『The Last of Us part2』再考 ーゲーマーは現実に解放されるのかー

椿恭二

『The Last of Us part2』再考 ーゲーマーは現実に解放されるのかー

 「ゲームはルールメイキングの芸術である」——飯田和敏



 個人的な「ゲーム・アワード」を発表すれば、2020年は間違いなく『The Last of Us part2』の年だった。

 2021年。あれから、一年が経った。そこでもう一度、あの作品の産み出したものについて考察してみたい。


 ゾンビ版『子連れ狼』、『ロード・トゥ・パーディション』、コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』だった前作『The Last of Us』。(更なる元ネタがあるだろう)

 パンデミック直後に娘を失った一介の運び屋のジョエルという「父なる存在」が、ゾンビに支配された世界で、謎の病原菌に唯一の抗体を持つ「娘なる」少女エリーを病院まで送り届ける旅路の物語だ。そこで多種多様な人々と出会い、殺伐とした世界を生き抜き二人は親睦を深め、本当の親子のようになっていく。

 そのエンディングは、ジョエルがワクチン完成によって死ぬことになるエリーを助ける。つまり人類よりも大切な少女の救うことで、パンデミックに終止符を打たなかった。世界救済ではなく死んだ娘と重ね合わせた少女を選択する、という極めてグロテスクな擬似家族の成立のエンディングだった。

 しかし、『The Last of Us part2』はその先を描き切ったと言えるだろう。


 本作のオープニング早々に、複数の視点が交錯していき、この物語がシンプルな一面的なものではなくなるであろうことを示唆する。自分が今、一体誰を操作しているのか不明瞭にすることで、プレイヤーのアイデンティティの揺らぎそのものが浮かび上がる。それがゲームのテーマであることを、見事にコントローラを持つ直感的なインターフェイスで分からせるのだ。


 開始早々、前回の擬似家族は崩壊している。エリーの思春期で、「父なる存在」は威厳を失い、少女は大人に向けて自立しようとしている。そこでプレイヤーには不穏な空気が流れる。せっかく「僕が守ったエリーちゃん」が、自分の言うことを聞いてくれないような、見放された感覚に陥るのだ。

 エリーを「僕だけの可愛い娘」、として前作同様に消費しようと意気込んでいたプレイヤーは、ここで裏切られる。それはジョエルがパンデミックの収束、人類の運命と引き換えに、自身の歪んだ少女への愛を満たした結果の果てだ。だから、その先に二人に健やかな未来が待っているはずがないのだ。

 しかし、プレイヤーは再び、二人だけのストーリー(擬似家族)の妄念に囚われたいがために、迷走することになる。


 そのまま物語の冒頭で、唐突にあまりにもあっさりと、前作でプレイヤー自身の分身であったその父なるジョエルは殺される。「これはゲームなんだからハッピーエンドだ」という想いや、「なんとか生きているに違いない」という希望を打ち砕くように、その埋葬まで入念に描き、本当に死んだことをアピールする。

 前作でジョエルは百人以上を殺めることの可能なゲーム・システムになっている。つまり、ヒロイズムを持ったキャラクターだが、反面では単なる殺戮狂に過ぎないのだ。しかし、プレイ・キャラクターである以上は、ゲームを進めてきて感情移入してしまったプレイヤーにその自覚はない。


 前作の熱心なファンほど言い訳をする。「あのジョエルがこんなに簡単に死ぬわけがない」と。では、その保証はどこにあるのだろうか。この終末世界で、一瞬の油断を見せた人間は死ぬ。それが前作の一貫したテーマであり、油断すれば子供までも死に至る。そこでジョエルはミスを犯したに過ぎない。

 前作の主人公だからといって、そこで一人だけ特権を与える意味はない。圧倒的にドライな死。それが本シリーズのそもそもの肝のストーリーであるのにも拘らず、ジョエルの死を認められないのは、これが「ただのテレビゲームだから」、というプレイヤーの油断があるからに他ならない。


 距離を置きながらの生活だったジョエルとエリー。そして新しいレズビアンの恋人・ディーナとの恋路もあり、新たな人間との出会いにも目覚めていた。彼女はもう独立した存在だ。前作のようにプレイヤーが過保護になる必要もない。

 ディーナはユダヤ人だ。廃墟の礼拝所でトーラー(正典)を見て、エリーが彼女やユダヤの信仰に触れていく。これを宗教の多様性、と言葉にするのは簡単だが、開発当時に起きたであろう、米ペンシルベニア州ピッツバーグでユダヤ教礼拝所(シナゴーグ)が乱射被害に遭い、11人が死亡した事件についての、ドナルド・トランプ米大統領による数々の発言についてのアンサーであることを推測するのは容易だ。


 しかし、どうしても熱心なファンほど、「僕が守ったエリーちゃん」の、レズビアン、ユダヤ人の恋人の現実を受け入れられない。

 前作のラストのエンディングが、自分の欲望を満たした歪んだ男の物語であることを忘れて、愛と絆、などというチープな言葉にこのゲームを還元したがる。しかし、エリーは自分が生きているのは、その「父なる存在」が、世界の生ではなく自分一人だけの生を選んで嘘をついていたことを知っている。

 世界救済よりも娘を重ねた少女を選ぶ、エクストリームに過保護な父。それがジョエルなのだ。そしてエリーもその真相を知っているのだ。

 前作のクライマックスに、手術を前にした病院で大虐殺を行ったプレイヤーが、意思決定の行えない昏睡状態のないエリーを抱え、小さなユートピアに脱出したこと。

 全ては世界を守ることをやめて、更には嘘をついてまで支配的な愛を提供したジョエルと、そのエンディングを歓迎したプレイヤーの否定なのだ。


 それでも、当然エリーにもこのジョエルの死は受け入れ難い。そして娘なるエリーの復讐の旅は始まる。残虐非道の限りの旅路だ。

 無規制版でプレイすれば目を見張るゴア描写のオンパレードで、鉈で切られた喉から血が吹き出し、人間も感染者もショットガンで首も腕も吹き飛ぶ。リアルタイム生成の傷跡の描写も『ノーティー・ドック』のグラフィック・エンジンの脅威を目の当たりにさせた。

 「シアトル2日目」では、吐息だけがパラメータと関係なく激しさを増し、その狂気の追体験にプレイヤーも飲み込まれていく。ここが、ゲームというメディアの現段階の一つの到達点であることは間違いない。


 だが、不毛に反復させられる殺戮で、プレイヤーの感覚は麻痺していく。ひたすらに現れる敵を殺すしかない。時間軸もダイナミックに進むわけではなく、あえて小刻みにすることで、僅かな短時間でエリーが狂人のように殺人行為を繰り返しているように錯覚させる。そしてプレイヤー自らもシンクロニシティして、前作で「父なる存在」として「僕が守ったエリーちゃん」が、どんどんとコントロール不能な存在になっていくように錯覚させられる。

 ここで、前作でプレイヤーが操作したジョエルが殺された意味が分かる。つまり「俺を殺した敵を殺せ」というプレイヤーの復讐心の焚き付けの精神メカニズムだ。それは、行き過ぎたラディカルさで描写され、コントローラーの先で一種の狂宴に同調していく。

 しかし、この意地の悪い製作者はその行きすぎた、ある種の空虚なカタルシスに突如としてバイアスを掛ける。


 突然、視点はプレイヤーが愛するエリーから、ジョエル殺害の犯人であるアビーへと転換する。アビーは鍛え抜かれた、野生的な風貌の戦う女戦士だ。

 誰も「僕が守ったエリーちゃん」以外のキャラクターをプレイしたい欲望などない。しかもこのキャラクターはジョエル、つまり「自分殺し」の張本人なのだ。

 しかし、この製作者はまるで復讐の鬼と化したエリーを全否定するかの如く、このアビーの持つヒューマニズムを描くことに終始する。

 彼女の性を真っ向から描き、彼女の愛した友人、組織、つまりエリーの残虐非道を行ってきた敵が全て一人一人が名前を持った仲間で家族である世界を、これまでもかと美化して描写する。

 なんとエリーがなんの感慨もなく、ただの敵キャラクターとして無慈悲に殺戮したカルト教団、そこから逃げ出した兄妹を助けるために、組織の命令に反して命を賭すことすらアビーは辞さない。

 最終的には彼女のバックグラウンドが、プレイヤー自身が手をかけ殺した(実際に前作のクライマックスで銃のトリガーを引いた)、父の復讐という両者の二重構造に気付かされる。

 そして、二人の少女の運命がいよいよ交錯するその日、「最大の仕掛け」が用意されている。それはプレイヤー自身で味わって頂きたい。


 どんどんとプレイヤーを置き去りにして浮き彫りになっていく、エリーとアビーのお互いの禍々しくもある「父なる存在」への愛の形。それを錯乱させながら次々と展開していく様は、本来は両者の復讐の先にある自己肯定を決して目的としない。

 では、「父なる存在」とは何か。

 ゲームの開発時代はトランプ政権だった。トランピスト、そこから産まれた様々な歪んだ思想にここではあえて言及しない。しかし、「父なる存在」にドナルド・トランプという人物が意図的に重複させられているのは明白だ。


 クライマックスで、レズビアンとのパートナーとの幸福なを捨てたエリーは、アビーへの最後の復讐の機会を得る。

 「これではジョエルとエリーの物語ではない」という批判も出た。

 だが、思い出して欲しい。

 その対決でまさにアビーを殺そうとする瞬間に、どうしてエリーがフラッシュバックしたジョエルの姿でその手を止めるのか。それは「復讐は何も産まない」などというチープなメッセージではない。

 ジョエル。つまり超えていかなければならない、全ての命をかけて自分を守った「父なる存在」の最後の言葉を思い出すその瞬間に、エリーはジョエルの言葉の真の意味を理解し、その存在を超えていくのだ。そして気が付いた本当の愛によって引き止められて殺せないのだ。

 そこにはアビーも自身の父を殺されているという、お互いの父性への愛への回答がある。

 故に、これは前作からの引き続き、ジョエルとエリーの屈託した愛の物語なのだ。


 最後に、彼女がレズビアンになったことも『ノーティー・ドッグ』の仕掛けた最大の仕掛けである。これは単なる「ポリコレ対策」ではない。

 まずはレズビアンとしてのエリーを描写することで、「前作であなたが守った少女の全てを肯定できるか?」という挑戦状なのだ。

 「君たちは一種の性の吐口としてエリー(美少女)を消費したいのだろう?」という、強烈なミソジニー批判に他ならない。


 このゲームのラストでエリーは、パートナーと幸福に暮らすことを選択せず復讐を選び、ディーナと共に「親なる存在」になることを自己否定してしまう。

 そこで子供を持つ「親なる存在」になったパートナーに見捨てられることになる。その瞬間、ゲームはフィクションの殻を破る。

 浮き上がるのはレズビアンのカップルの持つ、この現実社会での厳しいレイシズム、リアリティ表現以外の何ものでもない。

 パートナーに唯一の救いを求めたプレイヤーは、そこでも歯痒い思いをする。平和で凡庸なゲーム・ストーリーならば、パートナーが手を振って、死地から帰還した彼女を待っているのが当然だと思うはずだ。だが質素な農場に誰もいないその絶望は、「可愛いエリーちゃん」に耽溺した全てのプレイヤーそのものを、これでもかと否定するために計画されている。


 いくらそんな設定があろうと前作で「可愛いエリーちゃん」と「それを守った僕」という世界に耽溺している一部のプレイヤーは、このストーリーテリングとゲーム・システムには嫌悪感しかないだろう。

 「ゴリラ女」と蔑称を浴びせてアビーを罵倒し、「なんで僕に可愛いキャラクターを操作させてくれないの!」と、騒ぐ。それは、典型的な美男美女に溢れていなければゲームではない、というプレイヤーのそれこそグロテスクな思い込みだ。じきに耐えられないその想いは、自分の社会や実生活でのルサンチマンを解消させてくれない「ゲームそのもの」へ恨みを向ける。

 そこで全く別のものが露わになる。


 「何でこんなマッチョな女を操作しなくちゃならないの?」

 「可愛いエリーをもっと操作させてよ!」

 「ゴリラ女のセックスなど見たくない!」

 「エリーのレズのキスなんて気持ち悪い!」……。


 YouTubeやAmazonのレビューで飛び交う、激しい差別用語の数々……。

 プレイヤーの深層心理で隠匿していた差別意識。多様性を認める、と言いながらも、心の奥底では本当は「気持ち悪い」と思っているものが、これでもかと溢れ出してしまった。

 そう、『The Last of Us part2』という、たった一本のゲーム作品が、ゲーマーという大衆が実は隠し持っている強烈なレイシズムやルッキズムの意識を最も簡単に明らかにするのだ。


 「作者の持つポリコレ思想は別の作品でやればいい、これはラスアスなんだから」

 「だってゲームでしょ? ポリコレを持ち込まないでよ」


 逆に問いたい。何故、『The Last of Us』という、そもそもが極めて歪なゲームの続編で社会的なメッセージを訴えてはいけないのか。

 作者は社会問題に切り込むメディアとしてゲームを活用し、プレイヤーを裏切ることを想定してはいけないのか。

 むしろ、この作品だからこそ出来るものがあったのではないのだろうか。

 その先に、ゲームから現実に還元されるメッセージを込めてはいけないのか。


 この部分の批判者は、前作『The Last of Us』のラストシーンが本当に感動的なものだと思っているのだろうか。別のゲーム作品ならまだしも、あのエンディングからの続編であれば、これは当然の結果だ。


 それも含めて『The Last of Us part2』は、価値のある大傑作と言っても過言ではない。

 プレイヤーの全ての「選択」の先で、プリミティブな「愛」なるものが暴走する。

 それは時に、自分自身の見たくない部分まで、最も簡単に露呈させる。

 

 日々、コロナウィルスの感染拡大は進む。

 この世界には感染者として凶暴化したゾンビはいない。だがコロナ禍で、この作品でゲーム・プレイヤーに潜む深層心理から浮き彫りになった問題は、まさに現実でも、政治家によるLGBTQ、人種差別問題、広告代理店によるルッキズム……。多岐に渡るそれらはゾンビや略奪者よりもタチが悪い。

 最終的には、国際的なスポーツ祭典の開会式で空虚に流れたゲーム音楽と、政治利用されたにも拘らず歓喜したゲーマー。

 

 『The Last of Us part2』は、終末世界の復讐譚だが、現実投影以外の何物でもない。 

 その果てには何も残らなかったのかもしれない。だが、我々の現実ではそうであってはならない。

 思い出して欲しい。最後のエリーの背中には、何かが芽生えている。ラストカットのギター越しに彼女が進むべき道は、ゲームという閉鎖されたコンテンツの中から、プレイヤーを解放する。

 その解放されたゲーマーが、実世界で何を見るのか。考えるのか。それこそが、このゲームからの挑戦状なのだ。

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