リハーサル
秋野てくと
本文
「本番に強い人はいいんだよ」
先生の指示で、僕は鼻にマスクをつける。細いケーブルのような管が鼻孔に挿入される感覚があった。嗅覚を刺激する飛沫物質を調合・散布するデバイスの重みで、顔の重心が前に傾く感覚があった。
現在、頭部には合計三種類のデバイスが装着されている。
「いきなりぶっつけ本番でも成功する人はいるよ。生まれ持った資質、才能ってやつだね。だが、たとえ才能がなくても、世の中にはやるべきことをやらなきゃいけないときがあるんだ。そういうときに身を立てるものはなんだと思う」
「……練習、ですか」
「そうだよ」
プシュ!という起動音と共に、鼻孔の感覚細胞が奇妙な匂いを捉えた。鉄のようなキリキリと鼻を刺す鋭い匂いと、じっとりと湿った生ごみのようなすえた匂い。反射的に嘔吐しかかるが、喉にのぼってきた胃液を無理やりに飲み干す。
この匂いはそう、死臭だ。
嘔吐に耐えた僕の姿を見て、先生は上機嫌に口笛を吹いた。
「安心していい。私の見たところ、君はどちらかといえば才能がある方のようだ。あとは
頭部に装着した視覚デバイスが、目の前の手術台に一人の人間の
だるんと膨らむだらしない腹に、赤い傷が一つ。今回の
「まずは『初級編』だ。今回は
「はい」
先生の指示で、僕はデバイスを装着した手袋越しに
すると、
「不思議なものだろう。表面をなでるあいだは、かなりの精度で触覚を再現できるんだよ。ただし、中身は存在しない。今後は
中身?
と、表情だけで
「心配せずとも、中身はスーパーで買えるような、食用に販売している合法的な肉と骨だよ。その上に描画して人間の
先生は僕に
「さて。まずは、人の形を切ることに慣れてもらう必要があるからね」
当然ながら、僕は医者でもなければ、医者の卵でもない。
もしそうなら、本物の人間の遺体を使って、合法的に解剖の経験を積むことが可能だからだ。わざわざ非合法すれすれの
僕はこれから一人の人間を殺害しなくてはならない。
そして、その遺体を完璧に処分する必要があるからだ。
遺体を解体し、肉と骨を完璧に切り分ける。肉や内臓は細かくバラバラにし、骨は野焼きを行なって粉末にする。遺体の解体は腐敗との戦いである。迅速に、かつ的確に。解体した肉体を適切に処分することができれば、一人の人間をこの世から消すことができる。
遺体が露見しなければ、人を殺したとしても殺人事件とはならない。
それは殺人ではなく、ただの失踪だ。
「お疲れ様。お世辞ではなく、君は筋がいいよ。何回かやれば
僕は鼻をすすりながら言った。
「ひどい臭いをずっと嗅いでると、鼻が馬鹿になりそうです」
「それも
先生はいたずらっぽい笑みをした。
「ところで、技術の進歩というのはものすごいですね。まさか、人を殺さずに殺人の練習をすることができるようになるとは思いませんでした」
「
それから先生は、
そして
たとえば舞台における演劇や興行では、空っぽの劇場の上に満員のお客さんを描画してから練習するのが一般的となった。これによって練習と本番のギャップが埋まり、演者たちは緊張せずに本番を迎えることができるようになった。
高度な訓練ソフトを俗に
その後、
「練習は成功の母である」という当たり前の法則は、練習に必要なコストが下がれば下がるほど実用的なものとなったわけだ。
そして、人が思いつくあらゆる技術は軍事利用される。これも世の宿命である。
だが白兵戦の訓練において、標的に人間の
しかしその批判は結果的に、ある醜悪な技術の悪用を招くことなった。
もとより先進国では無人ドローンを用いた遠隔操縦による爆撃など、戦争の
そこで先の
「
無邪気に
「遠慮しておきますよ。戦争で何十人と殺すのは大変でしょうけど、僕の場合は憎んでる人間を一人殺すだけですからね。むしろ、一回だけの経験なのだから、殺した実感がないともったいないです」
「それもそうか。やってみれば殺人でさえも、大した
先生が笑う。
「あらゆる技術は軍事利用される。そして、犯罪行為にも利用されることになるわけだ。非合法の犯罪行為の
殺人。誘拐。強盗。テロ。
あらゆる犯罪行為は
雑談も終わり、その後何度か『初級編』を繰り返したのち、本日の
先生は――そう、『先生』と名乗るくらいなのだから――ずいぶんと話好きというか、教えたがりらしい。
次回の『中級編』の予約を取っているあいだ、一つ、面白い話をしてくれた。
「なぁ君。昨年に某国で起きた、首都銀行の強盗事件を覚えているかい」
「もちろんですよ。犯人グループの手際が良かったことが話題になっていましたね。分刻みのスケジュールでグループが行動して、完璧な連携のまま現金ごと首都を脱出したって」
先生は重大な秘密を打ち明けるような口ぶりで、こう語った。
「あれはね、
「えっ」
「たった一度の強盗計画のために、首都を丸ごと再現した
リハーサル 秋野てくと @Arcright101
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