天之蒼蒼 其正色邪

長尾たぐい

#1

 花がこちらを誘っている。侑は吸い寄せられるようにその絵に近づいた。ぼやけた緑が広がる縦長の額装の中、妖しく光を放っている。庭の中でこの花だけが特別なのだ。それに呼ばれたのは彼だけではなかった。一頭の黒い蝶が今まさに花弁へ止まらんとしている。その翅の中央部は花と同じく強く輝いている。こちらの光は警告だ。埃っぽいスニーカーを履いた足はそこで止まった。

 中山槙野の『異境』は展覧会の開始2日後に入選を取り消され、展示中止となった。主催はこの作品が応募規定の「自己の制作したものに限る」という部分に反したとだけ発表し、その後は沈黙を貫いた。氏名から推測された彼女の属性と、この件の関係についてのさまざまな憶測は、会が閉じるより早くその寿命を迎えた。


 コピー用紙を折った簡易の名札に書かれた文字は、彼女の纏う雰囲気とはかけ離れた稚拙なものだった。

「じゃあ、私から自己紹介を。情報学部の中山槙野です。こんな感じだけど、一緒に課題をやるのに特別な手伝いの必要はないから心配しないで」

 眼鏡の弦に右手をあてて彼女は微笑む。水先案内【パイロット】ってやつでしょ、と侑の隣の派手な服装の女子学生が言った。

「よく知ってるね」

「私の親、福祉関連の公務員だから。ていうか、眼鏡めっちゃオシャレだね」

 槙野は女子学生の名前を呼び掛けつつ礼を言った。残りの学生2人が動揺したように彼女の顔を凝視する。

「こうやって、情報は適宜拾えているんだ」

 その顔に浮かぶ表情はその反応を楽しんでいるようにすら見えた。そしてその言葉通り、講義時間内に彼女が抱えたハンディキャップを侑たちが意識することはなかった。

「――中山さん! あの、さっきの講義で一緒になった杉本です、訊きたいことがあって」

 講義の後、ひとり情報学部棟へ向かう槙野を侑は追った。衝動と焦燥によるその行動は、彼に口から出すべき言葉の順序を誤らせた。

「その、『異境』の色は鳥の世界のものなんだよね?」

 ああ、と得心したというように頷きながら、槙野は左手を眼鏡の弦にかける。

「だから、君は槙野の名前を見たときにあんなに驚いてたんだ」

 薄暗く狭い廊下にそう声が響く。槙野は閉じた口唇の端を微かに持ち上げていた。


 中途失明者の多くがインプラントを経由して脳で直接画像データを読み込むことが可能になった頃、中山槙野はぼやけた視界とともにこの世に生を受け、十を数える前に認識の手段から完全に視覚を失った。

 脳の発達を妨げる可能性があるために、先天的に視覚に問題を抱えた人間はインプラントを埋め込むことはできない。彼らは従来そうであったように、視覚以外から得た情報をもとに世界を把握し、それに脳は適応していく。音、温度、平衡、匂い、感触。それでも、彼らが技術の進歩の恩恵を受けられないというわけではなかった。

 四肢のあちこちに取り付けたセンサから情報を収集し、身体の動かし方の癖をパイロットと呼ばれる拡張知能に渡す。そうして蓄積したデータと、各デバイスから収集した画像・音声データをもとに独自のアルゴリズムを生成し、パイロットはユーザーの生活をサポートする。

 自分の母が、自身が開発していた高度感性処理モジュールのプロトタイプをパイロットに仕込んだのは、己の持ちうる手段の全てで娘をサポートしたいという親心と、単純な好奇心の結果だと、人気のない自販機コーナーの長椅子に座って槙野は笑った。

「バレたら青少年育成時情報制限法で槙野のお母さん逮捕されちゃうから、これは内緒ね」

 槙野は静かに紙コップのコーヒーに口を付けている。茶目っ気に溢れた槙野に瓜二つの声に侑は苦笑した。ここまで自然に余分なやり取りができる拡張知能は、おそらく今でも個人が利用できるものではない。

「でも、松野がいなかったら私は絵を描いていなかったと思う。私が感じているものを、ひとりで2次元に落とし込むのはちょっと無理がある」

「日本画を選んだのは、骨描きまでの過程があるから?」

 分類があまり意味を成さなくなったとはいえ、日本画に分類される絵は輪郭線を引いてから彩色するという手順を取ることが多い。

「そう。松野が画像から抽出したエッジをもとに触図を3Dプリンタで出力する。私がそれに修正を施して、2次元の線に戻したものをスケッチとする。で、松野が器体【ボディ】を使って和紙への転写と骨描きをする」

「それが理由で失格を?」

「うん。先生が道場破りになるかもしれないって言ったことが本当になっちゃった。私のことを腹立たしく思う人もたくさんいたんじゃないかな。先生は、それで良かったって言っていたけど」

 何かに裏切られた者が抱える悲しさを横顔に湛えて、槙野は呟いた。

「いや、たとえ機械的に抽出した線がベースだとしても、あの絵の大事なところはそこじゃない。俺はあの色のことがずっと、知りたくて」

 侑はそこで言葉を切った。対象が持つ色をもっと表現できるようになろう、お前はもっと伸びる、という声が脳の底を滑っていく。深夜に家計の相談をする両親の声、高校の担任教師の目に浮かぶ困惑の色。

「じゃあ、見せてあげるよ。手を出して」

 そう言って槙野は自分が指先に嵌めていた指輪のようなものを外し、侑の左手の指に付け替えた。

「紙コップの縁近くのコーヒーの色」

 指に微かな刺激を捉えた。ゆっくりと槙野が顔を動かす。

「コカ・コーラ社の自販機の色。その隣にある築40年の自販機コーナーの壁に落ちた影の色。窓越しの木の葉の色」

 その後も次々と刺激が送られる。

「私の眼鏡の右側にはカメラがついてる。150dBのダイナミックレンジ、5000万画素のスナップショット式16バンドマルチスペクトルカメラ。ピクセルごとの波長を松野が処理してる」

 刺激には区別がつくものと、つかないものがあった。感嘆の声を漏らす侑に、静かな声で槙野は告げる。

「言っておくけど、見えない人全員がこの違いを分かるわけじゃないよ。私はこれに向いていたし、それなりの時間をかけて訓練をした。晴眼者だってそうでしょう。見える人全員が優れた描き手ではない」

 最後の一言に、侑の胸は引き絞られるように痛んだ。もうとっくに慣れていたはずの痛みだった。

「そうだね、絵は選ばれた人のものだ」

 その言葉に漂う僻みの気配に侑自身が心底うんざりしきっているのに、それは何度でも脳から染み出してくる。

「違う。絵はあらゆる人のためのもの。子供だろうが大人だろうが、目が見えようが見えまいが」

 侑は思わず下げていた頭を上げた。槙野の面はこちらに向けられている。眼鏡の奥、閉じられた瞼の奥から真剣な眼差しが向けられているのが侑には分かった。

「どうやって『見る』んだって思った? ――他者を介するんだよ。絵を見て、そこに何があると認識して、それの象り方や色がどうなっているか、そしてそれらから何を感じたか。それを教えてもらう」

「それは、他人が見た絵でしかない」

 侑の喉から絞り出された声はかすれていた。自分の目で良く見ろ、見たままを描けばいいんだ。そこから始まる。

「君たちだって、光がなければ何も見ることはできないのに?」

 間髪入れずに槙野が鋭く言葉を放つ。窓から差し込んだ光を反射して侑の指先が鈍く光る。

「君は、『異境』が鳥の見る色だって言ったよね。制作の過程から言えば、その見方は正解。あれの彩色のために、紫外線を拾える20バンドのカメラを使ったから」

 槙野はずっと侑の方を向いている。指に伝わる刺激は一定のもののように侑には感じられた。もし、今も20バンドのカメラで見つめられていたら、何かが変わるのだろうか。

「でも、どうして君はあれが鳥の見る色だと思ったの。君の錐体は紫外線を捉えることはできないのに」

 侑は答えに窮した。あの時、考えるより先に直観でそうと確信したのだ。黙り込んだ侑に、槙野はまた違う問いかけをする。

「ねえ、君が今までで見た中で一番美しい色をしたものは何?」

 清冽なあおが侑の脳に蘇る。疲労で腫れあがった足、背中に張り付く汗。ここは神様のための場所だ、と確信した時のことを。

「……小さい頃に、初めて登った山の頂上から見た木々の色」

「それは、今見てもその色をしていると思う?」

 いいや、と短く侑は答えた。成長してから見たその山の写真は、もっと落ち着いた色をしていた。そう理解してもなお、その色は彼の脳に横たわっている。

「人間は色情報を完全に記憶できない。俺が初めて登った山の色は、――こうして思い返すたびに言葉や感情で少しずつ変わっていく」

「――それでいいんだよ」

 穏やかな声が響く。

「私が送る刺激は光の波長そのものじゃなくて、槙野が私に送った感覚や感情のデータを組み込んで再編したもの。槙野が悲嘆に暮れた時の空の青と、楽しい思い出を作った時の空の色がたとえ同じ波長でも、それらは同じ刺激にならない」

「誰かが見た色は、本当はある瞬間のその誰かだけのものだけど」

 槙野は侑の指から銀色の輪をそっと抜いた。

「私は松野の力を借りて、誰かが見たかもしれないその色を描く。そこに私が感じたものを織り混ぜて。それを見て、人はまた何かを感じ取る。それが私の感じたものとどれくらい同じなのかは、あんまり興味がない。ただ、私が描いたものを通じて、何かを思ってほしい――君にはそういうことはない?」

 ある、と呟いた声の震えも、涙で揺らいだ光彩も、指摘するものはいなかった。薄く汚れのついた窓の向こうには、青空が広がっている。

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