呪魚
デストロ
序
ひちゃ、ひちゃという湿った水音で目が覚めた。
寝ぼけ眼をこすりつつ、鉄製の硬いベンチから身を起こす。トタン屋根の外、コンクリートで固められた埠頭の一帯にはいつの間にか小雨がぱらつき、吹き付ける横風が雨粒を巻き上げていた。浮き桟橋に係留された貨客船が、荒波に揺られて船体をぶつけ合っている。ごうん、ごうんという鈍い音が曇天の下に反響していた。
雨音に混じり、どこからか機械的な音声がかすかに聴こえる。
『……本日は、くろしおクルーズをご利用いただきましてまことにありがとうございます。
ただ今、10時35分に出航予定のM島行き、H島行き、A島行きの便につきましては天候不良のため、一時運行を見合わせております。
ご不便をおかけし、申し訳ございません。今後の運行予定につきましては検討中ですので、待合室中央の掲示板を――』
「ああ」思わず腕時計を確認する。「危ねえ危ねえ……寝過ごしたかと」
ほっと一息ついた俺はふと違和感を覚えた。妙に肌寒い。海風を見越して重ね着してきたはずなのだが。
ふいに、ひちゃりという水音が響いた。思わず音のほうを見る。トタンの屋根からぽつりぽつりと滴る水滴が、ベンチの上一面に大きな水溜りを作っていた。
雨漏りしているのだ。
俺は自分の身体に目を向ける。ベンチの上ですやすや眠りこけていた俺の服も、必然的にしっかり水を吸い込んで冷たくなっていた。
「――寒い!」
自分の状況を自覚してようやく、俺の身体が芯から凍えていることに気付く。人目のないのをいいことに、慌てて上着とシャツを脱ぐが、今度は吹きすさぶ寒風が直に俺の体温を奪い始めた。たちまち指先から感覚が失われ、小刻みな震えが身体を伝う。
「うわっ、うわうわうわうわ」
「あの、大丈夫ですか?」
突如掛けられた声につい身がすくむ。
顔を上げると、雨の中、セーターの女性が赤い傘を差して立ち竦んでいた。
女性は困ったような表情でこちらを見下ろしている。
「ど、どうも……えっと、どうされました?」
「……? それはこちらの台詞というか、その……寒くないんですか? 上、裸ですけど」
言われてはっとする、そういえば今の俺は上裸だった。
雨の港、服を脱ぎ捨ててひとり奇声を発する男。いまの自分をすばやく客観視し、いかに現状を取り繕うか焦っていると彼女がにこりと笑った。
「ああ、雨漏り。
もしかして寝てる間に濡れちゃったんですか?」
なんという理解力。おれは彼女の慧眼に感謝した。
「え、ええ、つい……お恥ずかしい」
「ここ、古いですからねー。
でもこれじゃ風邪引いちゃいます。係の人に毛布とかないか聞いてみますね?」
「いや、そんな、そこまでしてもらっちゃ悪い……」
おれが言い終わらないうちに彼女はバタバタと待合室の方へ駆けていった。
――恥ずかしい。三十を過ぎてからしばらく無かった真正面からの羞恥におれは黙って肩を震わせるしかなかった。
「それにしても。まだ8月末だっていうのに、こんなに冷え込むこともあるんですねー。異常気象ってやつですか?
あ、これ。どうぞ」
彼女が差し出した毛布に身をくるむと、おれは安堵からほうと息を吐いた。
そのまま、彼女が走ってきた方角に目をやる。
ゆりかもめのS埠頭駅から徒歩数分、東京湾B-2埋立地の片隅。無言で立ち並ぶ巨大な倉庫群の陰、ひと気の絶えた一角に2階建てのビルがちょこんと建っている。ビルの1階は定期運航便――東京湾から南に下ること数百キロ、まっさらな太平洋のど真ん中へ墨を垂らしたように並ぶ伊豆諸島への船――その待合室になっていた。彼女が毛布を借りてきてくれたであろう場所だ。
おれの寝ていたベンチはそこからさらに数十メートル外れ、灰色の海を前にした岸壁にぽつんと置かれていた。おれも先ほどまでは待合室にいたが、つい口元が寂しくなり外のベンチへ一服しに来ていたのだ。
「そうそう、これも。身体、冷えてるでしょ」
彼女はそう言いながら紙コップを差し出した。紙コップにはコーヒーがなみなみと注がれ、蓋の隙間からうっすら湯気を漏らしている。
「いいんですか? わざわざありがとうございます……」
「困ったときはお互い様じゃないですか」
彼女に後光が差して見える。
おれは気恥ずかしさを覚えながら、温かい液体を喉に流し込んだ。氷のようになっていた身体に、コーヒーの温度は驚くほどすぐ染み渡む。
「あぁ~~~~~っ!」
思わず感動の雄叫びを上げてしまう。
はっと思い直して彼女の方をうかがうと、口元に手を当ててくすくす笑っているようだった。
顔がかっと熱くなるのを覚えながら、俺はあらためて彼女を見つめる。
歳は20代前半だろうか。オレンジのセーターにシックな深緑のパンツを合わせ、ウエストポーチを巻いている。
さっきは気付かなかったが、よく見るとお腹がぽっこりと膨らんでいた。肥満体型というわけでもないから、妊娠しているのだろうか。最近の子は進んでいるとは聞くが……。
などと想像を巡らせていると、彼女が口を開いた。
「毛布、船の中で返却してくれれば大丈夫だって。係の人が言ってましたよー。
その、えっと……」
「…………ああ!
わたし、西川です」
「どうも。わたしは晴美って言います。
西川さんはどちらに行く予定ですか?」
「わたしですか? わたしは次のO島行きで。
時間的に、晴美さんも同じ便ですか?」
「いえ、わたしはH島行きの便。この子に、故郷の海を見せてあげたくて」彼女はまんまるのお腹をやさしくさすった。
「10分後に出るはずだったんですけど。この分じゃ、いつになるか」彼女は肩を竦めた。
「急ぎですか?」
「ううん、時間はいっぱいあるので。
西川さんのほうは、O島ですよね。旅行ですか?」
「いや、わたしは……」
「あ! 待ってください、当ててみせます。
んー……西川さん、結構日焼けしてる方ですよね。あと、腕もがっしりしてるし。でもさっき脱いでた時に服の下は焼けてなかったので、泳ぎはしないタイプっぽいです。
それに、荷物がここに無いって事は、待合室の方に持ち運ぶには大きい荷があるってことじゃないですか? となるとー、もしかして、釣りとか?」
おれは目を見開いた。
「ええ、まさしく! 意外にわかるもんなんですね。
O島は黒潮の端っこをかすめてるんでね、本土じゃ考えられないようなおっきい魚が釣れるんですよ! この時期にゃ身も締まってて、もう有り得ないくらいぷりっぷりの……」
言い終わってから自分が身を乗り出していた事に気付き、いそいそと身を正す。「……まあ、そんな感じです」
「あー分かります。
とくにイサキなんか、今頃は脂が乗ってて最高ですよね」
「……もしかして、奥さんも釣りを?」
俺はまたしてもつい身を乗り出した。
「あはは、昔の話ですよー。
わたし、母方の祖父母がH島に住んでまして。小さい頃は帰省のたびに兄に連れられて、毎日浜辺をかけずり回ったりしてたんです」
「へえ、そりゃあいい思い出ですねえ。羨ましい……。
っていうことは、今日もH島へ帰省に?」
俺はそう口にして、ふと彼女の目元に蔭が差したことに気付いた。
彼女は目線を下ろし、何かをくちごもったように見えたが――それはほんの1、2秒のことであった――つと目を上げ、
「……H島の親戚とは縁を切ることになりまして。
祖父の家はおろか、島にも上げるなと言われてるんです」
そうつぶやいた彼女の目はどこか遠く、水平線の向こうの見えない島影を見据えているかのようだった。
「縁を、ってそんな……いったいどうして」
思わず問い掛けて失言だったことに気が付くが、彼女は気にする素振りもみせず口を開いた。
「あなた、魚は好きですか?」
「魚、ですか?
……まあ、好きですけど。とくにこの歳になると肉より魚の良さが……」
「いえ、そうじゃなくてですね……
食べ物としての魚じゃなく、魚という存在そのものについて、です」
「……はい?」
問いの真意を測りかねて俺が答えあぐねていると、彼女は相好を崩して息を吐いた。
「ごめんなさい、突然……でも、ちょっと話させてください。
わたし、小さい頃から魚が嫌いだったんです。
犬猫や鳥と違って何を考えてるのか、そもそも意識があるのかさえよくわからないし。薄暗い海の奥深くから、無数の魚の群れが表情のない目でこっちを見つめていたとき……何とも言えない怖気を覚えたものです。
まるで、屍体の目と向き合っているようで……釣りの最中に、ときどきどうしようもなく怖くなったり」
彼女が目を伏せる。
おれはしばし考えた。なるほど、彼女の言わんとしていることは分からないでもない。
「あー、言われてみると確かに不気味ですよね。動物と違って目に生気がないし、感情も見せないし。
でも、どんな魚も釣り竿ごしに闘っているうちに、生命の力強さ……みたいなものを感じるもんです。わたしにしちゃ、魚は食料でもあり良きライバルってとこです……恐れるもんじゃありませんよ、あはは」
「じゃあ」彼女はふたたび目を上げこちらを見つめた。「あなたは、魚に呪われたことがありますか?」
彼女はそこで言葉を切り、しばし何かを考えているようだった。鉛色の空に覆われた埠頭は静寂に沈み、海鳥が絞り出す甲高い泣き声ばかりが波間に反響していた。
おれはあまりに突飛な彼女の言葉に、二の句が継げず思考が停止した。彼女はいきなり何を言い出すのだろう?
やがて彼女は目を細め、ふたたび喋り始めた。
「すみませんね、いきなり。こんなこと言ったら、可笑しいでしょうけど……。
わたしね、魚に呪われたことがあるんです」
「……それは……、夢か何かの話です?
申し訳ないですが、呪いとかオバケとかは信じてなくて……ましてその、魚の呪い……というのは、ちょっと」
「違います、違います。すこし言葉選びを間違えましたね。
正確に言えば……これは、呪いとかお化けとかとは全く関係ありません。本当に起こったことなんです」
彼女の表情を見ると、先ほどまでの柔らかな笑みは消えて真剣そのものだった。俺も思わず口元に浮かべていた愛想笑いを打ち消す。
またしても彼女は何か思案しているようだったが、しばらくした後彼女は口を開いた。
「普段、この話はしないんですけど……あなたになら、分かってもらえるかもしれません。
少し、わたしの身の上を話していいですか。
ちょっぴり、長い話になりますが――」
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