兄はしばらく固まっていましたが、やがて拳を握り直すとぶらぶら揺れる魚に近付いていきました。わたしも辺りを警戒しながら広間へと足を踏み入れます。

 近くで見ると、魚はみな同じような青魚でした。おそらくイサキが最も多かったでしょうか。なんの感情も感じ取れない魚の目がびっしりと、まるで孔雀の羽根の紋様のように並んでこちらを見ていました。わたしはこのとき、初めて魚にぞっとするような気持ちを覚えました。

 

「誰が、こんなことを……」

「……血がまだ赤けえ。こいつらが吊り下げられたのは、そんなに前じゃない。1時間前とか、もっと最近か……」


 わたしはふと、ここに来るまでに環状道路ですれ違った大人達を思い起こしました。彼らはだいたい村の漁師さんで、漁船で着るカッパに身を包み、なまぐさい魚の臭いを漂わせていました。いつもの光景なのでつい見過ごしていましたが、考えてみれば港もない方向から仕事姿の漁師が集団で現れるはずがありません。

 彼らがこれをやったのでしょうか。朝早く、獲れた魚を手に森の奥の廃神社に向かい、腹をさばいて吊り下げる。

 なぜ? 何のために?

 分かりません。ただ、とにかくこれは見てはならない、関わってはならない――本能がそう叫んでいました。

「お兄ちゃん」わたしはおそるおそる呼び掛けました。「帰ろうよ」

 兄は魚を見ながらしばらく考え込むような表情をしていました。わたしは今にも走り出したくなるのをこらえ、じっと兄の袖を掴んでいたことを覚えています。

 数分ほど経った頃でしょうか――わたしには永劫にも思えましたが――、やにわに兄が口を開きました。

 

「釣りに行こう。ここの裏を降りれば蛇が浜に着くはず」


 わたしは兄の言葉を理解できず、しばし呆然としていました。

 しかし兄が社殿の向こうへと足を踏み出したのをきっかけにはたと我に返り、

「何言ってんの!? 明らかにここ、おかしいよ! 変だよ!」と言葉を浴びせました。それは絶叫にも近しいものだったかもしれません。


 ところが兄は、あっけらかんとした口調で言うのです。

「干してるんだろ。魚」

 わたしは茫然としながらも、ようやく口を開きました。

「そんなわけ……だってこんな、神社の壁に、腹を切っただけの魚を……」

「そういうモンなんじゃね? それかお供え、みたいな。俺、こういうの詳しくないしさ。

 つかビビりすぎじゃん、お前? どうした? お腹痛いか?」

 この状況に兄は違和感を覚えるどころか、こちらを指さしてげらげら笑うのです。

 その表情には虚勢や葛藤といったものは微塵も感じられず、わたしは信じられないものを見る目で兄を見つめていました。

 兄は昔からこうなのです。一度兄が足を滑らせて崖から落ちた時も、90度ねじれて紫色になった足首を見下ろし、あたかも指先を紙で切った程度のリアクションをした後そのまま遊びに行ったのを思い出しました。

「じゃ、行こうか。まごまごしてっと置いてくぞ」

 そう軽口を叩きながら、兄はひょいひょいと崖を降り始めました。こうなると、残されたわたしも着いて行かないわけにはいきません。兄は一度こうと決めると人の話を聞かない性分なのです。

 仕方なく、わたしは岩場を慎重に降りることだけに意識を集中させることにしました。





 神社の裏手に「蛇が浜」はありました。

 森を抜けた先は切り立った崖になり、十数メートル下で波頭が渦巻きうなりを上げています。岩がちのこの島と言えど、ここまで高く海へとそそり立つ崖は見た事がありません。

 そんな崖の手前、地図で言うと尾根が二股に分かれるY字の分岐点のところに「蛇が浜」への入り口はありました。ここでは岩肌が崩れてなだらかな傾斜をなしており、樹々の枝を手すりにしながらかろうじて浜へと降りる事ができるのです。

 

「おっ、やっぱりいい感じの釣りスポットじゃんか。潮の通りも抜群にいい」


 「蛇が浜」は海へせり出す岬と岬のあいだに出来た、小さな海岸でした。小さな、と言ってもその幅はゆうに50メートルはあり、ちょっとしたキャンプならまったく不自由なく出来るほどのサイズなのです。

 海岸はこの島でよく見られるように黒い砂利でできていましたが、潮が激しく当たるせいでしょうか、他のどの海岸で見るよりも石粒が小さく削れていました。

 砂利の上にはそこかしこにわたしたちの背丈を超える大岩が散らばっていました。おそらく隣の岬から崩れた岩が流されてきたのでしょう。

 海岸にはそのほかにも流木やゴミ、フナムシや魚の屍骸など、さまざまなものが流れ着いて波打ち際にベルトを形成していました。寄せては返す波に揺られ、さまざまな物体がまるで呼吸をするように蠢くさまは少し不気味でもありました。

 

「こりゃいいねえ! あの岩の上なんか登ったら楽しそうじゃん」


 はしゃぐ兄を尻目に、わたしは少しの違和感に囚われていました。

 なまぐさい。未だかつて嗅いだ事のないほどの饐えた臭いが立ち込めているのです。

 それは先程神社で嗅いだ臭いとはまた別の、どちらかと言えば干物工場から漂って来る臭いに似ていました。吐瀉物を拭いた雑巾の臭い。排水溝に溜まった生ゴミ、腐った卵の臭いです。

 とはいえ、ついさっきあんな事があったばかりに、兄に相談するのははばかられました。このことを兄に漏らせば、きっと兄はまたしても「やれやれ」という表情を浮かべてこう言うでしょう。

 

「海ってのは生臭いもんだろ。特にこれだけ魚の死骸が打ち寄せてんだから、そりゃちょっとくらい臭うさ。

 お前、ビビり過ぎだろ……そうだ、日が暮れた後で上の神社で肝試しでもするか?」

 

 わたしは兄の幻影を打ち消し、鞄から釣竿を取り出しました。

 

「お前、見とけよ! お兄ちゃん、喰い切れなくてゲボ吐くくらい釣ったるからなあ、お前」


「ゲボは吐かないでね」


 わたしはちょうどいい大きさの岩に腰掛け、荒れる水面にそっと釣り糸を垂らすのでした。

 

 

 

 

 果たして兄の言う通り、魚はみるみる釣れました。

 キビナゴ、メアジの小魚に始まり、アラハダ、カマス、イサキ、果てはシイラやマダイまでが争うように釣り針へ噛み付いてきました。あまりに釣れるので持参のバケツではまったく足りず、小魚は次々リリースしないと間に合わないほどでした。

 特に兄が釣り上げたウメイロは今回のハイライトで、兄は見るなり「ひゃ~~っ」という奇妙な声を上げて岩から転げ落ちそうになりました。

 そうして1時間も経った頃には選別に選別を重ね、兄のバケツにはチビキとウメイロ、わたしのバケツにはイサキとサバ、カマス、アラハダ、それとキビナゴが数匹が泳いでいました。

 カマスとサバはともかく、イサキはそこそこ釣った事がある。嫌いではないが、とりたててキープしておくものでもないような気がする……。

 わたしは一息ついて釣竿を置くと、釣果を取捨選択をするべくバケツを引き寄せました。バケツの中で蠢くサバ、カマス、アラハダ、キビナゴ、そしてイサキ。


「……?」


 ふと、イサキに違和感を覚えてわたしはイサキを捕えました。釣竿で引き回したイサキはかなり弱っており、水から引き上げても抵抗する素振りはありません。こうして見ると精巧なフィギュアを手にしているかのようです。

 手にしてすぐ、わたしの違和感の原因はわかりました。

 イサキの背中、背ビレの脇あたりに、ぽつりと黒い点が浮かんでいます。大きさは10円玉ほどでしょうか、皮膚1枚を隔てた下から透けて見えているようでした。

 それはちょっと見るとただの汚れにしか見えませんが、目を凝らすとその黒点をぬめぬめ光る銀色の円が取り囲んでいるのが見て取れます。黒点と円はわずかながらぽっこりと膨らみ、たんこぶのような丘をなしていました。

 

「目だ」


 それは紛れも無く魚の目でした。先ほど神社で嫌と言うほど見たような機械的な目が、青黒い薄皮の下からじっとこちらを見つめているのです。

 血だまりか何かがそう見えているだけかとも思いましたが、このような血だまりは見た事がありません。

 

「お兄ちゃん、このイサキ、目が3つあるんだけど」


「目が? あれかな、畸形ってやつかあ」


「そうなのかな……? わかんないけど」


「よかったなお前、畸形の魚ってのは場所によっちゃめでたいんだぞ。ヒルコ様が宿ってるとか言ったりして」


「はあ……。

 なーんか3つ目ってキモい気もするけど……」

 

「とにかくレアなんだから喜べって。

 せっかくだから食べようぜ、それ」

 

「えっ、これを……?」


「『蛇が浜』初釣り記念ってことでさあ。

 ほら、兄ちゃんの分けたるから」

 

 それからしばらくの間釣竿を垂らしましたが、さっきまでが嘘のように魚が掛からなくなり、最終的に残った魚はイサキとアラハダの2匹になりました。

 

「そろそろ十分だな。爺ちゃんにバレたくねえから、ここで食い切っちまわないといけねえし」兄はいつものようにまな板を取り出すと海水で洗い、びちびち暴れるイサキを押さえつけていました。わたしはその間に手頃な石を組み、即席の五徳を作りはじめます。手慣れた分担作業です。

 どの魚も、生でも塩焼きでも楽しめる充実のラインナップです。イサキは大きいので刺身と塩焼きにできるだろう。ウメイロは名前こそ聞くものの、こうして食べるのは初の高級魚。やはりはじめはシンプルに生でいただくのがよかろう。アラハダなどは脂の乗った塩焼きにかぼすを数滴垂らすのが本当に好きなのだが……、などなど、想像はとどまるところを知りません。「蛇が浜」を訪れた当初の沈んだ気分は一転、いったい何がわたしの舌を楽しませてくれるかと涎を抑えるのに苦労しながら、わたしはいそいそと焚火の燃料を探しておりました。

 あちらこちらから拾い集めた乾木を重ね、ちょうどいい焚火が組み上がったときのことです。

 

「うわっ」


 兄の声でした。

 見ると、兄は岩の上にまな板を敷いて魚を捌いているところでした。捌いている魚はイサキでしょうか。兄は包丁を手にしたまま、イサキを異様な形相で見つめています。

 

「どうしたのお兄ちゃん、小骨でも刺さった?」


 わたしは兄のそばに立ち、そこで初めて叫び声の理由を理解しました。

 イサキはよく研いだ包丁によって綺麗に三枚に下ろされ、ぷりぷりと引き締まったはち切れんばかりの身を震わせていました。その手前にはイサキの腹から取り分けたワタが散らばり、赤黒い表面はぬめぬめと輝いています。そのうちのひとつ、大きなワタ――おそらく胃腸でしょう――がこんもりと膨れていました。

 わたしは当初、イサキに何かがあったのかと思いその表面をじっくり見つめてみましたが、何一つおかしなところはありません。兄のことだから、あまりに大きく美しい身なので感動のあまり声を震わせたのじゃないか――などとほくそ笑んで兄の顔を見ると、兄はどうやらまな板の隅、イサキではなくそのワタのほうをじっと見つめているようなのです。

 ワタがどうしたのか、とワタを見てみると、確かに奇妙な点がありました。ワタが異様に大きいのです。

 イサキから取り出したワタはこぶし大に膨れ、よくこれが腹の中に納まっていたと思わせるほどです。

 とはいえ、それ自体は珍しい事ではありません。取り出したワタから未消化の小魚が出てくること――島の漁師は「ヒルコさんのお宝」と呼んでいる――はわたしたちも何度か遭遇しており、よほど傷んでいなければさくっと焼いて食べることもありました。

 しかし、それにしても大きな小魚です。それとも、数匹の魚を一遍に呑み込んでしまったのか……などと考えながらワタをめくると、ワタの裂け目から黒いものが手に纏わりつきました。

 それは髪の毛でした。

 ひっくり返ったワタを見ると、包丁を入れた切れ目からみっちりとおびただしい量の髪の毛が詰まっているのがわかりました。

 

「ひっ」


 思わずワタをほおり投げると、ワタから大量の髪の毛が剥がれ落ちてイサキの身の上にびっしりと纏わりつきました。それらの一本一本が黒く長く、おそらく女性の髪であることは間違いありません。その多さとぬめり気から、つい風呂場の排水溝を想像してしまったのはわたしだけではないはずです。


 結局この日、わたしは魚をひと切れも食べることはありませんでした。兄は切った以上もったいないからとイサキだけ食べていましたが、なんとも言い知れぬ表情で身を噛みしめていたことは印象強く覚えています。

 そのほかの魚は逃がし、わたしたちは逃げるように「蛇が浜」を後にしました。家に着くまでにも何人もの妙な島民とすれ違いましたが、夕闇のおかげもあってなんとか身を隠すことができました。彼らが何故かしきりに海のほうを見ていたのもその助けとなりました。

 家に帰ると祖父母はともに家を空けており、わたしたちの外出が発覚することはありませんでした。

 ほどなく祖父母が帰ってきましたが、わたしは体調が悪いと嘘をついて夕食を断り、すぐさま布団に入りました。とにかく疲れており、一刻も早くさきほどの記憶を薄らげたいという感情が頭を支配していました。

 

 

 

 

 次の日、相変わらず祖父母は朝食を食べるとすぐに着替え、どこかへ行ってしまいました。

 また兄も友達の家に行くと言い、家にはわたしひとりがぽつんと残されてしまいました。

 そのときのわたしは、昨日見たのは何かの間違いじゃなかったかと心を落ち着けているところでした。消化物の何かが髪の毛のように見えたに違いない、だって髪の毛であるはずがないのだからと。

 かといってひとりで釣りに出る勇気も出ず、わたしは念のため持って来ていた夏休みの宿題をこなすことにしました。毎年「今年こそは帰省中に終わらせよう」と意気込んで持参するのですが、島では毎日遊びに明け暮れ、結局やらずじまいで東京へと持って帰っていた宿題についに手を出したのです。

 昨日の事を考えまいとする無意識のせいなのでしょうか、2階の部屋で机に向かってノートを開くと不思議に雑念が消え、わたしはいつにない集中力でカリカリと鉛筆を動かしていたのでした。

 

 ですから、最初はなかなかそれに気づきませんでした。

 きっかけはふとしたことです。時間も昼下がりを回り、漢字書き取り練習帳を1冊終えたとき、ふいに下からごそごそと音がするのが聞こえました。

 それは床の上で何かを引きずっているような音でした。ゆっくりと下の階を動き回っているのがわかります。

 わたしは祖父母か兄が帰ってきたのだろうと考え、書き取り練習帳の2冊目を開きました。

 その後も音はたえまなく続きました。わたしは流石にいらいらしはじめ、きっと落ち着きのない兄だろうと思って注意をしようかと考えました。

 そしてそのとき気が付いたのです。

 祖父母の家は壁も床も薄く、下の階で大きな音がすれば丸聞こえです。

 そうしてわたしの部屋の下は玄関になっています。ですから、誰かが帰ってくればガラガラというガラス戸の音がするはずなのです。大きな音ですから、いかに宿題に集中していたとはいえ気付かないことはありえません。

 相変わらず下の階では、ごそごそという音が響いていました。何かを引きずるような音――といっても、何かを引きずっているのであればその人間の足音も聞こえるはずです。

 何かを引きずる音、というより、何かが這っている音ではないか。

 そう気付いたとき、わたしは背筋に冷たいものが這い上るのを覚えました。階下を確認しにいこうか。いや、そんな勇気は無い――それどころか、今立ち上がった瞬間に階下の「それ」に気付かれるのじゃないか――そんな想像さえ浮かび、わたしは呼吸が浅くなるのを抑え、つとめて冷静に漢字の書き取りを続けました。

 やがて1、2時間ほど経ったでしょうか。ガラガラとガラス戸の重い音が響き、兄の「ただいまーっ!」という元気な声を耳にしたとき、わたしは思わずほーっと息を吐いてしまいました。

 

 

 

 

 その夜、祖父母はなかなか帰りませんでした。いつもは窓の灯りが浮かぶ町並みも今日は闇の底に沈み、かと思えば時折車が何台も道路を飛ばす音が夜闇に響きました。いつも夜遅くに車が通ることはありえず、何かが起こったのではとも思いましたが、思い当たることは特にありません。

 祖父母が帰ったのは夜の10時を回った頃になりました。常より多忙な祖父でしたが、これほど遅くなることはまれです。

 帰ったばかりの祖父はどっと疲れ込んだ顔をしており、寝間着に着替えるとすぐさま寝室に入ってしまったので、わたしは結局祖父が遅くなった理由を知らずじまいでした。

 事情を知ったのは翌朝、祖母とお隣さんの小話を小耳に挟んだときのことです。

 

「……うれだわぁ、昨日、駐在さんが言おは本当なんかあ?」


「……こがあ前に……本土くにから来よ娘がわぁ……一昨日にゃあ飛び込んであろって……」


「……タケダさんの若け衆が見っけろおで……そがあもう酷きゃあかまろじゃて、そがん場でみんな揃おて吐からあに……」


「……揚がろわあは西んとこん浜じゃろ? そがあら、きっと岬から身ぃ投ごおのが流れ着いて……」


「……身体が大岩ん下しゃ挟まり込んで、引き揚げろがしんどからしかったと……水ぅ吸ってぶよぶよんなって、中しゃ引っ掛かって引っちぎれわあで……」


「……ひどきゃあ話だわあ……とうぶんは海が穢れらあねえ……」

 

 なんとも生々しい話でした。わたしも東京に帰ったあとで当時の地方紙を当たってみましたが、数行ほどの記事が紙面の隅に載っていたのを覚えています。。

 お隣のおばさんの言葉を聞いた時、わたしはふと、同じような言葉を耳にしたのを思い出しました。祖父も、「海が穢れた」と言っていたはずです。

 そうしてわたしは「蛇が浜」に足を踏み入れたときの強烈な異臭、「蛇が浜」に打ち寄せられていた大きな岩、そしてイサキのワタに詰まっていたものを思い起こし、思わず吐き気がこみ上げるのを覚えました。

 やはり、あのイサキの胃に入っていたのは人間の髪だったのです。兄が食べたイサキは、わたしたちのいたあの浜辺のどこか……岩の下に流れ着いた屍体を食べていたのです。

 いえ、イサキばかりではないでしょう。あの日「蛇が浜」で驚くほど釣れた大量の魚……あれは潮通しのよさのおかげなどではなく、「彼女」の臭いに引き寄せられて集まった魚にほかなりません。どの魚もきっと「彼女」をついばみ、腹の中は想像したくもないもので満たされていたはずです。

 あのとき、異臭の原因を気にしていれば。あるいは、海岸の岩の下を覗き込んでいれば……。

 禍々しい想像がとめどなく掻き立てられ、わたしはたまらず自室へ駆け戻りました。布団へ潜り込んで気持ちを落ち着けようとしたとき、ふと左腕の違和感に気付きました。

 左腕の外側のあたりが妙に痛いのです。それは肌を擦り剥いて皮がめくれたときのような、厭な痛みでした。

 わたしはパジャマの左袖をめくり、左腕を自分に向かってねじりました。

 それは、血豆のように見えました。薄皮の下の血だまりが、ぷっくりと膨らんでいるように。

 しかしそれは10円玉ほどの大きさで、血豆というにはあまりに大きすぎました。何より、よく見ると黒い点の周りは白く光る円で囲われ、それはちょうど――

 

「目だ」

 

 

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