上から下から後ろから

HiraRen

上から下から後ろから



 じっとりとした匂いが鼻をついた。


 わたしにとっては不愉快な匂いであり、サービスエリアの大型トイレにはお似合いの匂いだった。中年に差し掛かろうとしたわたしの身体にも矛盾のない匂いのように思われた。

 里帰りと言えば聞こえはいいが、時世を鑑みれば非常識な行動なのかもしれない。

 口と鼻を押さえつけるようなマスクは不愉快な口臭に湿っている。

 高速道路の渋滞表示板には悲劇的な事故渋滞の表示は出ていないが『不要不急の外出は控えましょう』とか『県をまたぐ移動は控えましょう』といった文言が並んでいた。

 妻の実家は北東北の市街にある。東京から遠路……十数時間は陸路でかかる。

 何度目の里帰り、何度目の両親との再会、年度目の宿泊……。

 心が晴れ晴れとした旅程ではないが、日比谷や浜松町で歯車のように働く日常よりかは数百倍もマシだった。


 混雑ぎみのサービスエリアに燕が空を滑ってゆく。


 トイレの前で妻を待ちながら、お盆休みの連休前に支店長が発した夕礼の内容を反芻した。


『東京での感染者が非常に増えています。総務部が通達を出している通り、お盆休みの旅行や帰省はやめてください』


 言っている事はまっとうだ。

 その全体伝達を塗りなおすように課員へわたしが伝達する。


「感染者が増えているから、総務部通達のように旅行とか帰省は控えるように。もし熱が出てしまった場合は……」


 バターのぬられた菓子パンにマーガリンを上塗りするような胸焼けが、思い出すたびによみがえってくる。それはコロナ感染対策を重ねて伝達したからではない。こうした二重、三重の伝達がわが社の社風であり『会社は明確な指示を出しています。それなのに罹患してしまうのは、社員個人の問題です』という責任の押し付けが実行されているからである。


 総務部は『感染対策』として在宅勤務を全国の支店と各営業所に伝達している。

 営業部は『売上目標』を声高に叫びながら出勤とクライアント訪問を推奨している。


 我々、営業部員は在宅しつつも営業成績を確保しながら、コロナに罹患せず、かといって日常生活を円満に送りながら、わずかな給料で上司に文句を言わず、頭を低くして生き続けなくてはいけない。


 サラリーマンとはそういう生き物なのだ。


 全国のテレビCMを打つ大手企業に就職して、課長級になったとしても……この閉塞感からは免れない。


「おまたせ。結構、トイレが混んでてさ。いっつも女子トイレって混むのよね」


 トイレから出てきた妻はそう言って矢のように飛び退った燕に「うわっ、びっくりした」と肩を竦める。

 そうして眉を寄せて。


「なんか、すごい牛糞の匂いするね」


 そう呟いた。

 わたしは静かに頷いて。


「牛糞の匂いだな」


 自分に言い聞かせるように繰り返した。



* *



 旅程を考え、そのままサービスエリアのレストランへ入った。

 強気な料金設定の昼食であったが、普段は食べることのないご当地の食事に箸は進んだ。レストランの中に牛糞の匂いは漂っておらず、清潔で、混雑で、繁盛しているようだった。

 旅程や妻の実家の話をしながら食事を続けているとき、ふと向こう隣のテーブルから男性客の声が響いてきた。

 ウェイターの若い男性に対して。


「おかしいじゃないか。上から失礼しますって。上からじゃなくて横から持ってきてるんだから、上からじゃないだろう。しかもこっちから来たから、後ろから失礼しますが正しいだろうが」


 どうやらウェイターが差し出した盆の位置が気にくわなかったらしい。

 五十代ぐらいの男性客は、同年代の仲間と四人でテーブルに腰かけて「上じゃないだろう、後ろからだろう。なんでそんな当たり前の事がわからないんだ」と憤っていた。

 妻はその様子を肩越しに見て。


「くだらない」


 短くそう言ってお茶を啜った。


「なんであんなことで熱くなれるのかな?」

「さあね。我々からみたらくだらないけど、あの人にとっては重要な問題なんだよ」

「店員さんが食事を持ってくる『位置』のことが?」


 不可解だよね、と言いながらも『不可解なのか』と反問する自分が居る事に気づいた。

 ホールの店員は三名で業務をこなしている。そのうちのひとりがクレームを受けているせいで、レジには客が並び、来店客はベルをちんちん鳴らし、厨房からは小走りに女性ウェイターが両手に料理を持って「少々お待ちくださーい」と尖った声を発している。

 未だに怒りがおさまらないのか「上から下から後ろからおじさん」は店員の顎髭や爪や表情といった部分にまで指摘をし始めた。指摘を受けるウェイターの男性が長いあごひげを蓄え、長い爪にマニキュアを塗り、ひどい接客をしていたわけではない。彼はごく普通の青年で問題を起こすような接客はしていないのだが……。


「わかる気がするなァ」


 ぽつりとわたしは呟く。

 妻は携帯に気を取られていて、視線をあげる事はしなかった。

 浜松町や日比谷のオフィスビル群を相手にしていると遭遇する人種がいる。

 それは電力会社や鉄道会社などを親会社に持つ、関連子会社の役職付のクライアントだ。アフリカの小国よりも売上高のある超巨大企業に庇護された彼らは『お客様は神様だろう? こっちは客なんだぞ?』という態度で物事を押し付けてくる。

 今の時代に上下関係や対等な、平等な、という文言が飛び交っているにもかかわらず、彼らは『我々が上であんた達が下なんだよ』という態度を取り続ける。

 そんな人々が全国展開する各店や支店の『合理化』や『電子化』を推し進め、どんどん現場の人員を減らしてスマート化を図っている。

 未だにウェイターを叱り続ける男性客が、そうした権力の一角を握っている確証なんてない。ただ、あの怒り方、沸点の到達の仕方は……浜松町や日比谷の法人客と同じもののように思われた。

 彼らの意見は絶対的な正義であり、決定は司法よりも尊く、取締役や親会社の役職者は地球や月を創造する事すらできると考えているのかもしれない。その一方で、自分たちのグループ会社に所属しない人間たちには、たとえ非道な流血を求めたとしても責任を問われないとでも思っているのだろうか。


 ウェイターの青年がやっとのことで解放された。


 長く伸びたレジの列を抜けて会計へと取り掛かる。


「わたしさ、ああいう自分が一番偉いって思ってるヒトって嫌いだな」


 妻がぽつりと言った。


「好きな奴なんていないよ」

「でも、偉いんでしょ? 社会的に」

「社会的に偉くなってしまったから、勘違いしてるのかもしれないよね」


 そう話を合わせておいた。

 でも、たぶん……少し違う。

 社会的に偉くなった人の多くは、たいがい腰が低い。

 わたしが強く批判したいのは、電力会社や鉄道会社といった超企業の庇護にあやかっている関連子会社の役職付だ。どういう経緯で役職を得たかはわからないが、俺の後ろには××がいるんだぞ、という昭和の不良みたいな空気をぷんぷんと漂わせる。


 滑稽だ。


 滑稽な連中に、我々は頭が上がらない。


 帝国のような大金を持っているから。


 汚い金である。


 わたしはズズズっとお茶を啜ってため息をついた。


 そういう連中に頭を下げて獲得した金のおかげで、こうして妻の実家へと里帰りが出来るのだと思うとうんざりする。どうして世界はこんなにも汚れて、牛糞のような匂いに満ちているのだろうか。

 畜産農家を批判するつもりはないけれども、どうにもこの醜悪な匂いに慣れることが出来ない。一日でも早く慣れることが出来れば、わたしももっともっと出世するのかもしれないが……。


「人間なんてさ、自分が一番正しいと思ってるんだよ。自分の目線が常識で、自分の肩幅が正常な肩幅だと思ってる」


 わたしの意見に妻は頷く。


「でも、それを押し付けたらダメよね」

「ダメダメ。相手がそう思っているかなんてわからないんだから」


 言いながらも、その調整がすごく難しくて、サラリーマンの使命はそこにあるような気がしていた。

 ウェイターが「前から失礼します」と述べてお皿を下げて行った。

 彼らの行動のどこに文句があるのだろうか。

 そもそも、そんな「前から」「後ろから」「横から」という『失礼します』に意識すら向けたことがなかった。

 浜松町で客先をまわっているときは、前からだろうが後ろからだろうが、左だろうが宇宙だろうが大西洋だろうが、どこからでもオーダーした牛丼が出てくれば文句はない。お金も払うし、手を合わせて「ごちそうさま」も言うし、回転率を落とさせないために食ったらすぐに立ち去る。

 そこまで思考が至ったとき……ふとわたしは呟いた。


「前から失礼します、に気を配れないほど、わたしは盲目的な人間になっていたのかな」

「なにぃ、それ?」

「信号の色が『青』じゃなくて『緑っぽい色』だろう? それなのにわたし達は『青』という。子どもだったら疑問に思う事をわたしはもう『疑問に思わない』わけだ」

「それだけ他の事で忙しいのよ。いちいち気にしてたら、神経がおかしくなっちゃうわ」


 妻はそう言って伝票を手に立ち上がった。

 わたしも後を追うように立ち上がる。

 単純な疑問に神経を使わず、ああいった横柄な大人たちへ神経を使う人間になってしまった。それは良し悪しではなく、悲しい事柄のように思われた。

 会計に並んでいるとき、妻が「ねえ、もう一回だけトイレに行ってもいい?」と耳打ちしてきた。


「行っておいで。払っておくから」


 出発前にもトイレに行くのはいい事だ。とくに女性トイレの混雑ぶりは、たぶん男性のわたしには理解できない。

 レストランを出て行った妻の後姿を見送りながら、わたしは会計の列に並び続けた。

 クレームをつけられていた青年が「伝票をお預かりいたします」と何事もなく会計を進めてくれた。

 彼はあれだけの事を言われ、なにも感じないのか。

 いや、感じているはずだ。

 感じているのだが、なにも感じないように『神経』が働いているのかもしれない。

 本来、子どもなら感じていたはずの『神経』が生きるために回路を変える。

 わたしも彼も同じなのかもしれない。

 どうして被害者なる存在が心の形を変え、加害者たちは平然と味噌汁を啜り続けることが出来るのだろうか。

 財布から金を払い、レシートを受け取る。


「ありがとうございました」


 青年がそう言ったとき、わたしは千円札を彼に差し出した。


「えっ……?」


 頂きましたけど。

 そういう顔をする彼に、わたしはなにも言わず立ち去った。

 チップだよ、と言ってしまえば汚らしく聞こえた気がするし、金額も千円という少額で後ろめたかった。

 立ち去ってしまうと彼がどんな表情をしていたか確認することは出来なかったが……次の客の相手に忙殺されて、追ってくるような事もなかった。

 レストランを出るとわずかに牛糞の匂いが漂った。

 食後の口臭がマスクのなかに充満しているのかと思い、わずかにハッとしたが……そうではない。


 牛糞の匂いはどうしても慣れない。


 その匂いを感じながら、わたしは自分本位な権力者たちの行動をどう批判できるだろうかと考えたが、うまい答えなど見つからなかった。

 わが社の総務部がコロナ感染対策で在宅を推奨しながら、営業部は売り上げ確保を声高に叫んでいる矛盾のように、この社会はひどい矛盾と悪臭に満ちているのかもしれない。


 わたしはうんざりした。


 お盆休みの連休が終われば、また酷暑の東京で、気の狂った浜松町や日比谷で禿げ始めた頭を下げる仕事が再開する。


 そう思うと……確かに『神経』がどうにかなりそうだった。


 わたしは物販のコーナーを抜ける際に、傍らに置いてあった玉こんにゃくの袋をサッと手に取ってポケットに押し込んだ。

 自分自身が正しいと誰しもが思っている。


 でも、それは万人がそう思っているわけじゃない。


 改めて自分に言い聞かせながら、妻を待つためにトイレへと向かった。

 短い休みの帰還なのだから『神経』をちょっとだけ休める時間にしなくてはいけない。

 わたし達は『人間』であり、抑圧されていい人間など誰一人としていないなずなのだから。

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