それが起こったのは、わたしが小学校の時分だったと思います。

 わたしには中学生の兄がおり、夏休みには兄と2人でH島の祖父の家に2週間ばかり預けられるのが恒例でした。

 H島は知っての通りO島より遥か南、黒潮の真っただ中に位置する島です。黒潮のおかげで気候は温暖、魚も豊富に獲れます。

 当時はまだ今のように真夏の暑さはひどくありませんでしたから、兄は島に着くなりわたしを連れ回して毎日釣りやら探検やらに出掛ける日々を送っていました。

 わたしも強引な兄に小言を言ってはいたものの、自分で釣り上げた大物の魚は格別のおいしさで、ついつい朝から夕暮れまで兄に付き合ってしまう有様でした。

 わたしたちを預かる祖父母は本当に優しい人で、わたしがやんちゃのあまり釣竿を折ってしまった日など、翌朝には何万もするようなカーボンの釣竿を用意してくれていたこともあります。もっともその釣竿もすぐに壊してしまったのですが……。

 

 そうそう、H島について説明しておきましょう。H島には港が2か所あって、一般には「北港」と「東港」などと呼ばれています。H島への定期連絡船は、その日の海の状況しだいで停泊する港を変えるんです。未だにそんなシステムが成り立っているなんて信じられないでしょう? とっても大らかなところなんです。

 島の中心部となる集落は「東港」の位置する島の東岸部、小さな入り江に沿って栄えています。絵の具を何種類も混ぜたような青黒さを湛える海と、険しくそそり立つ山肌のあいだに何段もの石垣を積んで、すっかり色落ちした青や赤のトタン屋根がほそぼそと連なっているのです。

 家々のすぐそばに迫る海辺はコンクリートで護岸され、何艘もの漁船が波に揺られています。漁船と言ってもよく見るFRP……樹脂製のものばかりじゃなく、いまだに木造のものも並んでいるような状況です。塗装が剥げ、あらあらしい木肌が露出した船の上で、色とりどりの大漁旗が強い海風にはためいている……そんな情景が今でも鮮明に浮かびます。

 入り江の端、家々がとぎれとぎれになる辺りでは魚の干物を漬ける工場が並び、風向きによっては鼻の曲がるようななまぐさい臭いが窓から流れ込んできたものです。

 とにかくH島の島民はほとんど「東港」に住んでいて、あとは「北港」まわりの小さな集落と、それから沿岸にぽつぽつ数件のごく小さな集まりが――今風の言い方で言うと「限界集落」というやつでしょうか――点在しているばかりの島でした。もちろん知っているでしょうが、あのあたりの島はすべて火山島ですから、島の内陸は山々が占めていてとても住める場所ではありません。また、どういうわけか島の南西部にもまったく人家はありませんでした。

 人も殆どおらず騒ぎも無い、静かな島です。

 

 ただ、数年に一度「お祭り」の日だけは違います。集落の外れに位置する、「ヒルコさん」と呼ばれる神社のお祭りで、島民が「東港」で一堂に会して飲めや食えやの大騒ぎとなります。お祭りの最後、神社の注連縄を刻んで海に放る神事――たしか、厄を注連縄に託して祓うとかそんな意味合いの行事でしたが――では島民が入り江の周りを囲み、その囃し声は島の真裏まで響かんばかりです。あのときこっそり村の漁師さんに飲ませてもらったお酒は、ちょっぴりほろ苦い大人の味がしました。

 

 すみません、すこし話が逸れましたね。とにかくそんな島で、わたしたち兄妹は「東港」を中心にいろいろな海辺を廻り、ある日は黒い岩肌の露出する岩礁の潮だまりで、ある日は粗い砂利の散らばるささやかな浜辺で釣竿を垂れ、魚を持参した刺身包丁でさばき、新鮮なうちに頬張っていました。なにぶん子供ですから、ときどき調理方法が悪くて食あたりするようなこともありましたが、獲れたてのシイラの甘みや焼いたメダイの香ばしさなど、今思い出しても震えそうなほどです。

 今思うととても危なっかしい二人組でしたが、そんなわたしたちに何一つ小言をいう事もなく、寛容に見守ってくれた祖父母や島の人たちには感謝するばかりです。

 

 

 

 

 しかしそんな祖父も、わたしたちにひとつだけ約束させた事がありました。

 

「ええっけか、『蛇が浜』にゃ入っちゃいかんなかあ。島ん何処どがぁ行っても何いんでもええけ、あがなとこにゃ近付かんけだあ」


 「蛇が浜」とは、島の南西部にある浜辺の名前でした。島をぐるりと一周する環状道路のさらに外側、島の中央から伸びる尾根の先っぽが小山になっており、地図で見るとそこには神社を示す鳥居マークと小さな池が載っています。その海に面した側で尾根は二手に分かれ、そのふたつの間に出来た小さな浜辺が「蛇が浜」と呼ばれているのです。

 このことを話す時、祖父の顔にはいつもの穏やかな笑みはなく、どこかぞっとするような気迫を帯びた表情をしていました。

 しかし当時のわたしはとりたてて気にすることもなく、「神社があるようだから入ったら神主さんに怒られるのだろう」などと想像するばかりでした。もとより島の南西部まで足を延ばす事もなかったので、普段は「蛇が浜」の名前を意識することもなく遊びに興じていたのです。

 

 ある日の事でした。たしかその日も今日のような重たい曇り空だったと記憶しています。

 祖父の家の2階、自分に割り当てられた日当りのいい南側の一室で目を覚ましたわたしは、いつものように階下で朝ごはんを食べようと部屋を出て、階段に足を延ばしました。

 そのとき、ふと階下から漏れ聞こえる声がわたしの脚を止めました。祖父の家は階段を下りるとすぐに玄関で、そのため祖父が玄関口で近所の人たちと交わす会話が筒抜けなのです。

 ただ、その日の話がいつもと違っていたのは、声のトーンに普段のあっけらかんとした調子がなく、まるで話をするのもはばかられるようなひそひそ声だったことです。

 

「……先生は、あだんした? 先生……」


 村人の声。「先生」というのはおそらく祖父のことでしょう。祖父は島の名士らしく、住民からは「先生」と呼ばれて尊敬を集めていました。

 彼の声に応えて祖父も喋り出します。いつもの快活な調子は影を潜め、ひどく陰気な声色で喋り始めました。

 

「……マツダさんとこも出からあ話で…………さんのもかまってあるで……」


「女……ひとり……おととい……本土くにから来からぁで…………」


「こがな……しばらく……船は出せなきゃあ……海が……穢れよらあで……」


が揚がらぁでよ……」





 その後、朝食を囲んでいるときの祖父の顔はどこか険しいように思われました。

 朝ごはんを食べ終わると、祖父はさっそく釣りの準備を始めている兄に向かって一言、

 

「釣りん行こわ、よせ」


 とだけ言い切りました。いつになく重たい声でした。

 

「どうして? 今日は潮も速くないし」と兄が訊き返しても、

「よきゃあから。今日だけんなか、もう今年は東京に帰ろまで釣りはせんなきゃ。ええな」とだけ念を押し、寄り合い所に行くと言ってそそくさと家を出てしまいました。

 祖母のほうをちらりと見ても、やはり祖母と同様に真剣な顔でそわそわとしているのです。

 わたしは三和土たたきにいた兄のもとへ向かうと、祖母に聞こえないよう尋ねました。

 

「おじいちゃんはあんなこと言ってるけど、何かあったの……?」

「さあ? シケでも来んじゃねえか?

 それにしても、帰るまで釣りにいくなっつうのはわからねえ。っつかしんどいわ」

 

 兄はそう言うと、釣竿を詰めたスポーツバッグを持ち上げました。

 

「えっ、出掛けるの?」

「釣らなきゃいいんだろ? どうせ家にいてもヒマだしよ。それともお前は留守番してっか?」


 仕方なくわたしも兄についていくことにしました。いくら祖父がこんなことを言っていても、別段見張りに来るわけでもないし……というよこしまな気持ちがあったことは否定できません。

 しかしわたしたちは家を出てすぐ、村一帯に漂う違和感に気付きました。

 日頃は漁師やその奥さんらで賑わう港沿いの通りには人っ子ひとりおらず、たまにすれ違う村人もこっちを見るなり「おめら、こがな日にぶらぶら出歩こでなきゃあわ」と声を潜めて注意するのです。

 どんよりとした曇り空の下、集落はひっそりと静まり返り、まるで息を潜めて何かをやり過ごそうとしているかのようでした。寄せては返す波の音と海鳥の啼き声だけが、じっとりと湿気を含んだ8月の空気を震わせていました。

 わたしも兄もあまりの異様な空気に押し黙り、海沿いの細い小道を無言で歩くほかありませんでした。

 やがて集落の端、人家を森が覆い出すあたりまで来たところで、兄はふっと足を止めました。

 

「どうするよ? なーんか普通じゃねえよな。釣りなんかしてたら大目玉喰らうかも」

「お兄ちゃん、まだ釣りするつもりでいたの?」

「だってよー、昨日ロクに釣れなかったから今日こそ釣るぞ!と思ってサシをたんと用意しちまったし。

 釣りに行けなかったら全部腐っちまうよ、もったいねえ」

「でも、怒られたくないでしょ」

「そうだ」兄はふいに名案を思い付いたという表情を浮かべ、「島の南西に行こうぜ。あそこなら家もねえし、バレることもねえ」

 兄が言っているのは、「蛇が浜」のことでした。

 

「あそこは、ダメだよ……。行っちゃいけないって」

「どうして」

「どうしてって……神社とかあるし」

「バッカだなー、お前」兄は得意げな笑みを浮かべ、「村のヒルコさんの本社のことだろ? あそこ、とっくに人がいなくなって廃墟になってんだよ」

「そうなの?」

「じいちゃんが話してるのを小耳に挟んだから間違いねえ。何年か前に神主が死んで、本土の息子も継ぐ気がねえから困ってんだと。

 昔はお祭りもあそこの池でしてたらしいけど、ずいぶん前から村の分社に切り替えてっからな。それきり行く人もいねえそうで、無理もないわなあ。

 今は年に一度、暮れにみんなで本殿の手入れをしてるらしいけど、なにしろ潮風の烈しいとこだからもうボロボロなんだってさ」

 

 知らなかった。

「じゃあ、あそこに入っちゃダメってのは……」

「一応今でも神社の土地ってことになってるからな。

 ま、とにかく人なんかいやしねえんだわ。前々から行きたかった場所だしな、行くならむしろチャンスじゃねえか?」

「行きたかったの? なんであんなところに……」

「お前なあ、何もわかってねえなあ~」兄はおおげさに溜め息をつきました。兄は昔から、わたしの無知を見つけては心ゆくまでバカにしないと気の済まない人間なのです。

「しょうがねえなあ~、アホな妹のために優しい兄ちゃんが教えてやるよ。

 いいか? この島は黒潮の真っただ中にあって、おかげで魚がよく獲れる。知ってるか? 黒潮」

 

「知ってるよ、バカ兄」わたしはむっとして答えました。

 

「誰がバカだ。

 ……じゃねえ、いいか? 黒潮はほとんどいつも南西から北東に流れるから、普通に考えりゃ一番潮の通りがいいのは島の南西になるわけだ。

 ところがそこには港が無い。港どころか、ロクな部落だってねえのは知ってるよな? どうしてだと思う」

「……港を作るような平たい場所がないだけじゃないの? 崖でしょ、あそこって……」

「それもあるだろうな。でもそれだけじゃねえ。

 答えは、『潮の通りがよすぎる』からだ」

「潮の通りがよすぎる?」

「ああ。黒潮の速さは秒速2メートルくらい、しかもそれが横幅100kmにわたって流れる、まさに海上の大河だ。

 んな強大な流れの前に、昔のショボい漁船じゃ無力すぎるんだよ。流した網を引くのも一苦労だし、ちょっと間違えりゃ網ごと流されてどっかに行っちまうわけだ。怖えだろ? 海難事故の温床だわな。

 だから島の北や東みたいな、適度に潮が溜まる場所でしか漁ができねえんだな。その名残で、今でも島の南西には家一軒建ってねえっことだ」

 

 兄の言う事の真偽はわかりませんでしたが、確かにもっともらしい話でした。

「で、ここまで言えばわかんだろ。島の南西が、どれだけすげえ場所か」

「……潮の通りがこの島で一番いい、釣りスポットってこと?」

「そうそう! アホのお前にしちゃよくわかったな~」兄のにやけ顔にイラつき、脇腹に肘を入れると兄は静かになりました。


「ま、そこに神社が建ってるのもそういうことだろうな。海の恵みへの祈りとか、海難事故への慰霊とか? そういうんじゃねえの、よく知らねえけど」

 わたしは兄のしたり顔を見ながらも、ふと違和感を覚えました。

「……でもさ、南西に港が無い理由は確かにそれっぽいけど。

 もしあそこが今でも釣りスポットならさ、ちょっとくらい栄えててもいいんじゃないの? 家が一軒も建たない理由には……」

「…………そりゃ、お前、神社が建ってんだからさ。神社の敷地内じゃ気軽に釣りはできねえんじゃねえの」

「でも、魚が獲れるんだったら神社なんかより釣りじゃないの? 生活がかかってるんだし」

「きっと昔の人はアホだったんだろ」


 兄は乱暴に話を切り上げ、ずんずんと道路に沿って歩き出しました。目指す場所ははっきりしています。

 わたしはどうするか逡巡しましたが、結局兄の後ろへとついていきました。色々と言ってはみたものの、結局わたしも「蛇が浜」がどんな場所なのか気になっていたのです。また、兄だけがそれを知ってわたしが知らないという状況が耐えられない、という嫉妬の気持ちもありました。

 島をぐるりと一周する環状道路に沿い、ところどころに立ち並ぶ民家の前では足音を殺し、たまに大人達とすれ違いそうになっては木々の後ろに身を隠して数十分、昼下がりになってようやくわたしたちは島の裏側へ辿り着きました。

 環状道路が海岸線に沿っていると言っても、もちろん火山の噴火で出来た島ですから道はおおいに起伏しています。いくつもの尾根を越え、浜辺を超え、わたしはすっかり息も絶え絶えとなっていましたが、釣りに執念を燃やす兄は疲れなど意に介していないようでした。

 小高い尾根の上、天を衝くような木々に挟まれた道路で兄は足を止め、道の左側を覆う森を指差しました。

 

「ここだな。こっから道を外れてしばらく行けば神社がある」


 兄は地図を片手に、膝まである草いきれの中へとざくざく足を進めていきます。わたしも木の棒を手に取り、蛇などいないか内心ひやひやしながら森へと足を踏み入れました。

 夏真っ盛りに育った雑草と複雑に波打つ木の根に足を取られつつ、深い森を慎重に進むこと数分。わたしの額からは大粒の汗が滲み、Tシャツに大きな染みを作っていましたが、それは暑さと疲れのためばかりではありませんでした。

 わたしはにわかに、強烈な違和感を覚えていました。

 この森は進みやすすぎるのです。

 たしかに草々は膝まで伸び、わたしたちの体力を浪費させる存在でしたが、この夏だれもこの先へと立ち入っていないのなら、およそ植物の伸びはこんなものではなかったでしょう。わたしたちは進む事はおろか、森の中に一歩立ち入る事さえかなわなかったはずです。

 何より、森の中を歩いていると明らかに手折られ、踏み折られた形跡のある大草をたびたび見掛けるのでした。鎌か何かで断ち切られたような藪もいたるところで出くわします。雑草の成長力を思うと、それは明らかにごく最近誰かが通った痕に違いないのでした。

 本当にこの先の神社は廃墟なのだろうか?

 その疑問は、同じ道を行く兄もきっと抱いていたことでしょう。しかしわたしたちは口を開く事なく森の中を進み続けたのでした。

 今思うと――口を開けば、誰かに、何かに聞かれてしまう――何故だかそんな、漠然とした恐怖が胸の内を支配していたような気がします。

 そうして10分も進んだ頃でしょうか。わたしはふいに、妙な臭いが鼻腔をくすぐるのに気づきました。それは海辺に漂うなまぐさい臭いをどろどろになるまで煮詰めたような、あるいは魚のわたを鼻いっぱいに詰め込んだような、強烈な臭いでした。

 

「兄ちゃん、この臭い……」

「海風がちょうど吹き付けてるだけだろ。今だけだ」


 その返答は、どちらかと言うと自分に言い聞かせているような調子の言葉でした。

 兄の言葉とは裏腹に、臭気は強くなる一方でした。しかしやっぱり二人とも言葉を発する事なく、そのまましばらく歩き通したときのことです。

 ふいに目の前が明るくなり、かすかな波音が風に混じりはじめました。森の切れ目に来たのです。

 兄の情報が正しければ、この奥にはボロボロの廃墟と化した神社が建っているはずです。

 

「ちょっと様子を見てくる」

 兄はそう口にすると、足早に森を進んで数メートルほど先の切れ目へ辿り着きました。わたしはしばしその場に身を屈め、兄が次に口を開くのを待ちました。

 しかし、兄は何も言いませんでした。

 それどころか、兄は石像のように固まってぴくりとも動く気配がありません。まるで憑かれたように森の向こうの何かをじっと見つめています。

 

「どうしたの? お兄ちゃん、誰かいた?」

「…………」

「お兄ちゃん?」

 わたしはいよいよ痺れを切らし、足音を殺しながら兄の傍へとにじり寄りました。

「お兄ちゃん、何が――」


 わたしは兄の見ていた方向を見て、思わず目を見開きました。

 木々が途絶えた森の一角、そこにあったのは、果たして神社でした。いわゆる一般的な神社よりは控えめの、こじんまりとした社です。

 神社の正面には大人がやっとくぐれるほどの簡素な鳥居が建てられていますが、天辺の島木が外れてしまい、ちょうど「廾」の字形のような不格好な姿を曝しています。鳥居そのものも大きくかしぎ、あと2~3年のうちにはすっかり木片へと還ってしまいそうな危うさを抱かせます。

 鳥居から数歩進んだ先、社殿の壁は吹き付ける潮風のためか大きく撓み、こけら葺きの屋根は湿気を吸って大きく歪んでいます。屋根から伸びたつる植物は軒先からぶらぶらと垂れ下がり、海風に揺れて、遠目にはさながら神社が髪を伸ばしているようでした。社殿正面、かつて観音開きの扉が嵌め込まれていたであろう箇所は蝶番ごと扉が倒れ、ぽっかりと開いた空間になっています。社殿の中は闇に沈み、うかがう事は出来ません。

 神社はやはり廃墟でした。まともな人間ならここに参拝しようなどとは考えないでしょう。

 しかし、わたしたちの目を引いたのは神社ではありませんでした。というより、数秒経ってようやくそれが神社であることに気付いたと言ったほうが正しいかもしれません。

 神社の正面、参拝客が手を合わせるところには、大きな注連縄が掲げられていました。神社の変わり果てた相貌と違い、注連縄はまるでついさっき用意されたかのような真新しいものです。注連縄からは紙垂が垂れ、風に吹かれています。

 紙垂のあいだには別のものがぶら下げられていました。わたしは最初、それを神社に提げられている鈴縄かと思いました。しかしそれは注連縄から何本も垂れ、やはり風にぶらぶらと揺れていました。注連縄だけでなく、神社の軒先のいたるところからそれは吊り下げられ、神社を覆う御簾のようです。

 それは魚でした。腹をぱっくり開いて裏返した魚が何匹も連ねられ、鰓から口へと荒縄を通されてぶら下がっているのです。外に露出した魚の腹からは赤黒いワタがたらりと下がり、魚が揺れるたびどす黒い血がしたたり落ちて地面に大きな水溜りを作っています。「神饌」と記された賽銭箱には垂れ落ちた魚のワタがこんもりと乗り、木目を茶色く汚していました。神社の壁面にも無数の魚が釘で打ち付けられ、だらだらと流れる血とワタで黒い縦縞模様を作っています。

 ときおり魚のワタが動いたかと思いましたが、やがてそれはワタにまとわりつく数十匹のハエの動きだと気がつきました。大量のハエは盛んに魚の周囲を飛び回り、耳をすませば波音に混じってぶんぶんという羽音が聞こえるほどです。よく見ればハエだけでなく、大小さまざまの黒い虫が魚の死骸に集って血肉を啜っています。生気を宿さぬ数十個の魚の目がぎらぎらと光を反射し、風に応じてものいわぬ口をぱくぱくとさせていました。

 わたしはようやく臭いの正体を悟りました。強烈な臭いは、ここから漂っていたのです。

 

「何だ、これ」


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