森の孤独

ハルカ

Waldeinsamkeit

「自然に取り返されるときはあっというまだなあ」というのが、父の口癖だった。


 潮風にさらされて朽ちた船。

 廃墟の屋根を突き破り、大きく枝葉を広げる木。

 草に隠されて立ち入ることのできなくなった古い山道。


 そういったものを目にすると、父は決まってその言葉を口にした。

 人間の手によって作り出され、人間の手によって整えられ、人間たちのために使われるそれらは、わずかでも気を抜いた瞬間、容赦なく自然に取り返されるのだと。

 それは人間自身も例外ではなく、油断をすればあっけなく自然の中に呑み込まれる。


 だとしたら、父も今頃は自然のどこかにいるのだろうか。


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 俺が中学三年生の冬、父はいなくなった。


 蒸発だ、と周囲は言った。神隠しだと言う人もいた。行方不明者だと警察は言った。親不孝者だと祖父母は言った。変わり者だが恨みを買うような奴ではない、と父の友人たちは口をそろえた。あのひとは自然に還ったのだと母は寂しそうに微笑んだ。母が言うならきっとそうなのだろうと、俺は思った。


 二歳年下の弟は、父がいなくなってからふさぎ込むようになった。

 学校には通うものの、それ以外は家にこもり、家族ともあまり口をきかないようになってしまった。祖父母も母もずいぶん心配して、医者にせたり親戚に相談したが、一向に快復のきざしは見られなかった。


 学校でクラスメイトから嫌なことを言われたのかと思えばそうでもなく、むしろ教師をはじめ周囲は気遣ったり優しい言葉をかけたりしてくれていたらしかったが、家に帰れば父のいない現実を否応なく思い出してしまう。それが辛いようだった。

 俺も何度か弟に話しかけてみたが会話は続かず、どうしようもないまま兄弟の仲が離れてゆくのを感じていた。


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 その日は唐突に訪れた。


 いつもは部屋にこもるばかりの弟が、その日は元気な姿を見せ、あまつさえ家族に微笑みかけたのだ。

 どうしたのかと聞くと、弟は「夢の中で父さんに会った」と答えた。


 それからというもの、弟はすっかり元の明るさを取り戻した。

 だが一方で、よく風邪をひくようになった。


 夏でも冬でも関係なく寒がり、頭から毛布を被って寝るようになった。注意深く様子を見ていると、どうやら寝起きがとくに寒いらしかった。あるいは眠りながら震えていることもあった。そんな日は押し入れから毛布を一枚出して重ね、それでも震えが収まらないときには足元に湯たんぽを忍ばせてやることもあった。


 家族はまた心配して弟を医者にせたが、やはり何の病気も見つからなかった。


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 弟が中学三年生になった年、俺は高校二年生になっていた。

 父がいなくなってから一年以上が過ぎていた。


 弟は塞ぎ込んでいたことなど忘れたかのように暮らしていたが、相変わらず風邪をひきやすかった。

 俺はというと、昼間は同級生たちと同じように学校へ通っていたが、放課後になればまっすぐ帰って家の手伝いをした。俺の家は古い農家で、父がいなくなったあとは誰かがその穴埋めをしなくてはならなかった。

 親戚もちょくちょく手伝いにきてくれたし、食うには困らなかったが、学校の勉強だけはどうにもならなかった。


 十七歳の夏休み、俺は大量の宿題を前に頭を抱えた。


 これが普段の宿題なら先生に聞くこともできるが、夏休みに家でやる宿題となるとそうもいかない。友人に聞くにしても、一方的に世話になるのは気が引ける。

 さいわいなことに、一番苦手な教科である数学は、先生がわざわざ時間を作って補習をすると申し出てくれた。


 数学の関口先生は少し変わった人で、「俺はなぁ、お前らがこの問題を解けようが解けまいが、どうだっていいんだよ。だがこれだけは覚えとけ。俺の受け持つ生徒から落第者を出すのは絶対に許さん」と言ってはばからなかった。


 ずいぶんと大人げない物言いだったが、俺はこの先生の本音を隠さないところがわりと好きだった。ある日、先生を見習って俺もそんな本音を伝えてみると、先生は顔をしかめてこう言うのだった。


「お前なぁ、そんなアホなことを言ってる暇があるなら一問でも多く解け」


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 朝の涼しいうちは家で農作業の手伝いをして、昼は教室でセミの声を聞きながら補習を受け、夕方はまた作業を手伝う。そんな日が続いた。


 はじめの頃はあまりの忙しさにうんざりしていたが、それはすぐに変わった。先生がこっそりアイスを用意してくれたのである。それも、他の生徒が来ている日には出さず、俺だけがいる日に限ってこっそり出してきてくれるものだから、俺はますます関口先生に懐いてしまった。


 先生は自分のを買うついでだと言っていたが、その日の補習の出来が良いほど高いアイスをくれたので、やはりあれは俺にやる気を出させるためのものだったのだろう。

 先生のおかげで、俺は補習を受けに行くのが楽しみになっていた。

 補習の終わりに食べたアイスの冷たさが胃に残っているのを感じながら帰る時間が好きだった。


 そんな調子だから、数学の宿題はみるみるはかどった。そろそろ補習も終わりかと思われた頃、先生から「他の教科の宿題もやれ。ついでに面倒を見てやる」と、なんともありがたい言葉をもらった。

 家にいるとどうしても農作業の頭数に入れられてしまうため、学校に来るほうが勉強もはかどる。最近では弟も少しずつ家の手伝いをするようになっていたため、俺は引き続き補習を受けさせてもらうことにした。


 数学の宿題が終わっても、やはり先生はアイスを用意してくれた。

 二階の教室の窓から見える青空と入道雲を眺めながら食べるアイスは格別だった。きっと俺は、このあたりで売っているアイスを一通り味わったに違いない。


 アイスも楽しみだったが、俺にはもうひとつの楽しみがあった。

 それは、たまに先生が補習の合間にしてくれる雑談だった。教師という職業柄か、彼はいろんなことをよく知っていた。


 雪の結晶の形を見れば上空の気温や水蒸気の量がわかるのだという話や、ヒマワリは花が咲いたあとは太陽を追わなくなるという話、ドイツには「森の中で孤独に過ごすゆったりとした寂しさ」を意味する言葉があるという話。


 そのどれもが、狭い農村から出たことのない俺にとって興味深いものだった。なかでも強く興味を引かれたのは、何度も同じ場所の夢を見る人の話だった。


 子どもの頃に遊んだ野山。行ったことのない大きな駅。真っ直ぐに伸びた大きな道。

 そういった場所が、繰り返し夢の中に出てくるのだという。しかも、同じような経験をしている人は他にもいるらしかった。


 人がたくさん集まる都会。

 いつ行っても温かく出迎えてくれる宿。

 見たことのない本ばかりが並ぶ図書館。

 雲の上を突き出て月まで行ける塔。


 最初のうちは夢だとわかっていても、繰り返し訪れるうちに愛着がわいてくる。

 その話を聞いているうちに、もしかしたら夢の中に現実とは違う世界があるのではないかという気さえしてきた。


 夢という言葉を聞き、ふと弟のことを思い出した。

 弟がいつも寝起きや寝ているときに寒がるという話をすると、先生は「ふぅむ」と考え込んだ。「もしかしたら、夢の中で寒い場所にいるのかもな。北極とか、鍾乳洞の中とか」


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 そんなふうに過ごしているうちに宿題はどんどん片付き、最後に国語の作文が残った。夏休みの出来事を書くという課題だが、あいにく農作業と補習の日々で、書くことがない。


 関口先生に相談すると、彼はにやにやと悪い笑みを浮かべた。

「なんだよあつしぃ、書くことならあるだろう? 『数学の関口先生に丁寧でわかりやすい補習をしてもらいました。とても頭が良くなりました。今度の中間試験はラクショーです。』って書いときゃいいんだよ」


 あつし、と下の名前で呼ばれるのは先生の機嫌が良い証拠だった。

 それはたいてい他の生徒がいないときで、特別扱いされているみたいで少し嬉しかった。


 それはともかく、課題は原稿用紙に五枚以上と指定されている。

 国語が得意な生徒ならともかく、五枚ともなるとサッと書ける量ではない。関口先生の言う通りに書いたら三行で終わってしまう。それでは国語の金子先生が許してくれるはずもない。


 頭を悩ませる俺を見て、関口先生は困ったような顔をした。


「悪いな、国語は苦手なんだ」


 意外な言葉だった。

 先生は数学以外の教科も器用に教えてくれていたから、できないことなんてないのだと思い込んでいた。

 理由を尋ねると、彼はこう言った。


「数学の教科書には真実のみが書かれているけど、国語の教科書には虚構が混じるからな。漢字や文法や言葉の意味なら教えられるが、そこから先はお手上げだ。とくに読解は知らない世界の話をされてるみたいで……って、おい。今のは金子先生には内緒にしとけよ」


 それなら化学や物理や地学はどうか、歴史はどうかと尋ねると、思った通り理科系は得意で歴史は国語よりも苦手だと答え、同じように歴史の松本先生には言うなと念入りに口止めされた。

 まるで二人だけの秘密ができたみたいで嬉しかった。


 結局、作文は補習の時間に一文字も書くことができなかった。


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 その夜、俺は夢を見た。


 真夏だというのに、足元は一面の雪に覆われていた。

 辺りはひらけていて見通しが良い。すっかり葉を落とした裸の木が並んでいる。

 どうやら俺は、どこかの山の頂にいるらしかった。


 雪が音を吸収してしまうのだろう、あたりはとても静かで物音ひとつせず、風の音さえ聞こえない。

 空は灰色の雲に覆われていて、太陽は見えなかった。今はやんでいるが、もしかしたらまた雪が降るのかもしれない。


 ふと、人が立っているのに気付いた。


 少し背の低い、でも大人だとわかるがっしりとした身体つき。顔はよくわからないが、黒いジャンパーをまとうその体形に見覚えがあった。

 相手は耳慣れない言葉で何かを言い、遠くを指した。

 そちらへ視線を向けると山の稜線が見えた。そして気付く。この山は家から見えるのと同じ山だ。

 不思議なことに、雪の上にあるのは俺の足跡だけだった。彼はもうずいぶん前からここにいるのだろうか。


 そこで目が覚めた。


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 翌朝、俺は学校へ電話した。

 用務員さんが出たので「今日の補習は休みますと関口先生に伝えてください」とお願いした。


 そしてすぐに山へ向かう。

 山といっても標高わずか500メートルほどで、慣れた人なら30分も歩けば山頂へ到着するはずだ。

 緑の葉を広げる夏山は、夢で見たあの雪山とはまるで違って見えた。山道を登ってゆく俺の周りに、アブやヤブカやメマトイなどの虫たちが寄ってきた。手で払いながらなんとか進むが、次から次へとやってきてキリがない。


 そのとき、どこからかオニヤンマが現れ、俺と寄り添うように飛び始めた。

 森の緑を混ぜ込んだような目玉、黒と黄色の縞模様、そして繊細な羽根。その姿を見るなり、他の虫たちはどこかへ逃げてしまった。


 やがて山頂に到達し、夢の中に出てきた人物が指したほうへ向かう。

 足元は熊笹に覆われており、かき分けながら進んでゆく。

 突然、オニヤンマが目の前を横切った。慌てて立ち止まり、ふぅと息を吐く。


 ふと、空気が変わった。

 下から水の音が聞こえる。よく見れば、熊笹は途中で途切れ、崖下は沢になっていた。

 覗き込むと、沢に人の姿が見えた。


 いや、それはもう人ではなく、魂が抜けて服と骨だけが残っていた。黒いジャンパー。あの夢に出てきた人物――行方知れずになっていた父が着ていたのと同じ服だった。


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 後日、父の葬式が行われた。


 祖父母も母も弟も、悲しむというよりほっとした様子だった。

 父はあの山でイノシシと遭遇し、逃げる途中で転落死したらしかった。傍にイノシシの死骸もあったのだという。

 弟に雪山の夢の話をすると、自分も雪山で父に会っていたと言った。話している言葉はわからなかったが、たしかに存在を感じたのだと。


 告別式の参列者の中には関口先生の姿もあった。

 いつも教室で見せる表情とは違って、厳しい大人の顔をしていた。

 俺は先生に、補習はもうしなくて大丈夫ですと伝えた。

 先生は頷いた。


「そうだな。親父さんが家に帰ってきてくれたものな」


 今までありがとうございました、と深く頭を下げる。

 薄々気付いていた。先生は俺の父親代わりをしてくれていたのだと。


 葬式のあと、俺は最後に残った宿題をやることにした。

 原稿用紙五枚分の作文。まっさらな原稿用紙は、あの雪山の白を思わせた。

 まずは最初の一文字。鉛筆を動かしてゆくと、続きは驚くほどすらすらと出てきた。


 そうして俺は、あの不思議な夢と父のことを書いていった。

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