目を覚ましたのは昼頃だったでしょうか。疲れが溜まっていたのか、いつの間にやら眠ってしまっていたようです。

 麦茶で喉を潤しに台所へと降りましたが、どうやら今日も家には誰もいないようです。

 やはり外出の気分でもないので、ひとり自室で宿題の続きを進める事にしましたが、どうにも昨日のことがちらついて集中できません。

 気のせいに決まっている。きっと軒下に大きめのネズミか何かが紛れ込んだだけに違いない。

 そう自分に言い聞かせてみるものの、家のどこかでみしりと柱が鳴っただけで思わず身を竦めてしまう始末でした。

 

「そうだ」


 わたしは東京から持って来た携帯音楽プレーヤーを取り出し、イヤホンを耳に嵌めました。誕生日に買ってもらったプレゼントで、勉強中にはこれで流行りの曲を聴くのがたまらなく好きなのです。

 こうすれば余計な雑音に心惑わすこともありません。わたしはテープを回してお気に入りのアイドルの曲をセットすると、社会科ノートの穴埋めを一心に進め始めました。

 1時間も経ったでしょうか。昼過ぎの空はいつしか雲がかかり、窓から吹き込む風はじっとりと湿っぽいものに変わっていました。どこからかかすかに響くテレビの音が、かえって昼下がりの静寂を際立たせています。

 わたしは社会科ノートを終え、うんと伸びをしました。まだまだ宿題は残るとはいえ、ひとまず折り返しです。

 

「ふーっ」


 集中が解けてはじめて、わたしは喉の渇きを自覚しました。ただ部屋で書き取りをしているだけでも、存外に汗をかいていたようです。

 わたしはテープを止めると、イヤホンを外しました。

 

 ひたり

 

 それは最初、どこか遠くの方から聞こえました。

 水分を含んだ、足音のような音です。

 

 ひたり

 ひたり

 

 足音はわたしの後ろ、廊下のほうから聞こえてくるようでした。

 

 ひたり

 

 ひたり

 

 2階にはわたしの部屋と兄の部屋、それと物置になっている小部屋しかありませんから、足音がするとすればそれは兄しかありえません。

 真っ昼間からお風呂にでも入ったのだろうか。わたしは兄に注意しようとして、ふと妙なことに気付きました。

 

 ひたり

 ひたり

 ひたり

 

 足音というのは普通、近付いたり遠ざかったりするものです。

 ところがその音は大きくも小さくもならず、つねに同じ距離から響いてくるのです。

 まるでそれは、足音を録音したテープを何回も再生し続けているかのような、どこか現実的でない音でした。

 

 ひちゃり

 

 ひちゃり

 

 ひちゃり

 

 足音はしだいに生々しさを帯びてきます。

 わたしは動く事も出来ず、ただ足音に耳をそばだてているしかありません。

 そうして何分が経ったでしょうか。

 

 ひちゃり

 

 ひちゃり

 

 ひちゃり

 

 ふいに、足音が大きくなりました。

 足音は明らかに、この部屋の中――わたしのすぐ後ろから聞こえてきます。

 しかし、それはありえません。わたしの部屋の扉は閉めてあるのですから、何かが廊下から部屋にやってきたなら必ず開閉の音がするはずです。

 

 ひちゃり

 

 ひちゃり

 

 ひちゃり

 

 ひちゃり

 

 足音はねっとりと湿気を孕んでおり、不定期に床から響き渡っています。

 それと共に、どこからか鼻を刺すような悪臭が漂い始めました。鼻の曲がるような、饐えた臭い。

 ちょうど、あの浜辺で嗅いだような臭気です。

 昨日見た、魚の腹に詰まった髪の毛がわたしの脳裏をかすめました。

 

 ひちゃり

 ひちゃり

 ひちゃり

 ひちゃり

 ひちゃり

 

 足音は少しずつ間隔を早め、わたしの後ろを動き回っています。

 わたしはぎゅっと目を閉じ、それが過ぎ去るのをじっと待ちました。窓からは相変わらず遠くの家のテレビの音が聞こえていましたが、それはどこか違う世界のものに聞こえました。

 ――と、ふいに足音が途切れました。部屋を満たす臭気もいつの間にか消えています。

 わたしは額に汗がにじむのを覚えながら、おそるおそる後ろを振り向きました。ほんのわずかに首を動かすだけのことが、これほど恐ろしかったのは初めてです。

 部屋には何もいませんでした。部屋の扉ももちろん閉められており、何かが入った形跡など微塵もありません。

 聞き間違い、だったのだろうか。

 わたしはふうと一息つき、もう一度あたりを見回しました。

 そのとき、わたしの目にあるものが留まりました。腰を上げ、部屋の床に落ちていた「それ」を拾い上げます。

 

 それは、数本の黒い髪の毛でした。





「……はー、婆ちゃん、おかわり!」


 兄はすっかり平らげた茶碗を掲げると祖母に叫んだ。


「うれー、よきゃあもねぇ……もうこがんで飯は無きゃあよお」


「えぇー!? 足りねえよ! 婆ちゃん、明日は五合炊いといてよ」


「まあ、こがあじゃ米が無くなろのおで……」


「よきゃあよ、こがあ歳ののご子がいっぺえもおは当たり前だわあ」


 祖父は笑って祖母をいさめます。

 わたしは横で夕食を囲む兄を見つめました。兄は食い足りないと言わんばかりに、皿に残ったソースを嘗め取っています。

 明らかに、兄は食べる量が増えていました。毎晩おかわりの回数が増えています。今晩などはお茶碗一杯のご飯を7杯もおかわりしていました。

 兄は、魚の料理法にこだわるなどグルメなところはありましたが、決してよく食べるほうではありませんでした。むしろ線が細いので心配される方の部類です。

 それが、今の兄はどこかふっくらとし、頬にも張りが出てきていました。育ち盛りと考えれば不思議ではないかもしれませんが、それにしても急な変化です。

 こうも兄が変わったのはいつからだったか。

 そういえば、おおよそ一週間前からだった気がする。

 それはちょうど、わたしたちが「蛇が浜」へ釣りに出かけた日でした。

 

「そがんだら、今日も友達んとこしゃ遊び行からあか?」


「うん。最近はヨコヤのシンちゃんとこ行ってる、二人でゲームしたりして」


「そがあ楽しきゃあのお。

 ところで、晴美はこがんは何してあるんか?」

 

「……え、わたし?

 わ、わたしは宿題をしてあるわあ」

 

「そがんか。偉きゃあわあ。

 けんど、あんまり根ぇ詰めんなきゃよ」

 

「……大丈夫だよ」


「そがんか? そがあらよきゃあけんど。

 や、ずいぶん顔がこわきゃあからわあ」

 

「そう……」


 わたしは会話を打ち切ると、祖父から顔を背けるようにテレビを見つめました。しかしテレビ番組の内容など頭に入る状況ではありません。

 実のところ、わたしはもう宿題どころではなくなっていました。祖父の言う通り、わたしの顔には疲れの色が滲み、口数も少なくなっていたでしょう。

 わたしは目をつぶってテレビの音に意識を集中し、周りの音を聞くまいとしました。しかし、

 

 

 ひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃり

 ひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃり

 ひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃりひちゃり

 

 

 居間のいたるところでおびただしい数の足音が響いており、テレビの音も兄の騒ぐ声もその喧騒に掻き消されていました。

 無数の足音はいつしか独りの時も、家族の前でもお構いなしに響き渡っていました。

 

(どうして……? 『彼女』だけじゃなかったの……? 何人いるの……!?)


 足音に意識が向いた途端、またしてもあのなまぐさい臭いが鼻を刺し、晩ご飯を戻しそうな気持ち悪さに襲われます。

 ふらふらとした足取りで2階の自室へと戻りましたが、足音はぴったりとわたしに着いてきてわたしの周りを動き回ります。わたしはここ2、3日眠れていませんでした。

 ふいに、左腕にずきりと鋭い痛みを覚え、パジャマの袖をめくりました。そこには相変わらず、あの日見た「目」が浮かんでいます。「目」はじっとわたしを見つめていました。心なしか、数日前より大きくなった気さえします。

 思えば、あの魚にもこの「目」はありました。そうして今度は、魚を釣り上げたわたしの腕へ。

 もしかするとこの「目」は、屍体を喰った魚が「穢れた」ために表れた異常なのではないでしょうか。あの魚は死肉を喰らったことで、穢れた魚……いわば「呪魚」とでも呼ぶべきモノに成っていたのです。そうして「目」は魚から、それを釣り上げたわたしへと移ったのです。「穢れ」と共に……。

 いや、これはあまりに突飛な考えです。第一、もしそうならどうして兄にはこんな異常が表れていないのでしょうか。兄は魚を捌いて食べてすらいるのです。それなのに兄には異常な様子など見られないばかりか、あの日以来食欲も増し、元気になっているようですらあります。

 わたしは部屋の灯りを消し、布団へと潜り込みました。しかしどうしたわけか、足音はまるで弱まる事なく、鮮明に私の脳を揺さぶるのです。まるで足音が頭蓋の中に直接響いているかのようでした。

 小一時間、わたしは眠りの世界に落ちようとこころみました。しかし不規則に鳴り続ける足音はわたしの意識を掻き乱し、どうすることもできないままわたしは布団の中で耳を塞ぐことしかできませんでした。

 と、ふいに足音の中に別の音が混じりはじめました。

 それは、女の声のように聞こえました。

 

「アア…………アアア………………アハメ………………アガノオ…………………」

 

 か細い女の声が、虫音のように部屋を徘徊しています。

 わたしはびっしょりと汗をかきながら、布団の端を抑えていました。

 今、この布団をまくっちゃ駄目だ。

 何故だかそれは明白にわかりましたので、わたしは布団を掴みながら目をつぶり、懸命に好きなアイドルの曲やテレビ番組のことを考えてやり過ごそうとしました。

 しかし、数十分は経ったでしょうか、どれほど待っても声は消える気配がありませんでした。それどころか、むしろわたしの布団に近付いているような、薄布1枚隔てたすぐ上で何かを囁いているような、そんな気さえしてくるのです。

 そのとき、ふと左腕に妙な感触を覚えました。表面で何かが動いているかのような、ぞわぞわとする不快な感覚です。

 わたしは目を開き、布団の端を抑えている左腕のほうを見ました。

 あまりの暗がりのせいで、最初はそれが何かわかりませんでした。

 しだいに目が慣れるにつれ、わたしの左腕と、そこにあるものの輪郭がぼんやりと浮かび上がってきます。

 布団の端がわずかに開き、そこから伸びた白い腕がわたしの左手を掴んでいました。

 呼吸が止まりました。冷え冷えとした感覚がわたしの胸に昇ってきます。

 布団はそのまま別の腕によってゆっくりと持ち上げられ、何かがしずかにわたしの目の前へと迫ってきました。

 白い女の顔です。

 濡れた長髪がわたしの顔にかかりました。女の顔には目のあるべき場所に何もなく、かわりにいくつもの黒い点がぽつぽつと顔の表面に浮かんでいます。

 それはすべて魚の目でした。無数の魚の目がびっしりと、まるでフジツボのように女の顔に穿たれ、底知れない穴のような黒い目でわたしをじっと見つめていました。

 わたしは思わず叫び声を上げました。

 

 

 

 

 そこで目が覚めました。

 わたしの部屋は闇の底に沈み、枕元の時計は午前2時を示しています。

 

「夢……」


 わたしはゆっくりと上体を起こし、まわりを見渡しました。何の変哲もない、わたしの部屋。先ほどまでの足音もいつの間にか止んでいます。

 額の汗をぬぐったあと、わたしは深いため息をつきました。

 そこで、わたしは強烈な喉の渇きを覚えました。ひどく汗をかいたためでしょうか。

 階下に水を飲みに行こうか、と腰を上げようとしたそのとき、わたしはかすかな物音を耳にしました。

 

 ぴちゅ、しちゅ

 ずずず

 

 粘り気のある水音のような、くぐもった音でした。

 それは下から聞こえてきます。

 いつもなら、わたしは音を聞いただけで震え、布団をかぶっていたでしょう。

 しかしそのときのわたしは、

 

 ……どうして、わたしがこんなに怯えなきゃならないんだ。

 

 妙ないら立ちのほうが先に湧き起こり、不思議と恐怖を感じませんでした。今にして思えば、それは恐怖を打ち消すために無意識がひねり出した精一杯の怒りだったのかもしれません。

 布団をはねのけて立ち上がると、そろりそろりと部屋の扉を開け、廊下に出ます。八月も半ばと言うのに、家の中はどこか底冷えするような空気に満たされているような気がしました。

 そのまま壁に沿って、物音を立てぬように慎重に階段へと歩みを進めます。やがて左手が壁の曲がり角に達しました。階段の入り口です。

 木製の手すりをつかみながら、一歩、また一歩と闇よりも暗い漆黒の中に身を沈めていきます。足を降ろすごと、木造の階段がかすかに軋んで音を立てました。

 永遠にも思える時間でしたが、実際には1、2分も掛かっていなかったのではないでしょうか。わたしは階段を下り、1階の玄関廊下へと身を乗り出しました。

 水音は変わらず鳴り続けていました。どうやら、音は台所のほうから聞こえているようです。

 1メートル先も見えない暗闇の中を、わたしは手探りで歩きだしました。台所は廊下から襖を開き、居間を突っ切った先にあります。

 わたしはそっと両手を前に突き出し、居間の襖のほうへと進みました。一歩、二歩、三歩――そろそろ、両手の指先が襖のどこかに触るはずです。

 しかし、手先が襖に当たる事はありませんでした。かわりに、わたしの足が敷居をまたぎ、畳を踏みしめた感触を伝えました。

 居間の襖が開いているのです。

 祖母は几帳面な人間ですから、いつもかならず居間の襖を閉めていました。襖を開け放していると、外から居間の窓を見た時に奥の部屋まで丸見えになってしまいます。祖母はそれが恥ずかしいようでした。

 まいにち最後に居間を出るのは祖母のはずですから、寝る時は絶対に居間の襖は閉ざされているはずなのです。

 どうして。祖母が珍しく襖を閉め忘れたのか。

 それとも、誰かが開けたのか。

 わたしはぎゅっと手を握りしめ、闇に包まれた居間をそろり、そろりと歩き始めました。

 一歩踏みしめるたびに畳がざりざりとわずかな音を立て、周囲の闇の中に反響します。これほどの闇の中にいると、わたしは世界に一人になってしまったんじゃないか、などというありえない疑念がふつふつ湧き上がり、どうしようもない孤独感がわたしの足先から背中を這い上がってくるようでした。

 

 しちゃ、しちゅ

 はちゅ

 

 水音はいよいよ大きくなり、わたしのすぐ目の前、台所で響いているのは間違いありません。

 そのとき、わたしの左手がふいに壁へと当たりました。

 わたしはそのまま壁をまさぐります。果して、壁の真ん中、そこには四角い突起が盛り上がっていました。わたしはその突起をひねります。

 パチン、という音と共に、台所の電灯が点きました。

 暗がりに慣れきっていたわたしは思わず目を細め、そうしてからゆっくりと、目を開きます。

 台所には人影が立っていました。

 

「……なんだ、びっくりさせないでよ、もう……」


 兄でした。

 兄の背中が、台所の流しに屈みこみ、がつがつと何かを貪っています。

 よほど空腹に耐えかねたのでしょう、この男は余り物を漁りに深夜の台所へと忍び込んでいたのです。

 

「お兄ちゃん、ばあちゃんに怒られるよー。

 ご飯なら我慢しようよ」

 

 わたしは呆れ返りながら、兄へと呼び掛けました。

 

 はちゅひちゅ

 しちゅ

 

 兄はわたしの声に振り向くことなく、食事を続けていました、

 まるで動物のように首を上下させ、流し台の上のものに貪りついています。

 

 ずずず

 ずぞぞぞ

 

「……お兄ちゃん?」


 何かが変だ。

 なんとなく、そう思いました。

 兄は、まるで機械のように、首を上下させ続けています。

 

「お兄ちゃん、本当どうしたの。

 ほら、寝よ。お兄ちゃん……」

 

 わたしは意を決し、兄のもとへと近寄りました。

 兄は流しの上にこぼれた何かを、一心不乱に嘗め取っています。

 

「お兄ちゃん、寝ようよ。

 お兄ちゃん」

 

 わたしはついに兄の肩に手を掛け、半ば強引にこちらを振り向かせました。

 

「…………」


 兄はぼうっとした表情を浮かべていました。

 目はうつろに宙を彷徨い、何の感情も読み取れません。その目はわたしに、魚の目を想像させました。

 兄の頬はふくらみ、なにかを口いっぱいに頬張っているようでした。半開きの口からは食べかけのそれが垂れ、顎からシャツの胸元にかけて纏わりついていました。

 それはおびただしい量の長い黒髪でした。

 

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