くの寄生虫は、こがあな風に宿主を引越ししながら大きくなっていく。もちろん3つとは限らなきゃあ。
たとえばハリガネムシで言やあ……」
と言いながら祖父はもうひとつ別の輪を書き加えました。
輪は、「①川底で生まれる」→「②中間宿主…ユスリカ」→「③終宿主…カマキリやカマドウマ」→「④宿主を水に飛び込ませ、川底に産卵」→……というループから出来ています。
祖父は輪をマジックでなぞりながら、滔々と説明を始めました。
「そがあだら、ハリガネムシの一生を追おうかの。
ハリガネムシは、川底の泥の中で生まれる。生まれたらすぐに川の中のボウフラなんかに食べられちまわあだが、何しろこいつぁ硬いからボウフラの腸を掘り進んで寄生しちまうんよ」
「なんか気持ちわりいなあ」兄は率直な感想を述べました。
「そいから、ボウフラは蚊になって陸上に上がる。
それをパクッとカマキリなんかが食べからぁ占めたモンでの、カマキリのお腹に入ってヌクヌク成長する。
よく見掛ける姿はこれだの」
祖父は本棚から一冊の本を抜き出すと、その内のある1ページを開きました。
本には大きなモノクロ写真が印刷されています。カマキリの腹部にみっちりと黒く長い虫の体が詰まっている写真です。
「うわっ、何だよコレ……」
「ハリガネムシだきゃあ。
カマキリの小ぃさな腹に数十センチ、長いと1メートルくらいの虫がぱんぱんに収まってある。よう入るもんだきゃあ。
何十分もかけてにゅるにゅる出てくるときの景色は壮観だあで」
「気持ちわるっ」
「うん、初めて見たモンは皆そう言いからあの。
寄生虫を研究してあるモンからすりゃあ、こら愛おしいくらいだが」
「いやいや、それはイカれてるって」
「はっは、そうでもなきゃあ。
大学時代の儂の友人などは、研究のために自分の腕に糞線虫を寄生させていからあが」
「…………」兄は無言でしたが、その表情からしっかり引いているのはわかりました。
祖父はそんな彼の様子には気づかないようで、うっとりした表情で語ります。
「いや、ほんに珍しいことじゃなきゃあよ? 昔は寄生虫を人工で培養するのは難しきゃあからのお……。
面白いのがの、そいつはだんだん寄生虫に愛情を覚えておったみたいで、終いにゃあ名前を付けて我が子のように可愛がっておったわ。こんも研究者にゃようある話らしいの。
仲間内じゃあ『寄生虫に操られてある』と笑い話にしておったもんだがな、はっはっは……」
「おじいちゃん、話が逸れてるよ」
「おお、いかんのいかんの。寄生虫の事になると悪い癖だの」祖父はふたたびホワイトボードに向き直りました。
「そがあで、ハリガネムシがカマキリのお腹で十分に育つと……面白いんがこっからでの。
こいつは宿主を操って、近くの『水に落とす』のわ」
祖父はこちらを振り返り、にんまりと笑みを浮かべました。
「そうして川なり池なりの水にカマキリがぼちゃんと落ちたら、こいつはするするっと宿主の尻から脱け出して別の個体と交尾する。そうしたら川底に卵を産む。卵からハリガネムシが産まれて、ボウフラに寄生して……、以下繰り返しだの。
こがあが、ハリガネムシの一生だきゃあ」
「……えっと、よくわかんないんだけど。
『宿主を水に落とす』って、どうやって? まさかえいやって突き落とすのか?」
「うむ。ええとこに気がついたの。
そがあは、まだ分からんことも多きゃあが……こいつは、宿主の脳を操ってふらふら水辺に近寄らせると考えられておるんわ」
「脳を……って、思考を操作すんのかよ?
ホントに?」
兄が目を見開きました。
「ああ、驚くことじゃなか。むしろ寄生虫が宿主の脳を操作するんはかなりポピュラーだきゃあよ。
寄生虫は今の宿主がより大きい宿主に喰われるよう、思考を操作するのわあ。
たとえば……」祖父はホワイトボードに虫と動物の絵を描き出します。
「たとえばワラジムシは日陰を好む虫だきゃあが、プラギオリンクスに寄生されると迂闊にも日向を歩きだすようになって鳥に食べられちまわあ。
トゲウオちう魚はシストファルスに寄生されると驚かされても逃げなくなって、水鳥に食べられる。ネズミもトキソプラズマに寄生されっとやったら徘徊するようになって、ネコに食べられやすくなるんの。
こうやって宿主たちを操り、わざと無警戒な行動をさせて次の宿主に喰わせることで、寄生虫は居場所を引っ越し引っ越し……命を繋いであるんの。美しい生命のリレーだのお」
「すげえ、ロボットみてえだ」兄はどこかずれた感想を口にしてしきりに感心しています。
わたしはハリガネムシの漂う水槽に目をやりました。
こんな小さな蟲が、魚やネズミといった高等生物の思考を操作する――それはあまりにぞっとしない想像でした。
「……でもこの生活、すげえ綱渡りじゃねえの? そんなにうまくいくのか?
たとえば、カマキリから出たところで別の生き物に食べられちゃったりとか」
「ん、それをこれから説明しようと思ってあったんわ」祖父はホワイトボードをマジックでごんごんと叩きました。
「すべての寄生虫がこの連鎖を続けられるわけじゃなきゃあ。想定と違った宿主に食べられたりちうことは勿論ある。
そがあだの、喩えて言やあ、『小学生が中学校に進学するはずが、迷って知らない街でひとりぼっちになっておった』……みたいな状況かの。
さて、そうなったらお前らはあだんすろお? ハルミ」
「え、えっと……?」喩えが遠すぎてよくわかりません。
「俺だったら泣き叫んで走り回るけどなあ」兄はなぜか誇らしげに答えました。
「おお、そうだきゃあそうだきゃあ。
知らない状況に陥ったら、とにかく走り回る。そがあだの、そがあだの。お前は寄生虫の素質があらあの」
「へへっ」兄はまんざらでもない顔を浮かべます。
「何で照れてるの……?」
「とにかくの、寄生虫もおんなじだの。
本来、寄生虫は大人しい虫じゃ。何しろ、いたずらに宿主の身体を這いまわって宿主を傷つけたら困るのは寄生虫だからの。
寄生虫は腸管とか筋肉とか、とにかく一所に留まってじっと栄養を啜ってある。宿主はいずれ異常に気付くが、ただちにどうにかなることはなきゃあ」
「俺より偉いな」
「……けどの、知らん虫や動物の体内に入ってしもうたら話は別だきゃあ、寄生虫はどこにおってええかわからなきゃあで、色々なところに繰り出しよる。ことによりゃあ宿主は色々な症状を経験するのおの。
こがあを『幼虫移行症』なんて呼ぶ人もおる」
「あれだな、人生の敷かれたレールから外れちまうんだな。
わかる、わかるよ」兄は謎の共感を覚えているようでした。
「さて、そろそろ本題に戻ろおの」祖父は一枚の大きな紙をホワイトボードに貼り付けました。H島の地図です。
「島の南西に、ヒルコさんがあろおは知ってあるかの?」
「ああ、あの神社か」兄は目を細めた。「あの魚くっせえ」
「はっは、あれを見てしもおたのなあ。
まあ、それも後で説明しよおよ。今注目したいんは、こん境内の神池だの」
祖父は鳥居マークの傍にある池を示しました。
「さっき見たあんハリガネムシは、主にこん神池で繁殖してある。『池の底で生まれ』、『ユスリカやハエに寄生し』、『それを喰ったカマキリなんかの腹で育ち』、『そいつらカマキリを操って水に落としてまた卵を産む』……こんがこいつらハリガネムシの生活環だったの。
普通は、ハリガネムシの
「たとえば……こん近くの浜辺に、何かの肉が流れ着いたら。その強烈な臭いに引き寄せられて、池のユスリカやらハエやらが普通は来んはずの海まで出張って来ろお事はありえんかの」
わたしは祖父の言わんとしていることがわかってきました。
「……『蛇が浜』の屍体……」
「うむ。
もし、岬から誰かが身投げしようたら。潮の流れに乗って屍体は『蛇が浜』に流れ着く。
屍体の放つ芳醇な香りに惹き付けられ、多くの生物が集まって来るのおの。蚊やら、ハエやら、フナムシやら、魚やら……」
わたしはあの日の「蛇が浜」を思い浮かべました。どこかに隠れていた女の屍体の放つ腐臭、黒い砂浜の上に転がっていた、無数の虫の屍骸。いつになく豊漁だった釣果。
「そうして、池から寄ってきたハエを、たとえばフナムシなんかが喰ったとしたらどうなろおの。そんハエが、神池でハリガネムシの寄生したハエだったなら」
「……フナムシに、ハリガネムシが間違って寄生しちゃう?」
「そがあのお。
もっとも、フナムシは本来の宿主じゃなきゃあ。ハリガネムシはすぐにフナムシを操って水……つまり海に落としに掛かるかもしれなきゃあの。
すると、あだんなろうの」
「海に落ちたら、ええと……。
フナムシも何か、たとえば魚に食べられる?」
「うんうん! 理解が早くて助かるの。
ハリガネムシに操られたフナムシなんて、屍体に集まった魚なんかがバクバク食ろうのお。
とくにイサキなんかは水生昆虫なんかも食べちまうからのお、エサが自分から落ちて来たと喜んで喰らうのおよ。
さて、そんなある日、屍体のある浜辺にウキウキの釣り人がやってきてイサキを釣った。あだんなったち思う?」
わたしは何も言えなくなり、目を逸らしました。
それを見た兄が目をしばたきます。
「えーっと、あんまりついてけてないんだけど、
要は俺たちが寄生虫のいる魚喰ったせいってこと?」
「俺たち、って、わたし食べてないんだけど」
「何、責めとるわけじゃなきゃあ。起きたことはあだんしようもなきゃあよ。
さて、ここいらでひとつ面白きゃあモンを見せよう」
祖父は部屋の隅の冷蔵庫から試験管を取り出した。試験管の中は水で満たされ、一匹の小魚が収まっている。小魚は生きているようだが、冷蔵庫で冷やされていたせいかほとんど動かない。
そこに先ほどのハリガネムシの試験管を並べると、祖父はピンセットでハリガネムシを摘まみ上げ、魚のいる試験管の中に放った。
ハリガネムシは急な環境の変化に最初は戸惑っていたようだが、すぐに魚のまわりに巻き付くと、魚の皮膚のどこからかするすると魚の体内に入っていった。
「うわっ、ウソだろ!?」
「なに、こいつらを覆うクチクラ層は硬ったいからの、魚の薄皮ぐらい造作もなきゃあよ。
他の寄生虫で言やあ、メジナ虫なんか10センチもある虫が人間の脚からみるみるうちに入ってくるからの。こんくらい寄生虫にゃ朝飯前よ。
それより、見るべきはここからだきゃあ」
ハリガネ虫はしばらく魚の皮下を這いまわっていましたが、やがて魚の背中のほうに落ち着くと、うねうねと身体を丸め始めました。
まるでぜんまいのようにくるくる長い身体を丸め、しばらくすると身体は一つの大きな黒い点のようになりました。
その黒い点はぷっくらと魚の薄皮を持ち上げ、黒点の周囲は皮膚が浮いて周囲の脂が流れ込んでいるのかぎらぎらと光っています。
それはさながら、
「目だ」
わたしは思わず左腕をよじってそれと見比べました。
大きさに違いこそあれ、その姿は瓜二つです。
「こがあな風に、こいつらは間違った宿主に寄生すると皮下に留まることが多きゃあ。おそらくカタツムリに寄生するロイコ・クロリディウムみたいに、宿主を目立たせて食わせたきゃあのおな。
そうして薄皮の下で、渦巻きに身体を丸める。線虫なんかじゃよく見る姿だの。おかげで寄生された魚はすぐ分かる。
……よおく、見覚えがあろおの?」
わたしは祖父の言葉に、黙ってこくんと頷きました。
「こがあな魚を、島じゃ『
呪魚が獲れると、こん島じゃ『海が穢れた』と言ってしばらく海に出ない。その日獲れた魚は全部腹をかっさばいて虫が出るまで放置だの。
島民はかわりに、屍体が流れ着いていないか海岸を捜し回る。あん日も、島を回る漁師を何人も見たはずだあの」
「……なんか、話を聞いてると、島じゃいつものこと、みたいなノリだけど」
「ん。実はの、こがあなことは珍しいことじゃなきゃあのわ。
十何年かに一度あろおのよ。あん岬は、昔から身投げが多きゃあからのお」
「昔から……って、そんなにみんな自殺したいのかよ?
病み過ぎだろ……」
「んー、こん島は昔から流刑地だったからの。
島流しになって人生を諦めた者が身を投げるんは当り前だったのわな。
投げるとすりゃああん岬になろおの。島であがあに高い崖はあそこくらいだし、潮の流れが速いからまず屍体は揚がらない。
……ただ、仮にうまく流れなけりゃ必ず『蛇が浜』に流れ着く」
わたしは祖父の言葉を聞きながら、その光景を想像していました。
世を儚み、崖から荒波へ身を投じる人々。彼らは無残に膨れ上がった水死体となって『蛇が浜』に流れ着き、そこでうねうね蠢く黒い虫の餌食となって「海を穢す」。
「これはまったく儂の推測だがの、『蛇が浜』ちう名前もこん虫から来からあじゃなきゃあかと思うのよ。アスクレピオスの杖しかり、寄生虫を
ともかく、そがあに昔からこん島じゃたびたび虫が寄生した魚が揚がってあったのよ。もちろん昔の人は寄生虫なんぞ分からなきゃあから、『海が穢れた』と言って恐れてあからぁがね。
島の祭りで、注連縄を切り刻んで海に放ろおもこれじゃなきゃあかのお。注連縄は蛇の交尾を模してあると言うが、ハリガネムシも蛇と同じように身体をよじって交尾するからのお。こがあな伝統が、虫を見たらすぐ捨てろ、ちうメッセージを後世に継承してあるわけで、非常に興味深い風習と……」
「よくわかんねーけど、とにかくこの虫が寄生した魚は喰っちゃダメってことか」
「こら、人が説明しとろおが……。
ま、そらあそうだのお。どこかのあくたれは、こいつのたっぷり入ったイサキを捌いて生で喰ったそうだが」
「うっ……」兄は声を詰まらせました。
「ダメもダメ。こいつを喰うとの、そがあもういろんな症状を起こす。お前らも色々味わったはずだがの。
たとえば……まずは幻聴だの」
「幻聴? どうして」
「こん虫ががさがさ脳室を這いまわるときに、耳へとその振動が伝わるのわあ。
それを聞いたモンは、まるで後ろで誰かが歩いてあるような気がしちまう。人はくぐもった音を聴くと、脳が勝手に『後ろから耳たぶ越しに響いてくる音』だと解釈するからのお」
わたしは自室を歩く湿った足音を思い出しました。
確かにあの音はくぐもっていて、まるでどこか別の世界から響いてくるかのような音でした。
あれは文字通り、わたしの頭の中だけの音だったというのです。
わたしの脳の表面を這う、無数の黒い虫――わたしは脳裏に浮かんだグロテスクな想像を打ち切りました。
「……でも、音だけじゃないよ。そのときは一緒にすっごく生臭いにおいも漂ってきて……、
それでわたし、てっきり魚の呪いで屍体か何かがそこを歩いてるんじゃないかって」
「呪い? あっはっは!」祖父は手を叩いて笑いました。
「……笑わないでよ」
「すまん、すまんの、いや確かにそうだの、っく、あっはは……」祖父はひとしきり腹を抱えて笑った後、
「それはおそらく……
「ちくのう?」
「蓄膿症じゃ……寄生虫ちう異物を排除する過程で出た膿が、頬骨の中に溜まってあるのよ……それでなまぐさい臭いを嗅ぐんじゃ……。
しかし、それを魚の呪いとはの……うっく、ふふ……子供の想像力は豊かだの……」
「も、もういいよ! いいから、他に症状はないの」わたしは耐え切れず先を促しました。
「ふふふ……うん、そうだの、あとは腹水ちうて、お腹がぽっこり膨れることもあるの。虫の身体や卵が血管に詰まって、染み出た水が腹腔に溜まろおのよ。
わしも大学時代に住血吸虫の調査で見からあが、そん姿はさながら地獄の餓鬼のようじゃ」
「わたしたちは平気みたいだけど……」
「うん、まあ腹水は寄生虫が自家感染を起こす……つまり体内でたっぷり殖えるまでは起こらなかきゃあからのお。
幸いお前は発見が早期だったからの、そがあに繁殖は進んでなきゃあ」
これでも早期発見だったようなのです。
あと少しでも発見が遅かったら体内があの虫まみれになっていたと思うと、身が竦む思いでした。
「それからの、食欲が異様に増すこともある。
詳しくはわかってなきゃあが、寄生虫が養分を吸い取るおかげで腹が空くと考えられておる……そうそう、お前は『蛇が浜』に行ってからというもの、毎日出歩いておったの?」祖父はいきなり兄を指差した。
「えっ……まあ、友達と遊んだりとか」
「お前の友達に聞いて回ったが、誰もお前と会った者はいなきゃあそうだ」
「うっ」
「答えるんよ、お前は毎日何をしてあったんよ?」祖父は兄をねめつけます。
「それは……」
「……今更怒りゃあしなきゃあ。
正直に言いなあよ」
「…………、その、毎日……『蛇が浜』で釣りをしてました。
すっごくお腹が空いて……毎日魚のことしか考えられなくて」
「やっぱりの」祖父は肩を竦めた。
「まあ、そうだろうのお。あん日からお前の様子はおかしからあの。
今思うと、もうちっと早めに気付くべきだったの……医者失格だきゃあ」祖父は溜め息をつきました。
「そんな事ないって。
お兄ちゃんが変な事するのは今に始まったことじゃないもの、気付かないのも無理ないよ」
兄は何か言いたげにこちらを見ましたが、結局思い直したようで、
「そういえば、昨日のあれもそうなのか? 俺はよく覚えてないんだけど、その……」
「ああ、髪を喰ってあったのお。わざわざ風呂場の排水溝から採ってくるたあ、随分食欲旺盛だったみたいだの」
「うえぇ」兄は眉を顰めました。
「こがあも珍しいことじゃなきゃあ。異食症ちうて、土やら毛やらおかしきゃあモンを食べたくなるのわあ。
原因はハッキリとは分かってなきゃあが、寄生によって特定の栄養素が欠乏したせいじゃなきゃあかと言われてあるな」
「俺、相当ヤバかったんだな」兄は独りごちてから、
「……ていうか、俺、今どうなってるの? 昨日いろんな処置をされたのは覚えてるけど……」と尋ねました。
これはわたしも気になっていた点です。
結局のところ、私たちは治るのでしょうか? それとも、生涯虫を身体に住まわせながら生き続けなければならないのでしょうか?
「治ろおよ」祖父は事もなげに言いました。
「人間と寄生虫の戦いの歴史は長きゃあ。もうほとんどの寄生虫のワクチンは開発し尽くされてあらあよ。
昨日お前さんには蛔虫用のワクチンを投与させてもろわあの。ハリガネムシとはちと違うが、あと2~3回も打ちゃあすっかり駆逐できろおよ」
「じゃあ俺……助かるのか!」
「うん、来週には東京に帰れのおの。
症状も軽きゃあから、後遺症もなきゃあよ」
「えっと、わたしは……?」恐る恐る尋ねました。
「んー、すまんの……魚を食べてなからあと聞いてあったからの、ある分のワクチンはこっちに回してしもうたのわ。
たぶん魚を持った拍子に、爪の皮膚あたりから潜り込まあのおよの。恐ろしい虫だの……。
けんども、ワクチンなんかすぐ届くの。夏休み中には東京に帰れるはずじゃて」
その言葉にわたしはようやく胸を撫で下ろしたのでした。
祖父はこちらに近付き、しゃがみ込んでわたしの肩に手を置きました。
「ハルミ、魚の呪いなんかなきゃあよ。すべては科学現象で、そのほとんどは解明されてあらあの。
解明されてあるなら解決もできらあのお。怖がることなんぞ、なーんもなきゃあよ。
さ、二人ともしばらくここで過ごそうの。お母さんにゃこれから伝えるからの」
そのときの祖父のあたたかな笑顔を、わたしは今でも鮮明に憶えています。
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